「黄泉の国と根の国」(西郷信綱)
西郷信綱の「黄泉の国と根の国」(『古代人と夢』)を、琉球弧の精神の考古学への関心に引き寄せて読んでみる。
黄泉比良坂は、地下へ通じる洞窟を暗示し、サカは岩窟を指している。多神教的発想では、地下へと通じる洞窟はみな「黄泉の穴」でありえた、として西郷は書いている。
黄泉の国の話が殯宮、すなわちモガリ(またはアラキ)とよばれる古代の葬礼に動機づけられたものであることは、ほぼ間違いあるまい。生は一瞬にして死に至るでのはなく、生と死の間は流動的と考えられていたわけで、この生死不明の時期に死体を安置しておこなうのがモガリだが、さてそのときイザナミが自分を「見るな」といったとあるからとて、死体を見るのが実際のタブーであったとは限らない。南島古代の葬制から推すと、タブーであるどころか、むしろ死体を見るのがふつうであったようである。モガリにおいて遺族のものは死体とともに暮したはずだから、これは当然そうあるべきだと思われる。それを「見るな」といったのは、神話的表現形式に他ならない。
殯は、死が生からの移行と捉えられた段階での葬法だ。そういう点では、「生と死の間は流動的と考えられていたわけで、この生死不明の時期に死体を安置しておこなう」という側面は持っている。けれども、殯では、死体を「見る」ように、まだ死穢の概念を発生させていない。死体は聖なるものという意味を失っておらず、まだ霊力思考は豊かなのだ。そういう意味では、「生死不明の時期に死体を安置しておこなう」のは付随的なもので、本来的には、死者から生者への霊力の転移から来ている。添い寝の変形だ。
この洞窟信仰-そう呼んでよかろう-はおそらく石器時代以来の古い伝統に根ざすもので、しかも日本に限らず世界の多くの民族の共有するところであったらしい。洞窟は、人がそこからもう一度生まれてくるための母胎であり、修行者がそこを行場としてこもるのは、あらたな宗教的・霊的再生を期するためであった。ではその再生はいかにしておこなわれたか。
「巌の真屋」はすなわち洞窟であり、その洞窟に長期にわたって忌みこもる暗い孤独生活が、幻想として根の国訪問の話を生み出すのだ。果してオホナムヂは、根の国からもどるや否や大国主に、つまりは王に変身する。そして大国主になって以後、古事記は一度もオホナムヂという名を用いていない。大国主になったことは、オホナムヂの死であった。このようにして死と再生の劇が演じられるわけだが、これはもう紛れもなく成年式そのもの、ないしにはそのシャーマン的形態といってよかろう。
洞窟を介して行われる死と再生がここでは比喩になっている。生と死がひとつなぎであった段階では、再生は比喩ではなく、実際の信仰だった。死が生からの移行の段階になって以後は、死と再生のイニシエーションは他界への訪問として考えられるようになるということだ。
それにしてもワタツミの国の印象が明るく華やいでさえいるのに比べ、オホナムヂの根の国の方にはいかにも地底の国らしい暗さがただよっている。これは前者がすでに多少とも仙郷として理想化されているためで、豊玉姫が子を渚に産みすてて本つ国に帰ってしまうのも、ワタツミの国がこの世から断絶した異境と受け取られているしるしである。(中略)同じ地の底、海の底ではあるが、根の国の方がワタツミの国よりいっそう古い原初的な姿を伝えているといえる。
「根の国の方がワタツミの国よりいっそう古い原初的な姿を伝えている」のはその通りだが、それは「暗さ」が原初的であるということを指していない。西郷も、「死者の国である地下の世界は、古代人の思考では同時に豊穣の根源でもあったはずだ」と書くように、もともと「暗い」のではない。ワタツミの国が「仙郷」化される度合いに応じて、「根の国」が「暗さ」を背負わされているのだと思える。ここで、ワタツミの国の「仙郷」化の度合いは、豊玉姫の子産みにおけるトーテミズムの崩壊の度合いに対応している。
