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2015/05/14

アマム(ヤドカリ)の位相

 ぼくはこれまで、琉球弧にヤドカリ(アマム)のトーテムを認め、その前段を蛇と考えてきた(cf.「脱皮論 メモ」)。では、「蛇」に対する「ヤドカリ」の位置づけをどう考えたらいいだろう。

 ぼくたちは後藤明の『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』から、「蛇」と「鰐」の違いについて見てきた。ひと口にいえば、「人に似ている鰐」と、鰐をそう位置づければ、「人に似ていない蛇」という対比があった。どちらもトーテムになっているが、「蛇は人間に化身する」のに対して、鰐は「人間が鰐に化身する」。人を助けることがあるのも鰐だ。

 この例を用いれば、ヤドカリは「蛇」類型だろうか、「鰐」類型だろうか。

 ぼくは「ヤドカリ」の前段に「蛇」を認め、そこに通底するものを脱皮だと見なした。この視点でいえば、ヤドカリも蛇タイプである。そしてそれは、蛇のいないポリネシアにおいては、脱皮による死の起源が、「蟹」や「貝」に変換されることからも確認できる。「ヤドカリ」は「蟹」と同位相にあると見なせるから、「蛇」は「ヤドカリ」に変換されうるのだ。そういえば、南方熊楠は、「金毘羅に詣る者蟹を食わず」と蟹トーテミズムの痕跡を見ようとしていた(cf.「南紀特有の人名」『動と不動のコスモロジー』)。

 けれどまたそこからは、ヤドカリに対して、蛇と同様なトーテムの観念を抱いていたかどうかは分からない。ぼくたちが見聞できる範囲では、「人間はヤドカリから生まれた」という伝承だが、証拠のひとつである入墨では、「後生に入るために必要」とも言われている。宮古島では、入墨がなければ、「死後、先祖が迎えて入れてくれないばかりか、その罰として牛の糞をつかまされる」。八重山では、「後生で竹の根を掘らされる」(高山純『縄文人の入墨―古代の習俗を探る』)とも言われている。この場合はすでに、他界が生まれた後の段階を指しているので、他界が発生していない「蛇」タイプに遡行できるかどうか分からない。

 また、国頭で「窪み岩」の足跡をつけたとするアマンチューの伝説(たとえば、伊藤清司「沖縄の兄妹婚説話について」にある佐喜真興英『南島説話』の引用『〈沖縄〉論集成 第5巻―叢書わが沖縄 沖縄学の課題』)や、アマン神(cf.「兄妹論 メモ」)などの神格化は、「蛇」タイプでも「鰐」タイプでもどちらの場合でも可能だろう。

 後藤明は前著のなかで、台湾やフィリピンでは蛇と蟹は同じ水棲動物でも明確に対比されているとして、「日本の南島でも蛇を退治してくれるのは蟹ないしヤドカリで、それは人間に恩を返す"報恩譚"として伝えられている(p.75、『「物言う魚」たち』)」と書いている。たしかに蟹が鋏で蛇を退治して人間を救う昔話(たとえば、(『本部町の民話』)は、蛇と蟹が対置されている。ぼくはまだヤドカリの報恩譚を知らないけれど、ヤドカリは蟹と鋏を持つ点で、蟹と同位相だから、蟹と並んでヤドカリも蛇と対置されることがあると見なせる。どうやら違いは潜んでいそうだ。

 蟹といえば、奄美では新生児に蟹をはわす行事が行われる。生まれて七日目に行う名づけ祝いの際だ。

椀に入っている子蟹を取って赤子の頭に這わす。二、三匹ずつ、つかまえては這わし、これを三回繰り返す。やがて子蟹は、這い散って、どこかに姿を隠すのである。いわば、子蟹の洗礼をほどこすわけである(金久正『奄美に生きる日本古代文化』

