『戦場ぬ止み』
「戦場ぬ止み」(いくさばぬとぅどぅみ)。戦場に止めを、という意味だ。現在の琉歌から採られているとはいえ、大和言葉を琉球語読みしているので、二重に分かりにくい。けれど、その分だけこの言葉が呪言(クチ)のように響いてくるし、それで当たっているのだと思う。
ひときわ存在感を放っているのは、島袋文子さん(85才)。米軍の手榴弾、火炎放射器を洞穴で浴びてなお生き残った彼女は、人生の落とし前をつけるように、工事トラックの前に立ちはだかる。私をひき殺してからきなさない、と。ふと、「女や戦ぬさきがけ」(女は戦争のさきがけ)という言葉を思い出した。しかも率いているのは、沖縄という船ではない。彼女が実現したいのは、日本を優しい国にしたいということだ。本土の沖縄化。それは、本土にも基地を作れという意味ではない。本土もかつての沖縄のような優しい国にしたいということだ。これが「戦場ぬ止み」という呪言が実現したいことであり、彼女はまるで日本という船を率いているようだ。をなり神はすごい。
辺野古基地建設阻止の運動を率いるリーダーの山城博治さんの動きには敬意を覚えた。彼は、怒ったかと思えば笑わせ、笑ったかと思えばな泣く、そして踊る。彼の人柄は、この運動をやわらかで自由で闊達なものにしていると思えた。大衆運動は、窮地にあるひとりの仲間を全員で助ける。自己責任なんて言ったら成り立たない、という言葉には、新しいコミュニティの萌芽すら感じた。
三上智恵監督の意図なのかは分からないが、ここにはいわゆる活動家は出てこない。イデオロギーがあるわけではない。駆けつけているのはふつうの島人たちだ。その分、あまりにも柔らかく壊れやすいものが、あまりにも硬くて壊れないものと衝突していることが、手に取るように伝わってくる。しかし、三上監督は、建設を進める者も、容認する者も、反対する者も生身の人間であるという視点を手放さずに映し出していた。この映画はもちろんハードなテーマを扱っているのだけれど、伝わる印象がとてもソフトなのは、そういう監督の視線からやってくる。その分、過剰なハードさを装う政府の姿がその対極に浮かび上がってくるようだった。
上映が終わると会場からは拍手が湧いた。ぼくは先行上映を観に行ったのだが、本上映は7月からとある。それは動かせないにしても、事態はいまも進んでいることを思えば、はやく上映してほしいと願わずにいられない。
公式サイト:『戦場ぬ止み』
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