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2015/04/12

「あまみや考」のなかの与論島

 伊波普猷は、「あまみや考」のなかで、与論にも触れている。

思うに、右のオモロに出ている各地点は、当時の航海者の目標となったもので、必ずしも一々船掛りするというわけではなく。中には素通りした所もあろうが、(中略)古代においては、航海には宗教的様式がつきもので、とりわけ崎や半島や島には、これを守護する「おがみ」が鎮座(或はガケズ)すると信じていたから、そこに船がかりするには、普通「取ユン」といい、たださしかかることにも、やはりそういってこの神に手向けする風習があった(p.174)。
「ねの島」の語義は、子の島か、根の島か、判然しないが、多分は前者で、子の方の島の義であろう。大島にも与論にも、そういったから、古くは広く北方の島々を指したと思われる。

 伊波はさらっと書いているが、そうだとすると、与論が「根の島」と呼ばれていることに驚いたりするのは(cf.「与論、かゑふた、根の島」)、見当違いということになる。また、「とりわけ崎や半島や島には、これを守護する「おがみ」が鎮座(或はガケズ)すると信じていたから、そこに船がかりするには、普通「取ユン」といい、たださしかかることにも、やはりそういってこの神に手向けする風習があった」のなら、「かゑふた」の意味も、航海を守護する島という意味が込められているのかもしれない(cf.「「かいふた」とは立派な集落という意味」)。

 ところで、伊波は与論島について、こうも書いている。

 例のオモロ等に、与論島の見えていないわけは、同島は慶長役後もかなり後になって、大島諸島中にくり込まれたもので、言語風俗などの点から見ても、全く沖縄的であって、これらの島々を沖縄と「一地」にする、いわゆる「はし」であったからだ(p.203)。

 伊波普猷にとっては、1609年にまつわる与論の命運に関する認識は、ここでも確認できる(cf.「プサトゥ・サークラの出自」)。こうなるとことの真偽よりも、伊波の認識の論拠となったことを知りたいのだが、ここでもそれは適わなかった。


『をなり神の島 2』

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