『霊魂の博物誌―原始生命観の体系』
碓井益雄(うすいますお)は霊魂の根源を「気息」に見、その根拠を「夢」に求めている(『霊魂の博物誌―原始生命観の体系』)。
霊魂観が生まれる過程はこうだ。狩猟採集段階では、死体は放置され、その後の変化も顧みられることはんかった。ところが、夢には死者が出てくる。それによって死者の存在を漠然と感じた。これが霊魂観念の前段階。定住生活に入ると、死んでいくのを見ることになる。そこで、「肉体に宿り、肉体からぬけだす何ものかとしての霊魂観念が成立することになる」。
これをぼくの考えで辿ってみる。霊魂が「影」や「水に映った映像」という意味の言葉で呼ばれるように、その根拠になったのは影や水に映った人間の姿だった。この、身体の似姿が像として自立するためには、身体像が対象化される必要があると思える。身体像を対象化してはじめて、身体とは別に身体像が二重化し、像としての霊魂が成立する。
死後のことは霊魂観念なしにも考えられている。しかし、始原の時との関係なしに、死後の過程が、霊魂的に考えられるようになるのは、死が生からの移行として捉えられる段階からだ。その初期において、死者は身体を抜け出したものとして漠然と考えられる。上記の霊魂観が成立したところで初めて、夢が死者との交通として意味を持つようになる。この、死が生からの移行と捉えられる段階は、定住あるいは原始農耕の開始にかかわると考えられる。
あとは気づきを得た個所をメモする。
メモ1.旧約聖書で、「神は地の塵から人を造り、彼の鼻に生命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた者となった」。呼吸というより、「気息」が霊魂と考えられたということ。
メモ2.イノチは「息(い)の内(うち)」。
メモ3.「気息と霊魂は同じものだったのが、のちに次第に二つの意味に区別されるようになった」。
これは、もともとは「気息」として捉えられていたところに、「霊魂」観念が生まれて、「気息」も霊魂化して捉えられるようになった、ということだ。
メモ4.吐く息から風が生じる。漁業者の口笛のタブー。風は霊的なものの訪れ、あるいは暗示。
メモ5.霊魂の姿とみなされるものは、蝶や蛾、その他の昆虫、コウモリ。這うものとして、蛇、ヒキガエル、蟹など。また、トカゲ、鼠、イタチ。
これらはトーテムだったもの、トーテムが身をやつした姿ではないか。
メモ6.マライのシマング族。新生児の霊魂は鳥の中に眠っていると考え、出産が近づくと、父親はその鳥を射ち落として妻に食べさせる。これで生まれてくる子供に霊魂が付与されると信じている。
メモ7.
あがをなりみかみの 我が姉妹の生御魂
まぶらでゝ 我を守らむとて
おわちやむお 来ませり
やれゑけ (船を行る時のかけ声)
おとをなりみかみの 姉の生御魂
あやはべるなりよわちへ 美しき胡蝶となりて
くせはべるなりよっわちへ 奇しき胡蝶となりて
伊波氏は、「胡蝶は、今ではあの世の使者として敬遠されているが、オモロ時代には、をなり神の象徴とされたほど親しまれていたものらしい」と言っている(p.98)。
この「疎遠」と「親しみ」の差は、他界の遠近、死穢の有無に対応するのではないか。
メモ8.「野ざらしになっている死体に多数の蝶が群がっていることがあり、それを見た人たちの目には、この乱舞する蝶の群れは、まさに死者の化身とうつったのではないかという見方もある(p.100)。
これは、死体から出る蛆を死者の転生の姿と見るのと同等だと思う(cf.「タミ族の葬法と他界観念」)。
メモ9.ユメ(夢)は古くはイメといった。「寝目(いめ)」。
与論の「夢(いみ)」は、これか。
メモ10.「鏡を見せれば、やっと体にとりこまれかけている霊魂が吸いとられ、赤ん坊が病気になったり、早死にすると考えられたのが、本来の形だったのではないだろうか(p.132)」
メモ11.「糞」を示す語にマリがあるが、これはマル(放)に基づく言葉で、対外に排出すること。
『霊魂の博物誌―原始生命観の体系』というから、世界の種族の霊魂観がたくさん載っているのを期待したが、当てが外れた。
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