 たとえば、金久はこれを「脱皮の模倣呪術」として考察したのに対して、吉野裕子は、それに同意しながら、

 私見によれば、この蟹行事の基本にあるものこそ、じつは蛇である。時代がくだるにつれて、蛇を使用するためらいが、蟹を代用させることになったまでのことであろう(p.48、『日本人の死生観』

 と、蟹に対して蛇の代用と見ている。さすが、習俗のなかに可能な限り、「蛇」の信仰を見届けようとする視点ならではの徹底ぶりだが(cf.『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』)、蛇に夢中なあまり蟹に不憫な視線を送ることになってしまっている。ただの代用ではない、蟹ならではの位相があるはずで、それは蟹やヤドカリの報恩譚にも示唆されるものだ。

 では、「鰐」類型としてヤドカリを見るとどうだろう。言い換えれば、「人に似ている」面はあるだろうか。そういう意味では、先の報恩譚は、「鰐」と同じ側面だ。島にヤドカリを放ち、幾年かののち、そのヤドカリが繁殖しているのをみて島に住むことにしたという与那国島の伝承は、生き物として人間とヤドカリを似ているものと見なす視線がある(cf.「脱皮論 メモ」)。他に挙げるとすれば、

 1.人間もヤドカリもアダンの実を食べる
 2.人間もヤドカリも、殻(家)のなかに生きて、時折、殻(家)を変える
 3.人間はかつて洞窟で暮らしたが、ヤドカリは今も洞窟で暮らしている
 4.海岸近くの人間の住居には、ヤドカリも棲んでいる

 もちろん、これらは現在の眼から言うことで、当てにはならない。ただ、こうしてみると、蛇に比べて、人間に近しい存在であることは確かめられる。

 上の視点以外に、風葬跡地とヤドカリの関係を調べた記事があった。当山昌直は、沖縄で場所が確認できる風葬跡地11個所の位置を調べ、それがどれも「海岸から350m以内」であることを確かめている。一方、「オカヤドカリ類は海岸から約500m以内およびその範囲内の崖上までは生息地としてみることができ」る。「古風葬の場所とオカヤドカリ類の生息地はほぼ重なっていることが理解される」わけだ。

 ここから当山はオカヤドカリの「海の掃除屋」という面に注目している。オカヤドカリは、「海岸に打ち上げられた魚の死骸や海藻などの有機物を食べることが知られている」。また、当山は、首つり自殺者の下にたくさんのオカヤドカリが集まっていた話を聞いたことがある。そこで、こう書いている。

 石材等で隙間の無い密閉した空間をつくるより以前、古風葬の形態がより古ければ、人の遺骸はさらされることが多くなるので、よりオカヤドカリ類がとりつきやすくなったと考えられる。風葬の一つとして鳥葬が知られているが、意図的ではなかったとしても結果的には「オカヤドカリ葬」というのが成り立つのではないか、それが沖縄島の古風葬の形態として存在したのではないかと思われる(「沖縄島の古風葬とオカヤドカリ類の関連について(予報)」)。

 「オカヤドカリ葬」ってそりゃないよ、当山さん、と思わず突っ込みたくなるところだ。オカヤドカリの「掃除屋」の側面は、ぼくの家では「残飯の掃除屋」として活躍していたのでよく知っている。けれど、だからといって鳥葬と同位相にある「オカヤドカリ葬」はありえない。そう思って驚いたが、当山も「意図的ではなかったとしても結果的には」と注釈しているのを改めて見て落ち着いた。

 ただ、言われてみると確かに、風葬とオカヤドカリの結びつきは強かっただろうと思える。すると、当山の関心とは別のことに気づく。当山も引いているが、今井彰は、蝶が霊魂の化身になった理由を考察している。

