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2015/05/13

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』(後藤明)

 柳田國男の「物言ふ魚」から採った後藤明の『「物言う魚」たち』。ゆっくり味わって読むべき内容だけれど、余裕がないので、著者には申し訳ないけれど、琉球弧の精神の考古学に引き寄せてメモしておく。

 まず、南太平洋の神話、民話から「蛇」と「鰐」に与えられている性格について、後藤の言うところを整理すると下記の図が得られる。

Photo_3

 「蛇」は先オーストロネシアと言われており、「鰐」は人間に近いとされるので、精神の考古学からみれば、「鰐」は「蛇」よりも新しいと捉えられる。各集合をそれに沿って時系列化すると、

 1.蛇   脱皮型の死の起源 
 2.蛇と鰐 卵生・土中誕生
 3.鰐   外皮の思想 

 この順位が得られる。それは別の観点からも言えると思う。

 「死の起源」は文化の始まりとしてこの中で最古に位置づけられる。また、「卵生・土中誕生」は、ぼくの考えでは他界の空間化に対応している。琉球弧でいえば、洞窟の奥、向こう側に他界の空間を思考したとき、「土中からの誕生」という神話が生まれる契機を得る。また、「卵生・土中誕生」は「竹中誕生」との分布と共通するという。「竹中誕生」は人間と植物の同一視の観点を含むが、これは「卵生・土中誕生」が、原始農耕の始まりを背景に持つと示唆するものだ。そして、「外皮の思想」は、ぼくの考えでは霊魂概念の成立を意味する。

 「蛇」と「鰐」の新旧は、後藤の記述を得ると、別の観点からも言える。

Photo_4

 後藤は、「祖霊観念が発達すると」と注釈して、蛇や鰐が「祖先の魂の化身」とみなされるとしている。そこでは、蛇と鰐は等価だが、しかし、人間に変身する話が多いのは蛇で、人間が変身する話は鰐に多い。セピック川流域には鰐男の伝説が多く、「鰐は人間と互換可能な存在として描かれている(p.171)」。違うもの同士に同じものを見出す霊力の思考は「蛇」に働き、違いを注視する霊魂思考の働きは「鰐」に向けられている。この点からも、蛇は鰐よりは古いと見なすことができる。

 また、メラネシアとポリネシアを典型例として出せば、蛇や鰐のいないポリネシアでは、蛇は、鰻や蟹、貝に、鰐は鮫へと変換される。

 以下、気になる箇所をメモしていく。

 1.イェンゼンによれば、ウェマーレ族では、「女神ハイヌウェレと鰻が同じ役割を果たす」。

女神ハイヌウェレと鰻は同義であるなら、死体化生型神話の原型には殺された蛇・鰻類の体から作物が発生するという形式があって、人格神が発達すると人間ないし神の体から発生するという形に変形してのではないかと私は考える(p.113)。

 「人格神が発達する」というより、自然からの疎隔化ではないだろうか。自然から離れてしまったところで、植物との同一視が働き、人間が殺害される。それは人格神を発達させる要因でもある。

 殺害されるのは、女性ばかりでなく、男性も多いことを後藤は強調している。「死んでココ椰子を発生させるのは男性としての鰻である。さらにポリネシアの特質として、死んでほかの作物を発生させるのはやはり男神である傾向が強い(p.114)」

 ひとつの視点として、鰻→男性としての鰻→男性→女性という系譜があるのではないだろうか。この場合、男性の過程があったのは、男根崇拝である。

 cf.「イェンゼンの「殺された女神」」「原ハイヌウェレ型神話」

 2.人間が食われる

 「セラム島のウェマーレ族では、少年がイニシエーションのとき、蛇ないし鰐をかたどった像に呑み込まれ、その腹の中で一度死に、また再生するという儀礼がある(p.167)」。

 南太平洋では、人間を食う役は「鰐」だった。

 3.ソールイガナシとスク

スクに関する儀礼は、稲作の行われない久高島では、ソールイガナシという神男によって仕切られる。ソールイガナシには五十代の男性が選ばれる。スクが寄ってくるか否かは、ソールイガナシに選ばれた人の徳によると考えられていた。そして島ではスクは海から"湧いてくる"と表現されている(p.217)。

 これは、男子結社と漁撈の関係を示唆するものだ。

 後藤は大切なことを書いている。

 神話学者はしばしば海と山、あるいは水と陸を対立する概念と考えてきた。たしかにそれは重要な視点ではあるが、人々の生活感覚の上では、その連続性が同時に重要である。とくにここ数年間、東南アジアや南太平洋の調査を通して、圧倒されるようなマングローブ林での生活を見てきた私にとってはそう思えるのだ。湿地は底知れぬパワーを感じさせる空間である。ベトナムの詩人は降竜湾に広がる干潟を見てこう語った。「降竜湾は潮の花園。そこには日々を甘く香らせる、とびきりの果実が限りない」と。この詩を聞いて、私は大潮の日に姿を現す、宮古群島の八重干瀬の情景を思い出した(p.254)。

 ぼくたちも共感できるところだ。


『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』


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