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2015/04/30

他界への道を塞ぐ(生と死の分離の契機)

 他界への道行きで、ひときわぼくたちの関心を惹くマンガイア島の例(cf.「ニライ・カナイ、地の底から海上への転位」)について、棚瀬襄爾が『他界観念の原始形態』で紹介しているものには前段があった。棚瀬が引いていない箇所の内容は次のようなものだ。

 あの世への道は、かつては アレマウク(Aremauku)という西の海に張り出し崖の上からスタートした。この道のおかげで以前は、あの世と定期的なコミュニケーションが取れていた。たとえば、大昔、英雄マウイは、この道を通って火の神マウイケのいることろへ行き、人間が使えるように火を持ち帰った。けれど、死霊の地の住人は、しばらくすると、上に上がってきて生者を病気や死で苦しめて、とても面倒を起こすようになった。彼らは、食糧を盗んだり、妻を奪ったりもした。いつまでも続く厄介を終らせるために、ティキという勇敢で美しい女性が、あの世へと通じる暗い裂け目に転がっていった。彼女は口を大きく開いた深い穴を閉じ、それ以来、道は閉ざされてしまった。死霊はその道を通ってアヴァイキから上がってくることができなくなり、また、同様に死者の霊魂もその道を通って下界に降りることができなくなってしまった。彼らはいま、別のルートをたどらざるを得なくなっている。(「The belief in immortality and the worship of the dead 2; The belief among the Polynesians」)

 棚瀬の引かなかったこの箇所はとても重要だと思える。この場面は、イザナギが、追ってくるイザナミから逃げて、他界に通じる穴を塞ぐ行為を同じことを指しており、生と死の分離を象徴するものだからだ。そして『古事記』の場合も、マンガイアの神話の場合も死者が生者を苦しめることが、穴を塞ぐ理由になっている。これは、言い換えれば、地上の利害の矛盾を死者に転嫁したものだ。

 さまざまな種族の他界観のなかに他界への道行きが重視されているものがあり、それぞれにいくつもの島を渡ったり、番人の通り抜けなければならなかったり、死しても難事をこなすのが不思議だったが、マンガイアの神話はその背景に示唆を与えてくれる。他界が空間性を獲得するためには生者と死者の矛盾という契機があったと考えられるのだ。

 この箇所の存在は、萩原秀三郎の『地下他界』で知った。荻原は、松本信広の文章から引いたものとして、「トンガの東にある」「エルベー島」のこととしていた。ぼくは、マンガイアの例と似ているのに驚いて、原典を知りたくなり、松本信広の記事に当たってみたら(「柳田國男の『海南小記』と『海上の道』」「どるめん13号」)、

 その頃私は、ポリネシア群島の真ん中、トンガの東にあるクック・アイランドの、エルベー(ハーヴェー)島の島人たちが、死者の魂に対して考えているところが、フレーザーが "Belief in Immorality" (「不朽の信仰」)という有名な本の中に引用しているのですが、それを紹介したことがあります。

 とあった。そこで、フレーザーからの引用だったことを知り、原典を当たることができたのと一緒に、荻原の引用文から「トンガの東」に「エルベー島」が見当たらず「エウア島」のことだろうかと地図にプロットしたのは見当違いなのも分かった(cf.『地下他界―蒼き神々の系譜』)。まさにぼくが惹かれてきたマンガイアの例だったのだ。しかも、松本は「エルベー(ハーヴェー)島」と書いているのだから、それを見ていたら、エルベーが「ハーヴェー」を読んだものだと気づけたと思う。荻原は、実際の場所への関心はなしに引用したので、ぼくにとっては詳細が不足していたことになる。資料の引用とは恐ろしいものだと思う。

 ところで、松本がマンガイアの例を引いているのは、「根の国」と「地下他界」の関係を言うためで、荻原の問題意識と重なっている。

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2015/04/29

「折口信夫の鎮魂説」(津城寛文)

 津城寛文は、折口信夫の鎮魂論について、分かりやすく説明している。長いが、理解が進むので引用する。

 他界である「とこよ」は「たま・たましひ」「霊魂」の常駐所であり、「まれびと」はその他界から「たま・たましひ」を現界にもたらすものである。そうした他界と現界の間を行き来自在な「霊魂」である「外来魂」をい増殖させたり(たま殖ゆ)、現界の物体に憑依させたり(はま触り)、運動を制して一箇所に固定させたり(たま鎮め)、結び留めたり(たま結び)する一連の操作過程を「鎮魂」という。これは職能者が携わる呪術・技術であり、芸能や儀礼の中核をなす。「あそび」とは文芸や芸能や儀礼的所作により、そうした「霊魂」を対象に「鎮魂」することにほかならない。手足を動かすことにより例霊魂が操られ、あるいは歌を歌うことによりそこに内在していた「言霊」としての「霊魂」が相手に移動してゆく。しかし実際に鎮魂を成就するのは人間の業ではなく、「ムスビの神」の業である。また「ライフ・インデキス」とは、それらの「霊魂」の行き来する経路に沿って配置された、他界への道筋を矢印で示す行き先案内の標識である。「霊魂」には貴賤があり、現界の職業の資格を保証するためのものもある。たとえば「稲魂」が憑依しないと稲の収穫を自由にできないし、「国魂」が憑依しないと国を領有できないので、為政者はそれらを附着させたち、あるいは代替りにそれを継承させるための「鎮魂」の儀礼が必要になる。代表的なものが天皇の資格を保証する霊魂である「天皇霊」を先帝から新帝に移動させるための「大嘗祭」であり、「日継ぎ」(=霊継ぎ)とはその「天皇霊」を継承するという意味である、と。(『折口信夫の鎮魂論―研究史的位相と歌人の身体感覚』

 フレイザー由来の「外来魂」は、万物の霊力が、霊魂化して精霊やカミの形態をとったものと理解しておく。「ライフ・インデキス」は、琉球弧でいえば、ビッチル、イビ、洞窟などがそれに該当するだろうか。

 津城はまた、鎮魂呪術について類型化を行っている。便宜のため図解しておく。

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 1.「魂触り1」
 ・施術者の操作により、被術者の身体に、両者とは独立した魂が入る。
 ・詞章、歌謡、舞踏、つまり芸能。

 ・呪詞を唱えることで、その呪詞に内在していた魂がその呪詞に乗って、唱えかえられた相手に入っていく。
 ・歌を歌うと、その人の魂が相手の体にくっつく。
 ・いったん遊離した魂を取り返して、身にくっつける魂しづめ。

