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2015/04/03

『縄文社会と弥生社会』

 設楽博己の『縄文社会と弥生社会』でまず驚かされるのは、現在の考古学による農耕の開始に関する知見だ。

日本列島における穀物の出現が、弥生時代の直前にまでしかさかのぼらないことと、初めに雑穀が栽培されて水稲耕作が遅れてはじまったというものではないことを、現状では認めざるをえない。

 これは9~11世紀まで農耕の開始が認められないとする琉球弧の考古学の知見と同位相にあるのだ。もちろん、年代はまるで違う。

 植物の栽培という意味での「なんらかの農耕」は縄文時代から存在したとみなければならないが、「栽培植物のほとんどが嗜好品的な食料である点に、縄文農耕の特質がある」とされていることは、琉球弧においては、低生産にとどまるとされていることに対応する。

 ぼくは、農耕の開始がグスク時代を待たなければならないことと、琉球弧におけるハイヌウェレ型神話の希薄さに関連の可能性を見出したが、本土日本における雑穀と水稲耕作の同時性についても、関連を感じるものがある。『古事記』において、殺害されたオオゲツヒメの身体から生まれたのが、稲の穂の他、小豆、蚕、粟、大豆、麦と雑穀類も混じっていることだ。中部高地地方では「ダイズやアズキ」が縄文中期以降に認めれているし、オオゲツヒメから生まれた植物にしても置き換えの可能性はあるけれど、この組み合わせは実態だったのかもしれない。

 以下、設楽の挙げる知見を整理してメモを加えていく。

◆草創期(1.5万年前)

・1万数千年前、「土偶」の出現
・竪穴住居が徐々に増加
・「土偶」。小さな頭と腕を表現しているが、顔の表現や脚の欠如、大きな乳房

◆早期(1万年前)

・「土偶」。大きな乳房、よく張った臀部、顔の表現と脚の欠如
・早期後半、上野原遺跡の遺物位置は、見事な環状に分布
・早期末、「環状集落」が関東地方などで形成された

◆前期(7000年前)

・定住生活の深まりを思わせる大型集落の形成
・6000年前、イノシシを口縁部頂点に表現した土器の出現
・前期中葉、「環状集落」の一角に墓域が設けられるようになった
・石棒の出現

◆中期(5500年前)

・「環状集落」
・「廃屋墓」(東京湾岸)

・5500年前、動物型土器(イノシシ)が作られるようになる
・土偶の盛行、狩猟が活発ではなく植物質食料に支えられていた
・「土偶」。中期以降、顔の表情や脚を獲得して立体的に表現されるようになる

・中期中葉、大型石棒の増加
・中期後半以降、土偶にかわるようにして石棒が盛行

◆後期(4500年前)

・狩猟が活発化し大規模配石遺構が成立して呪術具のバリエーションが豊富になる
・後期以降、イノシイ型土製品の盛行
・狩猟の盛行(シカとイノシシ)

・後期以降、環状列石をはじめとする大規模な配石遺構の出現(東日本中心)
・仮面を表現した土偶の出現、土製の仮面の出現

・後期後半(北海道で、墓地に副葬品を多く入れる風習の強まり)

◆晩期(3300年前)

・抜歯が盛行(西日本)
・土偶の副葬(東北地方から関東地方へ)
・終末、土偶と石棒という男女を象徴した遺物が土坑墓から出土(愛知県)


◇弥生時代

・「環濠集落」
・戦死者の人骨出土数200体(縄文時代、10体に満たない)

◇前期(前8世紀)

・男女一対の土偶が副葬される(女性像が大きい)
・水田稲作や雑穀栽培が日本列島の隅々まで達した(北海道、琉球弧、下北半島、津軽半島を除く)

◇中期(前4世紀)

・男女一対の土偶が副葬される(男性像が大きい)

 メモ1.

 まず、「環状集落」の一角に墓域が形成される縄文前期中葉から、中央に墓域を持つ中期にかけては、死が「移行」の段階に入ったことを示している。

 中期以降、土偶が、顔の表情や脚を獲得して立体的に表現されるようになるのは、身体像の対象化に当たる。これは、「霊魂」観念の成立には不可欠な条件だと思える。身体を対象化してイメージできることが、霊魂が身体から抜け出すイメージを生むのに必要だと考えられるからだ。

 後期、土製の仮面が出現している。このとき、霊魂と身体ははっきりと二重化される。そして同時に、この仮面は、死者や祖先として表象されたと考えられるが、これは他界の空間化のはじまりを意味していると思える。仮面により死者を出現させたのは、言い換えれば、死者の遠隔化に当たっている。これは同時に生と死の分離のはじまりだ。そして、生と死の分離は、弥生時代の環濠集落で明確になる。

 他界の空間化のはじまりは、生と死のひとつなぎの段階の崩壊過程を示す。また、ぼくの考えでは、仮面の出現以降、精霊観念も確かになる。

 弥生時代中期に男女一対の土偶が副葬されるところでは、既に男女神が想定されるようになっている。

 メモ2.