古代、風葬に近い様式で安置(実情は放置か)された死体には、それが冬以外であれば、おそらく蠅を始めとする無数の昆虫が集まったであろうということである。そしてその中には、色と大きさで最も目立つ蝶(特にタテハ類、白蝶、黄蝶が主体)の姿が、ひときわ古代人の眼を射たのではなかろうか。殯にある死体は、近くに寄ってはいけないことになっており、遠くからその仮小屋(おそらく粗末な小屋で、死体は半ば野ざらしだったのかもしれない)を見た人々の眼に、乱舞する蝶の群れが写ったとすれば、これはまさに死者の霊が化身したものと見えたのではあるまいか。あるいは、土葬してからも、墓の周辺の花に飛来する蝶を見て、死者の霊を感じたのかもしれない。古代の自然には、群舞する蝶の数が事欠かなかったわけであるから、上記の様相は各地に見られ、その結果蝶イコール死霊の化身という考え方が定着したのではあるまいか。(『蝶の民俗学』

 死体に群がる蝶。それは、まさに死者が化身したように見えただろう。ニューギニアのタミ族には、蛆や蟻への転生信仰があるが、彼らは「死体から出てくる蛆が出なくなると、短い霊魂があの世に行ったと考える」(cf.「タミ族の葬法と他界観念」)のだ。家屋内に葬ることもあったタミ族の場合、浅く埋めた死体から蛆が湧いてくるのをつぶさに見届けただろう。彼らには、どこからともなく湧いてくる蛆を、死者の化身と見るのは自然なことだ。そこで、蛆が湧かなくなることを霊魂の旅立ちと見なし、蛆への転生信仰も生まれている。これと同じ視線が、日本や琉球弧では蝶にも注がれていた。

 琉球弧の自然環境の場合、風葬に際して、殯をしている時に、死体に群がるヤドカリも目撃するのは自然だと思える。そこでは、ヤドカリは死者の化身として見えただろう。骸骨が歩いているのでよく見たら中にヤドカリが入っていたという歩く骸骨の昔話があるのも、死体に群がっていたとまでは言わなくても、野ざらしの骸骨の存在や、骸骨がある場所にヤドカリが棲息していることで生まれる民潭には違いない(『本部町の民話』)。

 ここまで来ると、蟹行事について付け加えることが出てくる。赤子の頭に這わせた子蟹は、「這い散って、どこかに姿を隠す」。この過程はタミ族において、蛆が出なくなる過程とだぶって見える。殯をした段階は、死は生からの移行と捉えられるから、死の過程と生の過程は同型になる。タミ族において、死者が蛆になって他界に赴いた、つまり次の生の段階に入ったというなら、蟹行事は、蟹が脱皮を経て人間の生の過程に入ったことを示すのではないだろうか。琉球弧では、名づけ祝までは、子供の生誕は宙吊りにされる。名づけ祝いまで生きて初めて人間として認められる。金久は、蟹行事において最初に這わす子蟹が威勢よく這うなら、その子は幸先がいいと信じられていて、「子蟹を這わすのは、子蟹のように壮健に早く這い歩く子供になるようにとの意味を持っているものと解される」と書いているが、ここにある呪術の目線はもっと深く、子蟹の化身としての人間が考えられていたのではないだろうか。

 死者の化身としてのヤドカリ。このアナロジーが妥当なら、これは「人間が化身する」と同時に、「人間に化身する」となって、やはり蛇類型でもあれば鰐類型でもあることになる。

 アマム(ヤドカリ)は両義的だ。化身は両方にあるから消去すると、

 1.「蛇」類型 脱皮
 2.「鰐」類型 人間を助ける

 また、『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』で整理したように、「蛇」も「鰐」も当てはまるものとして、「卵生・土中誕生」があるが、これはまさにアマム(ヤドカリ)にまつわる民譚としてある。琉球弧のアマム(ヤドカリ)は蛇に対して「脱皮」がつながるが、「鰐」類型の側面も持っている。つまり、トーテム原理が弱まった段階のトーテムだと考えられる。


『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

『復刻 奄美に生きる日本古代文化』

『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』


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