 ・呪物(あるいは、神霊の憑り代、霊魂の移動・附着を媒介するもの)をもってするもの。
 ・袖や領巾を思ふ人に向かって振ると、その霊魂が招かれて寄りくる。そして完全に霊魂が捕われれば、その恋は成就する。

 2.「魂殖ゆ」
 ・施術者が自分の魂を分割してそれを被術者に与える。
 ・身分の上の者は下の者から魂の献上を受ける(自分の増殖魂を分割して被術者に与える)
 ・冬祭り

 3.「魂鎮め」
 ・施術者が魂の活動のみを直接に制肘する。

 ・「魂触り」からの分化。
 ・歌舞に内在するする魂か、あるいはそれに誘発される付近の外来魂か、場合によっては施術者自身の有する魂か、このいずれかが、芸能を行うことで施術者自身の身体内に入る。
 ・舞踊(あそび)をもって呼び出したものを、歌を誦することによって身体の奥所に入れる。

 ・外からよい魂を迎えて、人間の身体に鎮定させる。威力をもって精霊を抑えつけておく。
 ・田遊び。田を踏みつけ、その田を掻きならして田に適当な魂を落ち着ける。

 4.「魂触り2」
 ・被術者はいるが、施術者としての人間が存在しないかとか不明であるとか、ともかく施術者の比重の小さい鎮魂呪術。魂が被術者に入るという形を取る。
 ・物忌み
 ・「鳥の遊び」「魚の遊び」。禽獣や魚を捕えること、それを食すること、見たり飼ったりするだけで、その保有する魂がこちらへ入ってくる。

 ぼくたちの目には、ユタの病気治療は「魂触り1」、食人は「魂触り2」、添い寝は「魂殖ゆ」に見えてくる。

 津城は、奄美のシュバナについても、山下欣一の言葉を引いて考察している。

シュバナというのは、海岸で波の打ち寄せてくる白波の部分をススキで「七汐、七波、七花」と唱えてすくうようにして水をかぶる儀礼で、ミズバナは奄美本島の水神に当り、泉で水神を拝み、水をかぶる儀礼である。このシュバナ・ミズバナを取る場所の決定には、馬を使用する。奄美本島の遺品の探求とおなじく、馬を自由意思で歩くのに任せ、その意志で止った場所でシュバナ・ミズバナを取るのである(p.256、『奄美のシャーマニズム』

 津城は、呪術、儀礼とは別に「行法」という類型を設け、これを「呪術的行法的鎮魂」と位置づけている。

 この、水行の場が神意に委ねられてある一定の地に限られるというのは(中略)、おそらく穢れを祓い除くためではなく、霊威を身につけるためなのだろう(p.154)。

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2015/04/28

祖先崇拝の条件

 見落としがあるかもしれないが、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』のなかで、「祖先崇拝」とはっきり記述されている例は少ない。

 ニューカレドニア島の北のベレプ諸島では浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。他界は島北東の海底。

ベレプ島の真の宗教は祖先崇拝で、彼らは祖先の功徳を信じ、この聖域は彼らの犯すべからざる財産であり、他人の聖域を犯すことはない。彼らは病者を治そうとすれば、まず家族の1人が甘藷の葉を携えて聖域に行き、これを頭蓋に供えて、その力を得、次いで同一のものを父、祖父の木に供えて力を得て、息をふきかけて病者を治そうとする。漁に成功せんとすれば、ある植物を焙って、これを頭蓋に供えて成功を祈る。甘藷の豊作を願う時にも、ヤム芋の取り入れ前に不作の心配のある時にも、頭蓋に祈るのである。絶えず祈るために彼らは祈祷柱を発明し、これを墓または頭蓋置場に立て、これをもって祈祷に代える習俗も持っている(p.231)。

 ニューカレドニア島南々東部の島人。死体は埋葬するが首だけを出しておく。10日経つと、首を取り、頭蓋を保存する。病気や災害の時には頭蓋に食物を手向ける。彼らの神々は彼らの祖先であって、その遺品を保存し、偶像崇拝する。死者は白人に化現するという信仰もある。

漁撈、植樹、建築、祈雨などの重要時に際しては、彼らはその成功を神々に祈るし、死者の遺物を呪物として戦争に携える。死者の霊魂は森に行くと信じ、五か月ごとに『死霊の夜』を行う。

 明確に記述されていないが、他界は地上である。

 この『死霊の夜』は、琉球弧に照らしても面白い。

これは老人達が昼夜密かに洞穴の中に入りこみ、夕方になると、人々が洞穴の回りに集まって祭をするので、老人らの歌うこの世ならぬ歌声を死者の声として聞き、これに合わせて踊るもので、その夜儀には性的許容を伴う(p.233)。

 タミ族については、散々、引用してきた(cf.「タミ族の葬法と他界観念」)。

 まず、観察者によって祖先崇拝の基準があるから、報告もまちまちになるはずだ。その限定はあるものの、上の記述を見る限り、転生信仰や一種の再生信仰、仮面とも共存している。

 ただ、その仮面の存在するタミ族において、「仮面舞踏をする秘密結社に関連する神もいるが、重要な意義は認めていない。タミ族が関心を示すのは、死者の霊魂であり、祖先崇拝をする」とされているのは興味をそそる。

 死者儀礼としての仮面習俗に彼らが関心を示していれば、祖先崇拝には至っていない可能性を示唆するものだ。タミ族では、仮面儀礼は12年の長い周期を持つ。これが以前は、仮面周期が短く、祖先崇拝はなかったことを意味するのではないだろうか。

 祖先崇拝が成り立つためにはいくつかの条件が必要だと思える。

 ・祖先が人間の系列で考えられている(言い換えれば、トーテム原理は崩壊している)
 ・対幻想が強化されている
 ・霊魂の不滅が信じられている

 人間と自然がはっきりと区別され、しかも人間の優位性がすでに前提になっている。祖先崇拝は、その初源では、霊魂思考における再生信仰の変形(cf.「祖先崇拝の初源」)だったが、再生信仰の衰退とともに、継承へと変形されていった。


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2015/04/27

霊力思考からみた世界

 ハンス・フィッシャーは、コドリントンのマナ(Mana)、シュパイザーの生命力、ニューウェンハウスやクロイトの霊質が未開の思考にとって典型的だとするレヴィ・ブリュルを引用している。

この考え方にとっては、地上、空気中、そして水中の存在と物体がとある形態をまといつつも、永遠の循環においては同一であり、統一的であると同時に多様で、物質的であると同時に霊的であり、絶え間ない交流において一方から他方へと移る、現実に存在する何物かが存在する。この流動物は、未開の精神が特に説明を試みる限りにおいては、存在物の実在と活動、その継続とその変化、その生命と死を説明する(相沢里沙訳「Die Seele der Primitiven」)