この「根の国」と「ワタツミの国」の対照について、西郷はさらに書いている。
沖縄のニライと対比してみると、その間の消息はかなりはっきりする。まずニライは死者の国であり、しかも葬所としての洞窟の底をくぐった海のかなたにあるとされる。これは、黄泉比良坂が洞窟であったこととおのずと重なる。むろん海の印象と切りはなせないのだが、しかしこのようにニライが洞窟の印象をともなっているのは、もっと強調されてしかるべき大事な一点ではなかろうか。これはニライが祖霊の国でもあることを意味するだろう。ニライはしかし一方、病気や害虫などがそこに向かって追いやられる国、そこから悪疫の荒びくる国ともされていたから、これまた祝詞などに見える「根の国、底の国」と、まったく揆を一にすることになる。さらにニライは、この世に豊穣をもたらす霊力の根源でもあった。その次第はすでにふれたとおりである。こう見てくると、南島の伝承では、島々によって陰影の相違はあるにしても、右にあげたような諸側面がニライという観念において多様なまま統一されていたことが判る。これはニライの観念が、神学の干渉をあまりうけずに生活史として伝承されてきたためである。琉球王国においては、王権の正当性を保証するものとしてのオボツカグラ(天上界)が高天の原ほどには確立せず、いわば「半成の神学」(柳田国男)に終ったのである。
ここも付言すれば、ニライの諸側面が多様なまま統一されていたのは、「神学の干渉をあまりうけずに生活史として伝承されてきたため」というだけでなく、ニライという言葉を使う使わないにかかわらず、その諸側面のリアリティを島が失ってこなかったからである。
とにかくこの洞窟の記憶のなくなることが根の国から海神の国や常世の国をわかち、それらを大地の根ならぬはるかな楽土として浪漫化するきっかけとなったもののようである。
「洞窟の記憶のなくなる」とはどういうことか。ぼくたちの言葉で言い直せば、死が生からの移行ではなく、分離の段階に入ることがその契機になる。
(前略)柳田国男は、オホナムヂの訪問した根の国は「境に黄泉比良坂といふ名のあるのが不審な位に、云々」といっているけれど、黄泉比良坂が境となっていることこそむしろ根の国の本質にふさわしいとすべきである。
ここで西郷は、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』を注に引いている。
棚瀬襄爾『他界観念の原始形態』は、この種の研究としてもっとも徹底したもので、オーストラリア、メラネシア、ニュー・ギニア、ポリネシア、東印度諸島などの他界観念が部族別に、しかも葬法との関連において示されている。キリスト教の影響によって変容され、本来の姿を確定しにくい場合もあるらしいが、これによるとその他界は天、海上の島、地下、海底など、地域や部族によって異るがやはり地下と海底がもっとも優勢なようである。
この説明では棚瀬は浮かばれない。「地下と海底がもっとも優勢」なのではなく、他界が、地下や海底等となる文化の複合の内実を実証的に確かめているのが、彼の仕事だ。この意味では、棚瀬が54歳で他界したのは残念なことで、もっと生きて発言してほしかったと思う。
棚瀬の労作を西郷は浅く救い上げてしまっている。どうしてなのか。それは西郷のいう古代人が『古事記』どまりになっているからだと思える。それ以前へ遡行する視線がないのだ。
メモ。『八重山語彙』における「ニーラシィク」。「地の底即ち根の国・底の国に相当する信仰上の世界なり。而して其人界即ち光明界に通ずる所はイーザー(岩屋)なり。故に一たび岩窟を下れば魔界即ち暗黒界に入るを得べしと云ふ。此国に住む者はニール・ビィトゥ(地底人)と云ふ荒ぶる神共なり」。
この説明に対しては、前花哲雄の「定説に対する疑問」を対置させておきたい。
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