漁撈-採集社会としての琉球弧
黒住耐二の「貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」が面白い。
約7000年前以降、「多くの遺跡ではサンゴ礁の形成された遺跡を立地させてきた」。「もちろん、サンゴ礁の形成は局所的であった可能性が高く、諸島全域に現在と同規模のサンゴ礁が存在していたとは考えていない」。
この状況は菅浩伸によって、サンゴ礁の海面到達として整理されている。沖縄島具志頭海岸7750年前、久米島5700年前、渡名喜島6000年前、水納島6000年前、与論島4000年前、沖永良部島5300年前。黒住がいう「局所的」ということは、喜界島西部が4700年前であるのに対し、北部では6500~5500年前であることにも確認される。この年代差は、島ごと地域ごとの定住への移行差と相関を持つにちがいない。
黒住は、
この沖縄貝塚時代の継続的な居住を可能にした一因は、サンゴ礁地域という立地環境と、狩猟ではなく漁撈-採集社会にあると考えている。
これは狩猟資源が少なかったというより、イノー内、内湾・マングローブ域が安定していたからだ。
前2期まではイノシシが優占し、前3期から魚類(特にサンゴ礁性)がほとんどを占め、後期まで継続する。前3期から「漁撈-採集社会」と呼べる段階になり、後2期末までの約5000年間、継続した。一方、八重山では下田原期と無土器期のあいだに遺跡が確認されておらず、継続した居住が確認できない。
採集について、堅果類やタブの種実の出土は認められるものの、「穀類を含め、日本列島からのデンプン質の持ちこみは確認されていない」。「水生タロイモの根栽農耕も想定しているが」、社会形態を変革するほどのものではない。根栽農耕が前4期からの遺跡数の増加に関与している可能性は今後の検証が必要。
つまり、定着期以降の遺跡数増加には、根栽農耕の寄与の可能性があるわけだ。
交易期(後1・2期)のゴホウラやアンボンクロザメ等の大型イモガイ類の貝交易について。貝類集積遺構は決して少なくないが、「出荷し忘れた」ものが極めて多いという印象を受ける。これは、「出荷し忘れても、根本的に困ることはなかった」ことを意味するのではないか。
交易品のゴホウラ等は、「威信財・食用穀類等の多大な見返りを期待した物品とは考えにく」く、むしろ「ある種の贈答品」ではないか。
10~12世紀の穀類農耕の開始は、同時にカムィ焼きの流通とともに、漁撈-採集社会が変化してしまったことを示している。グスク時代になると、農耕用のウシが激増し、沖縄島南部では森林性のケナガネズミが激減している。これは耕作地拡大を示すものだ。
農耕を拒否してきた人がなぜ、一挙に受容したのか。黒住は、博多商人の関与とする説を受け入れ、「カムィヤキの対価として穀類での支払いを求められたと考えたい」。つまり、博多商人が穀類農耕を強いる状況が生じたことが想定されるわけだ。
珊瑚礁環境の出現が遊動から定住を促し、交易による強いられた状況が農耕の開始を促したことになる。ぼくは、オセアニアの種族の例をひとつのモデルとして、琉球弧の精神の考古学を考えてきたが、オセアニアが、狩猟・採集と農耕との間に、霊力思考と霊魂思考の混融が認められるのに対して、琉球弧では農耕の開始が、オセアニアの島々より遅れることを考慮しなければならない。それは霊魂思考の展開をゆるやかなものにしたはずだ。そこで、根栽農耕の弱い寄与はその展開に預かったはずだと思える。
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