 中沢新一は、こう書いていた。

スピリットの世界には高次の対称性が実現されていました。「対称性が高い」と言うのは、エネルギーの流動体であるスピリット世界の内部で、スピリットもグレートスピリットも自由な彷徨に運動することができ、自在なメタモルフォーシス(変容、変態)がおこっていくために、固定することができないという状態を示しています。じっさい、多種多様なスピリットたちは、変容を得意とするために、その世界では位置や性質がどんどん入れ替わっていく現象がおこっています(p.110、『神の発明』)。

 ここでレヴィ・ブリュルと中沢新一はほぼ同じことを言おうとしているのだと思う。強いて言えば、エルネギーの流動体が変態を繰り返す霊的な場は、スピリット(精霊)が登場する前から存在しているから、レヴィ・ブリュルの方が、その前段階の説明を試みているとみなすことができる。

 地上、空気中、そして水中の存在と物体がとある形態をまといつつも、永遠の循環においては同一であり、統一的であると同時に多様で、物質的であると同時に霊的であり、絶え間ない交流において一方から他方へと移る」ような立ち現われ方は、霊力思考から見られた世界だと言うことができる。ここにおいては、人間と自然の諸物、諸現象は、まったく同一の地平に立っている。

 ぼくたちと同じ知覚の世界を了解しながら、同時にエネルギーの流動する場を通しても見ることを、アボリジニはドリームタイムと呼んだ。

肉眼では捉えることのできない超自然的な原型を感じとる感性を養い続けること、つまりは、ドリームタイムの方法なのだ(p.78、『アボリジニの世界』)。
 睡眠は、夢見(ドリーミング)にいたるほんの入り口にすぎない。アボリジニの教育は、睡眠や催眠中にも意識を鍛錬することから始まる。睡眠中にも意識を覚醒させておくことこそ、アボリジニ各人が、イニシエーションの始めに実践する行為なのだ。アボリジニの伝統では、ドリームタイムとこの世界のあいだを、意識を覚醒したまま、素早く往来する能力は、一連の儀礼を通じて磨かれてゆく。参加者はその過程で、強烈なトランス状態に陥るが、それは催眠にも似た恍惚状態である。こうして参加者は、謎に満ちた「自然」の超感覚的世界を、日常生活へと招き入れる術を学び取ってゆくのだ(p.79)。

 霊力思考のもとでは夢は、霊的なエルギー場との交信であり、現実の先取りである。霊魂思考のもとでは、身体離脱や死者との交信の場になる。


『神の発明 カイエ・ソバージュ』

『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』


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2015/04/26

霊魂協奏曲

 霊魂の概念が成立すると、霊魂は霊力と二重化される。いわば、霊力は霊魂化されて捉えられるようになる。デュルケムが「霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのものである(p.25、『宗教生活の原初形態〈下〉』)」という時、それは霊魂と二重化された霊力を指していると言ったほうがいい。概念として成立した霊魂は、フレーザーの言うように、「動物の内部にいる動物、人間の内部にいる人間が、魂である」(p.178『初版 金枝篇〈上〉』)。

 いま、霊魂の成立により、個人化された霊力も霊魂と呼んでしまえば、霊魂は成立の当初から二重化され、複数あることになる。けれど、それは原則であり、種族の他界観念により、その態様はさまざまである。

 その態様は、五つに類型できるように見える。

 1.霊魂優位での統一(霊魂≫霊力)
 ・霊力としての霊魂がなく、「霊魂」概念が優位になっているもの。

 ショートランド島 では、「ヌアヌア(nuanua)」といい「影」の意味を持っている。ソロモン諸島のエディストン島では、「ガラガラ(galagalka)」と呼び、影、反映、写真を意味している。トレス海峡西部諸島では、「マリ(mar)」で、影、反映を意味している。ダントルカストー諸島のドブ島人は、「水たまりに映る映像」が霊魂。これらの霊魂は、どれも他界へ向かう。

 2.霊魂と霊力の二重化(霊魂>霊力)
 ・二つの概念のまま存続しているもの。死後、霊力は存続せず、霊魂は存続する。

 モースの『像与論』で知られたマオリ族では、霊魂は「ワイルア(wairua)」で、影、非実質的な像、鏡などに映る顔のような映像を指し、霊力は、「ハウ(hau)」と呼ばれ、もともとは風を意味した。贈与の霊として、モノにつくのもハウと呼ばれている。

 ソロモン諸島のオントジャワでは、霊魂は「キプア(kipua)」で、人には見えないが、人間自身のような姿だろうと言われている。霊力は「ゲインガ(geinga)」と呼ばれる。影にあらわれ、生存中おぼろげな守護の役目をするが、生者から離れる実態ではない。キプアは死後、死者のキプアと自由に結合し、死者の一定の棲家はない。つまり、他界がまた時間性としてしか疎外されていない。

 ニューギニアのカイ族では、名称は与えられていないが、霊魂の側面は、「 身体を持たないが、地上に住んでいる人間と似ている」と言われ、霊力の側面は、「 樹液が樹木に充満しているように全身に満ちていて、温熱のように触れるものに伝わる」。カイ族のケースは、霊魂と霊力をよく説明するものになっている。霊魂の側面は、地下の他界へ行く。

 スマトラ島西のニアス島では、霊魂は「ルモルモ(lumolumo)」と呼ばれ、死後、地下または天の他界へ行く。霊力は、「ノソ(noso)」と呼ばれ、気息を指している。これは死後、存続しない。

 ブーゲンビル島のシウアイ族の霊魂「ウラ(ura)」と霊力「ルマ(ruma)」も同様で、ウラは山中の他界に赴く。

 3.霊魂、霊力拮抗での統一(霊魂≒霊力)
 ・「霊魂」概念が優位だが、霊力の側面も持っている。

 ブーゲンビル海峡のモノ島では、「ヌヌ(nunu)」と呼ばれる霊魂には、「人間存在の継続的原理ないし本質」、「影」、「水に映る映像」という三つの意味が含まれている。後二者が霊魂だ。ヌヌは他界へ向かうがそれだけではない。ヌヌは島伝いに海に飛び込み、ブーゲンビルに辿り着き、海岸の岩伝いに進み、死霊ウアウアマイに貝貨を渡して道を教わる。ヌヌは海を渡り、火山に行く。しかし、ここで身体を回復すると、再び島に戻る。つまり、死者の帰来という側面に霊力が強度を保っているのだ。


