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2015/05/05

マナ観念と霊魂観念

 デュルケムはマナ観念から霊魂が発生したと説明するのに苦心している。

 マナは非人格的であるのに、霊魂は「人格性の基底」だともされる。この矛盾をデュルケムは、霊魂のこの性格は「後期の哲学的洗練の産物である」としている。マナは霊魂から派生した。

 しかし、霊魂観念がマナ観念から派生するからといって、霊魂観念が比較的後期の起源であるとか、歴史のある時期には、人間は非人格的な形態の宗教力しか知らなかった、などということには、けっしてならない。プレアニミズム(preanimisme)の語によって、アニミズムがまったく知られなかった歴史的期間を指すと解するならば、それは独断的な臆説を作るものである。霊魂観念とマナ観念とが共存していない民族はないからである。したがって、双方が別々の二時点で形成されたと想定するのは根拠がない。そうではなく、すべてが双方が際立って同時代のものであることを証明している。個人のない社会が存在しないと同じように、集合体から脱する非人格力は、そこで自らが個別化する個人意識に化身せずには、構成されえない。実際、そこには異なった二過程があるのではなくて、同じ唯一の過程の異なった二形相があるのである。もちろん、それらは、重要さにおいて、等しくはない。すなわち、一方は他方よりいっそう本質的である。マナ観念は霊魂観念を前提としない。というのは、マナが個別化して特殊の霊魂に寸断されうるためには、まず、マナが存在していなければならないし、かつまた、霊魂観念は、それが個別化するときにとる諸形態に依存してはならない。これに反して、霊魂観念は、マナ観念に関連させてはじめて了解できる。この点で、霊魂観念は二次的形成の結果である、といっていい。しかし、それは語の論理的意味での二次的形成にかんするものであって、年代的意味においてではない。(p.60、『宗教生活の原初形態〈下〉』)。

 「マナ観念は霊魂観念を前提としない」というなら、「霊魂観念もマナ観念を前提としない」といってもいい。双方は、「同じ唯一の過程の異なった二形相」ではなく、それぞれが独立した思考によるものと見なせるからだ。マナ観念は非人格的で、霊魂は人格的と対照的に観察されたのも、それぞれの独立性を示すものであって、デュルケムのように、「後期の哲学的洗練の産物である」と解釈しなくてもいいものだ。

 霊魂観念が個別化を促す。霊魂は「個別化したマナである(p.56)」、「霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのものである」とデュルケムが言う時、それは、霊魂が概念として成立する過程で、霊力も霊魂化されてみなされるようになった経緯を指していると言ったほうがよいのではないだろうか。霊魂思考の側から見た霊力が、「各個人の内に化身したトーテム原理そのもの」というように。

 思うに、霊魂概念の成立は、自己幻想の分離や内面の成立の淵源をなしているのではないだろうか。


『宗教生活の原初形態〈下〉』

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