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2015/04/26

霊魂協奏曲

 霊魂の概念が成立すると、霊魂は霊力と二重化される。いわば、霊力は霊魂化されて捉えられるようになる。デュルケムが「霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのものである(p.25、『宗教生活の原初形態〈下〉』)」という時、それは霊魂と二重化された霊力を指していると言ったほうがいい。概念として成立した霊魂は、フレーザーの言うように、「動物の内部にいる動物、人間の内部にいる人間が、魂である」(p.178『初版 金枝篇〈上〉』)。

 いま、霊魂の成立により、個人化された霊力も霊魂と呼んでしまえば、霊魂は成立の当初から二重化され、複数あることになる。けれど、それは原則であり、種族の他界観念により、その態様はさまざまである。

 その態様は、五つに類型できるように見える。

 1.霊魂優位での統一(霊魂≫霊力)
 ・霊力としての霊魂がなく、「霊魂」概念が優位になっているもの。

 ショートランド島 では、「ヌアヌア(nuanua)」といい「影」の意味を持っている。ソロモン諸島のエディストン島では、「ガラガラ(galagalka)」と呼び、影、反映、写真を意味している。トレス海峡西部諸島では、「マリ(mar)」で、影、反映を意味している。ダントルカストー諸島のドブ島人は、「水たまりに映る映像」が霊魂。これらの霊魂は、どれも他界へ向かう。

 2.霊魂と霊力の二重化(霊魂>霊力)
 ・二つの概念のまま存続しているもの。死後、霊力は存続せず、霊魂は存続する。

 モースの『像与論』で知られたマオリ族では、霊魂は「ワイルア(wairua)」で、影、非実質的な像、鏡などに映る顔のような映像を指し、霊力は、「ハウ(hau)」と呼ばれ、もともとは風を意味した。贈与の霊として、モノにつくのもハウと呼ばれている。

 ソロモン諸島のオントジャワでは、霊魂は「キプア(kipua)」で、人には見えないが、人間自身のような姿だろうと言われている。霊力は「ゲインガ(geinga)」と呼ばれる。影にあらわれ、生存中おぼろげな守護の役目をするが、生者から離れる実態ではない。キプアは死後、死者のキプアと自由に結合し、死者の一定の棲家はない。つまり、他界がまた時間性としてしか疎外されていない。

 ニューギニアのカイ族では、名称は与えられていないが、霊魂の側面は、「 身体を持たないが、地上に住んでいる人間と似ている」と言われ、霊力の側面は、「 樹液が樹木に充満しているように全身に満ちていて、温熱のように触れるものに伝わる」。カイ族のケースは、霊魂と霊力をよく説明するものになっている。霊魂の側面は、地下の他界へ行く。

 スマトラ島西のニアス島では、霊魂は「ルモルモ(lumolumo)」と呼ばれ、死後、地下または天の他界へ行く。霊力は、「ノソ(noso)」と呼ばれ、気息を指している。これは死後、存続しない。

 ブーゲンビル島のシウアイ族の霊魂「ウラ(ura)」と霊力「ルマ(ruma)」も同様で、ウラは山中の他界に赴く。

 3.霊魂、霊力拮抗での統一(霊魂≒霊力)
 ・「霊魂」概念が優位だが、霊力の側面も持っている。

 ブーゲンビル海峡のモノ島では、「ヌヌ(nunu)」と呼ばれる霊魂には、「人間存在の継続的原理ないし本質」、「影」、「水に映る映像」という三つの意味が含まれている。後二者が霊魂だ。ヌヌは他界へ向かうがそれだけではない。ヌヌは島伝いに海に飛び込み、ブーゲンビルに辿り着き、海岸の岩伝いに進み、死霊ウアウアマイに貝貨を渡して道を教わる。ヌヌは海を渡り、火山に行く。しかし、ここで身体を回復すると、再び島に戻る。つまり、死者の帰来という側面に霊力が強度を保っているのだ。


 4.霊魂と霊力の二重化(霊魂<霊力)
 ・2と同じ二つの概念を持つが、霊力も強い。

 この類型はやや複雑になる。何度も引用してきたが、ニューギニア東部の小島タミ族では、「長い霊魂」と「短い霊魂」がある。「長い霊魂」が霊魂であり、「影と同一視され、所有者との関係は緩い」とされ、「 短い霊魂」は霊力で、「生前は身体を離れることはない」。しかし、この後の命運は、類型2のように単純ではない。