 4.霊魂と霊力の二重化(霊魂<霊力)
 ・2と同じ二つの概念を持つが、霊力も強い。

 この類型はやや複雑になる。何度も引用してきたが、ニューギニア東部の小島タミ族では、「長い霊魂」と「短い霊魂」がある。「長い霊魂」が霊魂であり、「影と同一視され、所有者との関係は緩い」とされ、「 短い霊魂」は霊力で、「生前は身体を離れることはない」。しかし、この後の命運は、類型2のように単純ではない。

 霊魂である「長い霊魂」は、死後、遠方の友人に現れて死去を知らせ、その後、ニューブリテン島西部を経て北岸へ行くとされている。一方、霊力で「短い霊魂」は、しばらく死体の付近を彷徨った後、地下ランボアムに行き、ランボアムで死ぬと、蟻や蛆になる。つまり、霊力としての霊魂も死後、存続しある過程を辿るのだ。

 サンクリストヴァル島では、二つは、影であり人間の悪意ある部分を指す「アダロ(adaro)」と、水や鏡に映る映像であり、人間の平和なよい部分を指す「アウンガ(aunga)」がある。名称は霊魂の側面で言われており、どれが霊魂的側面を指すか分からないが、アウンガがいわゆる霊魂であり、他界へ行く。一方のアダロは、死後10日目の「大過式」で身体を離れる。霊力はメナと呼ばれ、頭蓋、石像、丸石、動物、魚、蛇、鳥、木などに宿る。鮫、蛇、亀、鷹に憑くことがあるともいう。ここでも、霊力は死後、存続している。

 タミ族もサンクリストヴァル島も、ともに転生の信仰があり、そこに霊力の存続が生まれているのが分かる。

 5.霊力優位での統一(霊魂≪霊力)

 トロブリアンド諸島では、「バロマ(baloma)」は、地下あるいは、実在のトゥマ島に行くが、そこでの生を終える、または飽きると再生する。また、「コシ(koshi)」と呼ばれる概念もあり、生前の生活区域の付近で、しばらく不安定な生活を送る とされている。これは骨化するまでの不安定さが概念化されたもので、霊魂概念の残余だと言える。

 この再生という霊力思考の強度が、概念を統一化させている理由だ。

 こうしてみると、霊魂思考と霊力思考の強度により、概念が統一化されるか二重化されるかしている。また、それだけではなく、二重化のなかでも霊力思考の強度により、それぞれの霊魂の命運は異なっている。

 ここで、チェロキー・インディアンのボディ・マインドとスピリチュアル・マインドを振り返ってみる。

このお祖母さんの伝習するインディアンの心観によれば、「からだの心」は肉体の死と一緒に死んでしまうが、「霊の心」はいつまでも生きつづけ、また赤ん坊を見つけて生まれ変わる。これは肉体が死ぬと「霊の心」が肉体を抜けだして転生をつづけるといったバリエーションはあっても、インディアンに特有なものというより、アジアやオセアニアにもあるから未開、原始心性に特有なものと位置づけた方がいいくらい普遍的だ。「霊のこころ」は使えば使うほど大きく強くなるというのも、「からだの心」を卑俗に使いすぎると「霊のこころ」が縮まってしまうというかんがえも、未開、原始の心性として普遍的な倫理だといっていいのかもしれない。(『心的現象論本論』

 「「からだの心」は肉体の死と一緒に死んでしまう」から、これが霊力に相当するが、「「霊の心」はいつまでも生きつづけ、また赤ん坊を見つけて生まれ変わる」とされているので、ここには霊魂概念に霊力概念が付与されている。つまり、類型4として位置づけることができるだろう。

 また、ドブ島では「水たまりに映る映像」が霊魂であり、オントジャワの霊力、ゲインガは影にあらわれるされ、サンクリストヴァル島では、アダロは影であり、アウンガは水や鏡に映る映像を指す。これらは、霊魂が概念としては独立せず、根拠となった影や映像との関係を失っていない例だ。


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 さて、ぼくたちの関心は、それなら琉球弧はどうなのか、ということだ。現在のマブイの意味に沿う限り、それは霊魂優位での統一(1)の類型のように見える。しかし、琉球弧には再生信仰の痕跡も濃厚だ。すると、祖先崇拝の強まりとともに、「霊力」としての言葉を落としてきたのだろうか。その場合には、タマシィやセジという言葉が、霊力としての側面を埋めるものかもしれない。また、トロブリアンド諸島にならえば、類型5のようにマブイとして統一された名称があって、その含意のなかで霊魂的側面を強めてきたということも考えられる。

 それにしても、種族名にしてもそうだが、ヌアヌア、ガラガラ、ルモルモなどの霊魂名称の畳語は可愛らしくすらある。初期言語にとって反復は強い意味を持ったのに違いない。


『宗教生活の原初形態〈下〉』

『初版 金枝篇〈上〉』

『心的現象論本論』

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2015/04/25

十年一日

 ふと気がついて確かめたらはたしてそうだった。ブログを開設して十年経つ。

 十年一日。島に対する思慕の念は何も変わらない。何を感じているのか、いくぶん言葉にすることができた分だけ、恋煩いのように何も手につかなくなるような激しさは治まってきたというべきか。もともと、島のために何かをしたいという思いだけはあったものの、その何かがわからなかった。

 もたもたしてるうちに、祖母が「あの世」への支度をはじめてしまった。まだ何も報告できることがないと焦ったぼくは、ずっと眠っている祖母の横で、電話線にジャックをつなぎ、ブログを開設してせめてもの報告にしたのだった。その二日後に、祖母は「あの世」へと旅立った。

 はじめの頃は、それこそ精神安定剤として書いていたのだが、この十年のあいだには書けないときもあった。精神安定剤なのに書けないということは、社会によほど適応しているか、その逆かだけれど、ぼくの場合、前者はあまり考えられないので、後者のほうだった。ここに向かっていられるということは、大丈夫ということで、精神安定剤という意味も、変わらないらしい。

 ただ、ブログに対する構えは変わった気がする。ブログの立ち位置が変わったので、それに合わせたというべきか。開設した2005年、まだブログは新しいツールだった。それ以降、ツイッターやFacebook等、新しいソーシャルメディアが次々に生まれて、ブログの影響力は相対的には小さくなった。でもこの間は、ネットに流通する言葉の劣化も進行したように思う。現在版の呪いのように、匿名の言葉の投げ捨てが常態化している。しかも、スライスされた薄っぺらな呪い。それを思うと書く気も失せる。