 縄文時代の基本的な思想として、再生観にもとづく循環の論理を指摘した山田は、弥生時代には祖先とのつながりという系譜関係を意識した直線的な思想が重視されると述べている(p.51)。

 縄文時代は、少なくとも定住化以降は、死が生からの移行と捉えられた時代であり、純然たる再生観の時代ではない。

 メモ3.

 石棒はどうだろうか。設楽は「石棒類は、墓に副葬されたり、墓域に立てられたりする場合が多い」として、そこに死とのかかわりを見ている。アカマタ・クロマタの持つマラ棒はそれに触れると一年以内に死ぬと言われており、石棒つまり男根は死との関わりをもつが、鈴木素行によれば、「住居跡外において完形の状態で検出される大型石棒には、「樹立」の確実な事例は認められない」として、婚姻儀礼との関わりを仮説している。(cf.「屋内祭祀と石棒」)。そうなると、「石棒類は、墓に副葬されたり、墓域に立てられたりする場合が多い」ということも判断材料にしてよいか、分からなくなる。

 メモ4.

 弥生時代の壺形土器は、口辺部に顔を持つ顔壺を呼ばれるものがある。これは墓から出土されるが、弥生中期後半から後半にかけて居住域から出土するようになる。これは「葬送儀礼から農耕儀礼へと役割が変化したからではないだろうか」。

 西川津遺跡例の顔は斜め上を向いているが、想像を膨らませれば、上空に上げた視線の先には、空を飛ぶ鳥が観念されえいたのではないかと思われる。森の中で精霊と交感する土偶が正面、すなわち森の奥を見ているのと対照的だ(p.109)。

 この想像は愉しい。でも、ぼくの見立てでは、精霊が形を取った時には、既に土偶づくりは盛行を過ぎている。

 メモ5.

 「日本列島の穀物の始原は縄文晩期終末」であり、北九州から始まることと、「抜歯」が縄文晩期の西日本で盛行すること。このふたつにはつながりがあるかもしれない。抜歯は、黒い雲で雨降りの呪術と見なせば、農耕の開始と雨乞いとの同期を示す。また、琉球弧において抜歯があまり見られないのは、農耕に依存していなかったからだという理解になる。

 デュルケムは書いている。

アルンタ族では、歯を抜くことは雨と水との氏族でしか行われていない。ところが、伝承によると、この手術は明白に縁取りされたある黒雲-これが近く降雨の到来することを告げるとみられ、またこの理由から同一系統のものと考えられている-に外観を似せるのが目的であると。これが、原住民自らがこの変形の目的は少なくとも因習的には自らにトーテムの外形を与えるためであると意識している証拠である(p.205、『宗教生活の原初形態〈上〉』

 デュルケムが引いているのは、スペンサー&ギレンによるものだ。さすが。

 メモ6.

 多人数集骨葬の多くは、円形あるいは楕円形の土坑を掘り、その中に再葬人骨を集積しているが、頭蓋骨を土坑の壁に沿って配列し、長管骨を束ねて積み上げた例が目立つ(p.162)。

 ぼくはこの「頭蓋骨」と「長管骨」の扱いには意味があると思う。

 メモ7.

 設楽は、弥生時代に、「漁撈集団の農耕集団への従属」がみられるとして書いている。

この関係性は、漢帝国とのあいだに冊封関係を結んで東アジアの政治的枠組みのなかに参入していく外交的な政治組織づくりにあたって、漁撈集団をその政治組織に取り込んでいくという、なにかにつけて内部化していくことにたけた農耕集団の積極的な働きかけから生まれてきたものであろう。

 「なにかにつけて内部化していくことにたけた農耕集団」。この本でもっとも印象的な箇所だった。

 メモ8.

 なぜ水稲耕作の出現は突然なのか。設楽は仮説している。

 縄文時代の水さらし処理。
 湧水点→導水路→取水施設→水さらし場→堰→排水路

 灌漑水田稲作。
 河川→導水路→井堰→水田→井堰→排水路
 
 と、アク抜き工程と基本的に変わらない。「縄文時代は、灌漑水田も行おうと思えば可能であった技術のレベルをすでに確保していたとみなすべきである」。

 メモ9.

 設楽は、縄文時代を「採集狩猟社会」と書き、「狩猟採集社会」とは書いていない。これは、縄文後期に狩猟が活発になることを受けてのことだと思う。

『縄文社会と弥生社会』

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