 霊魂である「長い霊魂」は、死後、遠方の友人に現れて死去を知らせ、その後、ニューブリテン島西部を経て北岸へ行くとされている。一方、霊力で「短い霊魂」は、しばらく死体の付近を彷徨った後、地下ランボアムに行き、ランボアムで死ぬと、蟻や蛆になる。つまり、霊力としての霊魂も死後、存続しある過程を辿るのだ。

 サンクリストヴァル島では、二つは、影であり人間の悪意ある部分を指す「アダロ(adaro)」と、水や鏡に映る映像であり、人間の平和なよい部分を指す「アウンガ(aunga)」がある。名称は霊魂の側面で言われており、どれが霊魂的側面を指すか分からないが、アウンガがいわゆる霊魂であり、他界へ行く。一方のアダロは、死後10日目の「大過式」で身体を離れる。霊力はメナと呼ばれ、頭蓋、石像、丸石、動物、魚、蛇、鳥、木などに宿る。鮫、蛇、亀、鷹に憑くことがあるともいう。ここでも、霊力は死後、存続している。

 タミ族もサンクリストヴァル島も、ともに転生の信仰があり、そこに霊力の存続が生まれているのが分かる。

 5.霊力優位での統一(霊魂≪霊力)

 トロブリアンド諸島では、「バロマ(baloma)」は、地下あるいは、実在のトゥマ島に行くが、そこでの生を終える、または飽きると再生する。また、「コシ(koshi)」と呼ばれる概念もあり、生前の生活区域の付近で、しばらく不安定な生活を送る とされている。これは骨化するまでの不安定さが概念化されたもので、霊魂概念の残余だと言える。

 この再生という霊力思考の強度が、概念を統一化させている理由だ。

 こうしてみると、霊魂思考と霊力思考の強度により、概念が統一化されるか二重化されるかしている。また、それだけではなく、二重化のなかでも霊力思考の強度により、それぞれの霊魂の命運は異なっている。

 ここで、チェロキー・インディアンのボディ・マインドとスピリチュアル・マインドを振り返ってみる。

このお祖母さんの伝習するインディアンの心観によれば、「からだの心」は肉体の死と一緒に死んでしまうが、「霊の心」はいつまでも生きつづけ、また赤ん坊を見つけて生まれ変わる。これは肉体が死ぬと「霊の心」が肉体を抜けだして転生をつづけるといったバリエーションはあっても、インディアンに特有なものというより、アジアやオセアニアにもあるから未開、原始心性に特有なものと位置づけた方がいいくらい普遍的だ。「霊のこころ」は使えば使うほど大きく強くなるというのも、「からだの心」を卑俗に使いすぎると「霊のこころ」が縮まってしまうというかんがえも、未開、原始の心性として普遍的な倫理だといっていいのかもしれない。(『心的現象論本論』

 「「からだの心」は肉体の死と一緒に死んでしまう」から、これが霊力に相当するが、「「霊の心」はいつまでも生きつづけ、また赤ん坊を見つけて生まれ変わる」とされているので、ここには霊魂概念に霊力概念が付与されている。つまり、類型4として位置づけることができるだろう。

 また、ドブ島では「水たまりに映る映像」が霊魂であり、オントジャワの霊力、ゲインガは影にあらわれるされ、サンクリストヴァル島では、アダロは影であり、アウンガは水や鏡に映る映像を指す。これらは、霊魂が概念としては独立せず、根拠となった影や映像との関係を失っていない例だ。


Photo_2

 さて、ぼくたちの関心は、それなら琉球弧はどうなのか、ということだ。現在のマブイの意味に沿う限り、それは霊魂優位での統一(1)の類型のように見える。しかし、琉球弧には再生信仰の痕跡も濃厚だ。すると、祖先崇拝の強まりとともに、「霊力」としての言葉を落としてきたのだろうか。その場合には、タマシィやセジという言葉が、霊力としての側面を埋めるものかもしれない。また、トロブリアンド諸島にならえば、類型5のようにマブイとして統一された名称があって、その含意のなかで霊魂的側面を強めてきたということも考えられる。

 それにしても、種族名にしてもそうだが、ヌアヌア、ガラガラ、ルモルモなどの霊魂名称の畳語は可愛らしくすらある。初期言語にとって反復は強い意味を持ったのに違いない。


『宗教生活の原初形態〈下〉』

『初版 金枝篇〈上〉』

『心的現象論本論』

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