 ただ、ブログの佇まいが落ち着いてきたのは好都合だった。なるべく多くの人に読んでもらいたい、というのとは逆の、読みたい人の目にだけ触れてほしいというのには、ふさわしいツールになってきた。ブログがそう見えてきたことで、ふたたび書きやすくなった。いつまでここに書き続けるのか、それは分からない。書き続ける場は必要だということ以外は。

 目下は、琉球弧の精神史、しかも文字以前のそれに夢中だ。この手応えは大きくて、そうか、そうだったのか、ぼくはこれを探究したかったのか、と分かった。このなかから、祖母に報告できることも掴めそうだ。それがこの十年で得たいちばんの光明かもしれない。

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2015/04/24

「黄泉の国と根の国」(西郷信綱)

 西郷信綱の「黄泉の国と根の国」(『古代人と夢』)を、琉球弧の精神の考古学への関心に引き寄せて読んでみる。

 黄泉比良坂は、地下へ通じる洞窟を暗示し、サカは岩窟を指している。多神教的発想では、地下へと通じる洞窟はみな「黄泉の穴」でありえた、として西郷は書いている。

 黄泉の国の話が殯宮、すなわちモガリ(またはアラキ)とよばれる古代の葬礼に動機づけられたものであることは、ほぼ間違いあるまい。生は一瞬にして死に至るでのはなく、生と死の間は流動的と考えられていたわけで、この生死不明の時期に死体を安置しておこなうのがモガリだが、さてそのときイザナミが自分を「見るな」といったとあるからとて、死体を見るのが実際のタブーであったとは限らない。南島古代の葬制から推すと、タブーであるどころか、むしろ死体を見るのがふつうであったようである。モガリにおいて遺族のものは死体とともに暮したはずだから、これは当然そうあるべきだと思われる。それを「見るな」といったのは、神話的表現形式に他ならない。

 殯は、死が生からの移行と捉えられた段階での葬法だ。そういう点では、「生と死の間は流動的と考えられていたわけで、この生死不明の時期に死体を安置しておこなう」という側面は持っている。けれども、殯では、死体を「見る」ように、まだ死穢の概念を発生させていない。死体は聖なるものという意味を失っておらず、まだ霊力思考は豊かなのだ。そういう意味では、「生死不明の時期に死体を安置しておこなう」のは付随的なもので、本来的には、死者から生者への霊力の転移から来ている。添い寝の変形だ。

 この洞窟信仰-そう呼んでよかろう-はおそらく石器時代以来の古い伝統に根ざすもので、しかも日本に限らず世界の多くの民族の共有するところであったらしい。洞窟は、人がそこからもう一度生まれてくるための母胎であり、修行者がそこを行場としてこもるのは、あらたな宗教的・霊的再生を期するためであった。ではその再生はいかにしておこなわれたか。
「巌の真屋」はすなわち洞窟であり、その洞窟に長期にわたって忌みこもる暗い孤独生活が、幻想として根の国訪問の話を生み出すのだ。果してオホナムヂは、根の国からもどるや否や大国主に、つまりは王に変身する。そして大国主になって以後、古事記は一度もオホナムヂという名を用いていない。大国主になったことは、オホナムヂの死であった。このようにして死と再生の劇が演じられるわけだが、これはもう紛れもなく成年式そのもの、ないしにはそのシャーマン的形態といってよかろう。

 洞窟を介して行われる死と再生がここでは比喩になっている。生と死がひとつなぎであった段階では、再生は比喩ではなく、実際の信仰だった。死が生からの移行の段階になって以後は、死と再生のイニシエーションは他界への訪問として考えられるようになるということだ。

 それにしてもワタツミの国の印象が明るく華やいでさえいるのに比べ、オホナムヂの根の国の方にはいかにも地底の国らしい暗さがただよっている。これは前者がすでに多少とも仙郷として理想化されているためで、豊玉姫が子を渚に産みすてて本つ国に帰ってしまうのも、ワタツミの国がこの世から断絶した異境と受け取られているしるしである。(中略)同じ地の底、海の底ではあるが、根の国の方がワタツミの国よりいっそう古い原初的な姿を伝えているといえる。

 「根の国の方がワタツミの国よりいっそう古い原初的な姿を伝えている」のはその通りだが、それは「暗さ」が原初的であるということを指していない。西郷も、「死者の国である地下の世界は、古代人の思考では同時に豊穣の根源でもあったはずだ」と書くように、もともと「暗い」のではない。ワタツミの国が「仙郷」化される度合いに応じて、「根の国」が「暗さ」を背負わされているのだと思える。ここで、ワタツミの国の「仙郷」化の度合いは、豊玉姫の子産みにおけるトーテミズムの崩壊の度合いに対応している。

 この「根の国」と「ワタツミの国」の対照について、西郷はさらに書いている。

 沖縄のニライと対比してみると、その間の消息はかなりはっきりする。まずニライは死者の国であり、しかも葬所としての洞窟の底をくぐった海のかなたにあるとされる。これは、黄泉比良坂が洞窟であったこととおのずと重なる。むろん海の印象と切りはなせないのだが、しかしこのようにニライが洞窟の印象をともなっているのは、もっと強調されてしかるべき大事な一点ではなかろうか。これはニライが祖霊の国でもあることを意味するだろう。ニライはしかし一方、病気や害虫などがそこに向かって追いやられる国、そこから悪疫の荒びくる国ともされていたから、これまた祝詞などに見える「根の国、底の国」と、まったく揆を一にすることになる。さらにニライは、この世に豊穣をもたらす霊力の根源でもあった。その次第はすでにふれたとおりである。こう見てくると、南島の伝承では、島々によって陰影の相違はあるにしても、右にあげたような諸側面がニライという観念において多様なまま統一されていたことが判る。これはニライの観念が、神学の干渉をあまりうけずに生活史として伝承されてきたためである。琉球王国においては、王権の正当性を保証するものとしてのオボツカグラ(天上界)が高天の原ほどには確立せず、いわば「半成の神学」(柳田国男)に終ったのである。

 ここも付言すれば、ニライの諸側面が多様なまま統一されていたのは、「神学の干渉をあまりうけずに生活史として伝承されてきたため」というだけでなく、ニライという言葉を使う使わないにかかわらず、その諸側面のリアリティを島が失ってこなかったからである。

 とにかくこの洞窟の記憶のなくなることが根の国から海神の国や常世の国をわかち、それらを大地の根ならぬはるかな楽土として浪漫化するきっかけとなったもののようである。

 「洞窟の記憶のなくなる」とはどういうことか。ぼくたちの言葉で言い直せば、死が生からの移行ではなく、分離の段階に入ることがその契機になる。

 (前略)柳田国男は、オホナムヂの訪問した根の国は「境に黄泉比良坂といふ名のあるのが不審な位に、云々」といっているけれど、黄泉比良坂が境となっていることこそむしろ根の国の本質にふさわしいとすべきである。

