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2015/04/16

「南島古代の葬制」(伊波普猷)

 葬法についてはさんざん書き散らしているので、気になるところだけ取り上げて、再考したい。

 君南風の葬儀におけるオモリの一部。

 きんばゑの  君南風ナル
 ぎゆのしゆや  神人ノ
 しまはづれとうて  島ハヅレヲ通リ
 くにはずれとうて  国ハヅレヲ通リ
 いしやぐちふくて  石屋口ヲ潜リテ
 かなひやぶぐちふくて 金比屋口を潜リテ
 たちじぶいなたい  別離セム時ハ来リヌ
 のりじぶいなたい  決別セム時ハ来リヌ

 伊波普猷は、「いしやぐち(石屋口)」、「かなひや(金比屋口)」は、「崖などの中腹にある洞窟のこと」で、「精霊の国はこの洞窟を潜って行くものと考えられていた」としている。これは、君南風の時代にも、洞窟の向こうの他界がまだ思念されていたことを示すだろうか。

 風葬。埋めなかった葬法から埋める葬法へ変わることはあっても、その逆は考えにくいから、埋めない葬法は連綿としてきたのだと思える。また、島袋源七が国頭で古老が目撃したものをデッサンした墓や、金久正が喜界島の古老から聞き取った葬法は、それが台上葬の系譜に当たることを物語っている(cf.「琉球弧の樹上葬」「喪屋と岩屋」)。

 ところが、酒井卯作は、風葬に伴う洗骨は、新しい習俗だとみなした(cf.「16.「洗骨文化の成立」」)。また、考古学は貝塚時代前Ⅳ期以降の遺跡からは、洗骨の痕跡はあまり見出していない(cf.「「南西諸島における先史時代の墓制」(新里貴之)」)。

 酒井卯作は、洗骨は14、15世紀に、「異文化との接点であった首里、那覇を起点として、琉球南北の文化圏に波及していった」としているが、台上葬の系譜に属する限りでの風葬では、それが契機になったとしても、復活したのだと云える。では、復活を促したものは何か。

 ここは、弥生再葬が社会変動に伴うことを追求した設楽博己にならえば(cf.「弥生再葬の社会的背景」)、琉球王朝の成立に伴う社会変動といえばいいだろうか。そこで、祖先との関係が重視されるようになった。言い換えれば、現在に続く祖先崇拝の始まりだ。


 追記。伊波は、国頭で聞いた話を書き留めている。

ある旅人が晩おそく宿る所がなく、途方に暮れていたところが、幸い藪の中に一軒の小屋があったので、そこにはいって、一夜を明かした。翌朝目が覚めて、天井を見ると、芭蕉布の袋に何か入れたのが、いくつかぶら下がっているのを、ちょっと変だと思っていたら、すぐあとで死人の棺柩の側に寝ていたことが分かって、非常に吃驚した、云々。ぶら下がっていたものは、いうまでもなく洗骨した後の骸骨であった。

 ここには、頭蓋崇拝の痕跡を見ることができるのではないだろうか。


『をなり神の島 1』

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