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2015/05/30

「アースダイバー(古層Ⅰ-縄文系)」

 中沢新一は、「縄文と弥生の見分け方」について、書いている。

 縄文人は、自然エネルギーの全体量が、つねに一定に保たれているような世界を生きている。狩猟や採集中心の彼らは、動物や植物に姿を変えた自然エネルギーを、自然の霊力の主(モノヌシ)からの贈与としての贈与として受け取っている、そのとき、自然界から人間界へのエネルギーの移動がおこるだけで、全体としては、エネルギー総量の増減はおこらない。
(前略)水田による稲作をはじめた弥生式の社会では、自然にたいして投入された量よりも、ずっと量の大きい収穫がもたらされる。人間の開拓した領域でだけ増殖がおこり、自然循環からもたらされるものをはるかに超えた「利潤」がもたらされる。弥生社会でjは、そういう利潤の思想に合致するように、宗教や文化もその形を変えていった。
 そこでは、狩猟で殺した動物の霊を、もとの循環に送り戻すために、儀礼をおこなうのではなく、循環を超越した「神」に向かって、生け贄や供物の捧げ物をおこなう宗教が発達する。そういう儀礼で、豪勢な動物の供物などが捧げられているのを見て、「いかにも縄文的だ」と考えるのは、間違った「アルカイズム幻想」である。そこにあるのは、すでに弥生式のイデオロギーによって変形された、狩猟文化にほかならない。

 よく分かる、と言うべきだ。中沢が「縄文」と言っているのは、ぼくの言葉に置き換えれば、霊力思考の全面的な展開であり、「自然界から人間界へのエネルギーの移動がおこる」のは、霊力の転移だ。

 「生け贄や供物の捧げ物」は、霊力思考に対して霊魂思考が分離し、前面に立ったものに他ならない。

 ぼくがまだうまくつかめていないのは、「ふゆ」の祭儀を通した霊力の増殖が、琉球弧ではどうなっているのか、ということだ。年中、緑にあふれている琉球弧では、霊力は活動を止めない。「宇宙エネルギーの大いなる交換と循環」の「再開」である「はる」が、冬との明瞭な区別をつけていない。それでも儀礼的にあるのか、むしろ夏の盛りを衰弱の時期ととらえて儀礼を行なうのか、確かめなくてはならない。

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