 ここで西郷は、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』を注に引いている。

 棚瀬襄爾『他界観念の原始形態』は、この種の研究としてもっとも徹底したもので、オーストラリア、メラネシア、ニュー・ギニア、ポリネシア、東印度諸島などの他界観念が部族別に、しかも葬法との関連において示されている。キリスト教の影響によって変容され、本来の姿を確定しにくい場合もあるらしいが、これによるとその他界は天、海上の島、地下、海底など、地域や部族によって異るがやはり地下と海底がもっとも優勢なようである。

 この説明では棚瀬は浮かばれない。「地下と海底がもっとも優勢」なのではなく、他界が、地下や海底等となる文化の複合の内実を実証的に確かめているのが、彼の仕事だ。この意味では、棚瀬が54歳で他界したのは残念なことで、もっと生きて発言してほしかったと思う。

 棚瀬の労作を西郷は浅く救い上げてしまっている。どうしてなのか。それは西郷のいう古代人が『古事記』どまりになっているからだと思える。それ以前へ遡行する視線がないのだ。


 メモ。『八重山語彙』における「ニーラシィク」。「地の底即ち根の国・底の国に相当する信仰上の世界なり。而して其人界即ち光明界に通ずる所はイーザー(岩屋)なり。故に一たび岩窟を下れば魔界即ち暗黒界に入るを得べしと云ふ。此国に住む者はニール・ビィトゥ(地底人)と云ふ荒ぶる神共なり」。

 この説明に対しては、前花哲雄の「定説に対する疑問」を対置させておきたい。

 


『古代人と夢』

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2015/04/23

定着を促した漁法

 伊藤慎二によれば、貝塚時代前3期(5000年前)に、琉球弧は定着期に入る。樋泉岳二からは、貝塚時代前2期(6000年前)くいらいから脊椎動物の利用は、魚類がイノシイを上回りはじめ、貝塚時代前3期(5000年前)には魚類が大勢を占めるという報告がなされている。樋泉はこの時代を「ウミアッチャー世」と呼んでいる。

 屋我地島海岸の大堂原貝塚では、貝塚時代前3~4期にベラ科が圧倒的に優先するが、これは、その頃にヒシが形成され、イノーが拡大した可能性と「調和的」であるとされる。

 定着期への移行には、珊瑚礁環境が整った後に、島人が魚類獲得へ乗り出し、漁獲を得るために定着することを選択したと考えられる。西田正規は、携帯には不向きな「定置漁具」の利用が定住を促したのではないかと仮説していたが(cf.『人類史のなかの定住革命』)、琉球弧において定着を促した漁法とは何だったかを探ってみたい。

 喜舎場永均は、「八重山における旧来の漁業」(『八重山民俗誌上巻・民俗篇』)のなかで、漁法を紹介している。

 八重山の漁業とは、珊瑚礁の漁業のことだ。

 1.カキ(垣)

 珊瑚岩で積み重ねた石垣を、珊瑚礁に接地する半円状に敷き、干潮時に魚が逃げられなくなるようにする。「至って原始的な漁業法」。

 魚類が入り込んだらその入り口に網を張るのを口垣(フチィカキ)という。大浜という部落が行う。

昔から「ホウマイヅ」(大浜魚)といって、八重山名物の一つに数えられていた。大漁の時は、その部落全部に配っても、なお余分があったので、一里余の石垣町へ盛んに売りにきた位で、当時漁業者のおらなかった島では。、お裾分けをして薬用にした位であった。

 垣には、地名、人名、屋号がついて名づけられている。その後、糸満人が島へ入り込んで、やらなくなった。

 垣にはそれぞれ「ウガンジュ」(拝所)、あるいは願所という社が海岸近くにあって、霊石霊水を神体として祈願している。獲物の中から最もよい魚数匹を、その社に奉納謝礼して、その式が済んだら土中に魚類を埋めて、常に神の加護を祈りつつある。

 これは、与論でいえば、島のはじまりの地とされる赤碕御願とアマンジョー、赤碕海岸の説明にもなっていると思う。

 2.イズベーシィ(ササ入り)

 イズ(魚)、ベーシィ(酔わす)。有毒植物の葉、樹皮等の樹液を流し込んで毒殺する。干潮時に珊瑚礁のくぼんで水をたたえた所に注入すると、魚が浮き上がってくる。もっぱら小魚で、塩辛にする。「ササ入れ」のもっともよいシーズンは、秋の夜の冴えた月夜の晩。

 これが「雨乞い」と結びつく例が白保にある。

 轟川(トドロキガーラ)の生物を毒殺して、捕れるだけは村民がとるが、川底などに沈んでいるものは腐敗して悪臭を放つ。龍神はこの悪臭で立腹して、大雨を降らせて、川浚えを断行する。

 3.カイラーギィ

 イノーに隘路をつくり、そこに魚を追い込んで捕る。

 4.網を使った漁法。

 ピサン。外界に通じる珊瑚の割れ目の前(イノー側)に網を張っておく。満潮時に、割れ目から浅瀬の餌場へと入った魚群が、干潮時に外界へ戻れなくする方法。ニーバリィ、チヌバリィ、ボーダ、アーガヒ、シッチュー、ウムナー、タコン、イラブチ等。

 この変形に夜に行うユブサン(夜干網)がある。

 ウキアン(浮子網)。夜間の満潮時に浅瀬に入る魚を捕る。

 ユルカタガシィ。ユルは「寄る」。珊瑚礁の割れ目から円弧を描くように網をかけておく。切れ目から入ってくる魚群を捕える。その他、ミーマキィ、マチィビ、ウツチアンがある。どれも、潮の満ち干と珊瑚礁と魚の習性を利用したものだ。シュク(スク)の漁法はこれだろうか。

 5.イザリィ(魚火)

 6.タクトウイ(蛸捕り)

 7.ティーリィヌイズ(笊籠の魚)

 8.イズハウシィ(魚釣)

 カキは、場所との結びつきが強い。珊瑚の割れ目もそうだ。カキに人名、屋号がつきやすいのはそれが所有に関わってくるからだ。琉球弧の場合、土地所有の前に、イノー所有の方が切実になったに違いない。ここに網を使う漁法が加われば携帯の不自由が加わるので、定着化は促進されることになる。

 また、カキ(垣)と拝所の連結は琉球弧の初期集落のあり方を示しているように見える。

 久高島には、漁法を伝承する浜下り行事がある。

 このお浜下りの行事は、久高島の男性が、はじめて漁人として手ほどきをうけるイニシエーションの儀式だといえる。これは島の男性が現実の生活に従う方法を神からの守護と結びつけるもので、実生活の祭儀の側面が海の神の祭りを司るソーリイガナシ(大祝)のもとに主宰されて所属することをしめしている。この久高の浜下りの行事よりも単純で素朴な宗教的な行事をかんがえてみる。八重山諸島では海岸の近くに、霊石や霊木を神体にしたウガン(拝所)の社があって、獲物の魚を供えて拝み、そのあと魚を土中に埋めて漁の加護を願う形が、行われる。祭儀としての華麗さや整いかたにいくつかの段階があるとしても、これは海人-狩猟民系のヒコ-ヒコ制の神事の系列と見なすことができるようにおもわれる。(吉本隆明「イザイホーの象徴について」)

 男性による年齢階梯的な結社は、定着期初期集落では、漁撈にかかわる祭儀に携わったのではないだろうか。

 徳之島では、この拝所が農耕の拝所に接ぎ木される例を見ることができる(cf.「シニグの因数分解1」)。

 

 

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2015/04/22

ビッチルとイビ

 御嶽のイビはほとんど琉球石灰岩であるが、ビッチルは必ずしもそうではなく、砂岩、古世紀石灰岩、珪岩、安山岩んど琉球石灰岩は一部を占めるに過ぎない。

 御嶽のイビが琉球石灰岩であることは、御嶽信仰が海との関係があるからだという説もあったように記憶しているが、それはむしろ琉球石灰岩は、八重山では一般に昔から『ヤマイシ』とよばれているので、山とのつながりからではないかと考えられる。(牧野清「八重山のビッチル(自然石)信仰」『八重山文化論集』

 これは重要な視点だと思う。海近くに設けられた初期集落では、霊石は琉球石灰岩に拘泥してなかった。御嶽は、「山」との連結のもと、琉球石灰岩(ヤマイシ)が選択された。両者を通底しているのは、「生長する石」に通じる霊石信仰である。もちろん、自然石に霊力を感じたのだ。

 石垣島には、ビッチルにまつわる伝承が残っている。クバ笠が売れないので、雨ざらし陽ざらしのビッチルを可哀想に思って、ビッチルに結えつけて帰ったら、その後、幸せな人生を送ったというものだ。民潭自体は新しいが、ここに流れている信仰の形は、石に対する霊力をもとにしたもので、とても古いと思える。

 カキの近くの拝所には霊石があり、魚を埋めるという行為も、霊石の霊力をもとに魚の増殖を祈願したものだと思える(cf.「定着を促した漁法」)。

 これらの霊石は、霊魂思考の強まりとともに、神が彫られていくことになる。

 メモ。カンガルーをトーテムとするアルンタ族では、神話時代のカンガルー動物をあらわす岩に自分たちの血を流す。カンガルー・人の血は、そこに存在している動物・カンガルーの精霊を放逐し、散布する。これがカンガルーの数を増加させる(『宗教生活の原初形態〈下〉』)。また、アルンタ族では、そこを通る女を孕ませるために死霊が集まる岩がある。

『宗教生活の原初形態〈下〉』

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2015/04/21

バンクス諸島の考古学・他界・葬法

 バンクス諸島について、棚瀬襄爾の記述(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)では、「精霊」の概念があることが印象に残っているが、これに野嶋洋子による最新の考古学の知見(「バンクス諸島の「山」と「海」-島嶼メラネシア・ヴァヌアツにおける先史社会と環境-」)を対照させて考えてみたい。

 島嶼メラネシアでは、島嶼間を結びつける交易ネットワークが知られている。

交易の主たる担い手となったのは、海岸部や陸資源の少ない小島の集団で、貝貨の製作・流通を介して必要な資源を入手するとともに、土器、豚、染料、ゴザなど様々な物資の移動の仲介者として機能した。彼等は典型的な「海の民」であり、その対局には内陸資源の利用や農耕、豚飼育などに重点を置き、海へのアクセスを持たない(あるいは重視しない)「山の民」が存在する。
このような「海」と「山」の二項対立的な関係性は、島嶼メラネシア各地に顕著に見られる資源獲得戦略である。
ヴァヌアツ北部には首長制のような政治システムは見られないが、位階階梯制と呼ばれる伝統的システムが存在する。男子集会所となるロングハウスを中心に展開し、いくつもの序列化された地位が存在する。

 ヴァヌアツでは土器が消失する期間が存在する。

土器の欠落はオセアニア文化史においては普遍的な現象であり、土器が本来もつ調理器具としての機能が必要とされなくなったことを示唆する。その背景には、人々が地域に定着し農耕活動の比重が大きくなるにつれ、主食となるイモ類の効率的調理を担った石蒸焼き技術が重要性を増したことがあるだろう。逆に、ヴァヌアツ北部の状況をみると、メラネシアの一部地域において土器が継続したのは、その交易品としての価値が島嶼間ネットワークにより維持されたためだと考えられる。

 これは八重山の無土器時代や琉球弧の貝交易にも示唆を与えるものだ。

農耕活動がほぼ不可能なリーフは、かつてはバンクス諸島における貝貨製作の一大拠点として知られ、メラネシアに特徴的な海岸部と内陸との交換関係を端的に物語る。海岸部や小島の集団が製作する貝貨は、内陸で産する資源ー特に豚とタロイモーと交換された。

 ここにいうリーフとは珊瑚礁のことではなく、ヴァヌアラヴァ、モタラヴァ、ウレパラパラ間にあるロワ島のことだ。陸地面積のみだと与論島よりも小さい。

 かついては、バンクス諸島全域において灌漑農耕が実践されていた。

タロイモは祖先との繋がりを示す大切な作物であり、その重要性について(中略)、人々は生きるためにタロイモを育てるのではなく、タロイモを育てるために生きている、とする。

 灌漑農耕の水路はサメの精霊により治められている。灌漑農耕エリアの周辺では祭祀遺跡も確認されている。

 典型的な祭祀空間は、この遺構に隣接して男子集会所ガマルを備え、ダンスグラウンドとみられる中オーストロネシアいう広場をおいて、方型の住居基壇が取り囲むような構造を持つ。

 ヴァヌアツ北部における先史文化の長期的推移。

 1.海岸部へのラピタ人の居住(3000年前)
 2.内陸開拓の開始、土器使用の継続、交易
 3.海岸部の専業的集団(1000年前);河川流域等での農耕進展;内陸・海岸部社会の分化(?)
 4.耕作地の拡大と灌漑の導入(時期?)
 5.農耕集団の成長・複雑化、儀礼空間の出現(17~18世紀遺構 19世紀にピーク)

 祭祀施設の形成は、「それほど古く遡るものではなく、せいぜい過去数百年間の出来事であったと思われる」。

 さて、ここに約120年前に観察された他界や葬法を当ててみる。

 ・霊魂は夢でも身体を離れるが、死で分離は完成される。
 ・霊魂は、o tamate または natmat になる。これは死者の意。
 ・隣人たちは死霊はすぐに遠くに行かないから、死にゆく者の指を噛んで覚醒させ、耳に口をあててその名を呼び、霊魂が聞いて帰来することを期待する。
 ・死霊はふつう5~10日間、家や墓の周辺をさまよって家の中で音を立てたり、墓に火を燃やしたりする。5日があの世へ行くよい時だとして、小石や竹で死霊を村から追いだす。
 ・この時まで寡婦は、必要時以外、一刻も死者の寝床を去らない。必要なときは、彼女の代わりにココナツを置く。死霊はこの間、家にとどまって妻が婚礼の部屋にいるのを見ている。
 ・死霊は常に西方の日没の方向に行くとされ、西へ西へと村送りされ、落日に面する海岸で海中に入り、あの世へ行くとされる。

 ・他界は地下のPanoiで、各島からの死霊が火口やその他の穴を通じて、この地下界に入る。
 ・パノイは、地上のごとくで、村、赤い葉のある木があり、昼夜の区別があり、美しいところ。
 ・一説では、上のパノイで死んだものは下のパノイに行くが、下では死なないけれど、白蟻の巣になるとも言われる。

 「精霊」が出現しているから、バンクス諸島では霊魂思考の進展がみられるが、他界は海上への志向があり、転生信仰(白蟻の巣)の痕跡も見られるので、霊力思考も弱まった形で存在している。

 葬法はどうだろう。

 ・一般に村から遠くない森のなかに埋葬する。ふつうは2日目に行う。
 ・偉大な人やめざましい死を遂げた場合は、男子集会所ガマルの近くに埋葬する。
 ・愛児の場合は、家の中に葬る。50~100日目に遺骨を取り出し、森の中に隠す。
 ・遺骨の若干は家の中につるす。
 ・ある場所では、愛情の印として埋葬を行わず、腐った死体を家のなかにとどめ置くこともある。

 ・ガウア島では、死体を滑火の上で10日かそれ以上、乾燥させる。この期間、死体を見守る女たちは、死体から出る死汁を飲む。モタ島でも行われる。
 ・ガウア島では、遺族は豚を屠り、その死体または一部を墓にかける。あの世の死霊によい印象を与えるため。しかし、豚は霊魂を持つとは考えていない。
 ・埋葬後、「死を食う」という一連の祭宴を催す。

 ・ウレパラパラ島では、死体を村の中央に持ち出し、食物でまわりを囲む。
 ・ヴァヌアラヴァでは、死体を死者の舟に入れて、家の中の台上に安置し、その下に火を焚く。5日目を「破壊された頭」と呼ぶ。この日に死体が頭から取り離されたと信じられているからである。

 「死体から出る死汁を飲む」ことや屋内葬などをみると、相当に霊力思考も残っていることがわかる。「破壊された頭」は、幻想の頭蓋取り出しだ。

 バンクス諸島では、動植物への転生信仰は弱まり、代わって精霊への信仰が強まる。地下の他界が観念されて、相当に霊魂思考が進展しているのだが、それでも、「死汁を飲む」という直接的な霊力思考も残っている。これは、オーストロネシア語族の植民以前の先住民が存在したことを意味するのではないだろうか。

 野嶋の知見は、オセアニアの島嶼として琉球弧を見る視点を与えてくれるように思える。

 メモ1.ヴァヌアラヴァ島は314㎢、ガウア島は342㎢で、西表島(289㎢)、徳之島(248㎢)よりやや大きな島だ。

 メモ2.「イメージの力」展で見た加入儀礼用精霊像と木生シダ製精霊像「マゲ・ニ・ヒウィル」は、ヴァヌアツ南部のマレクラ島、アンブリム島のものだ。


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2015/04/20

「先島諸島における先史時代のヒトと生態史」

 マーク・ハドソンによると、生態史の視点からみると、奄美、沖縄は「狩猟採集民のいた島」だが、一方では九州から南下した縄文人が沖縄本島まで拡散し、他方、フィリピンあるいは台湾から北上し宮古島まで広がった。「二つの民族集団」は同じ魚類や貝殻を食料とし、生業パターンは基本的に同様だった。

 宮古島の南嶺の長墓遺跡の調査結果をもとにすると、

先史時代の人々は岩陰に住み、前方に廃棄物を捨てた。岩陰の前面に形成された貝塚は少なくとも、10×15mの規模と推定される。

 長墓遺跡の最下層の年代測定は、約4400〜4000年前であり、これは「八重山諸島での第1期の開始とほぼ同じ年代となる」。第2期の無土器文化は2900〜1900年前で、「第1期と第2期の間の「空白期」が存在しなかったとはいえないが、いわゆるこの「空白期」に人が宮古島に訪問したか、または居住していた可能性が高い」。

 ハドソンは、先史諸島の先史文化の起源地に関し、

 1.奄美・沖縄諸島の貝塚文化
 2.台湾の新石器文化
 3.中国の新石器文化
 4.フィリピンの新石器文化

 と、四つの候補地のうち、台湾を最有力候補として挙げている。考古学の百年以上の歴史があるにも関わらず、奄美、沖縄貝塚時代の遺物が先島諸島では出土されず、その逆もまたない、としている。

 人が無人島に漂着する際は、しばらくの間、狩猟採集をする場合が多い。もともと農耕民であったとしても、最初は狩猟採集のみで生活する。しかし、人口が増えると、しだいにこうした生活は困難になる。

 オセアニアのほとんどの集団が農耕に戻り、集団的な栽培制度を発展させた。例外は、ニュージーランド南島など農耕できない環境のみであった。オセアニアでは、多くの島で農耕社会が戦争や首長制を生み出した。

 この視点では、先島諸島には人口過剰の問題は生じなかっただろう。むしろ、先島諸島が頻繁に無人島になってもおかしくない。

しかし、前述したように長墓遺跡の発掘調査の成果から、この遺跡では「空白期」がなかった可能性が提唱できそうである。つまり、島が無人島となった場合、新たなヒトの集団の植民があったことを長墓遺跡のデータは示唆するものである。しかし、孤立性が高く、外界との交流の証拠がほとんどないので、新しい渡来人が頻繁にやってきたことは考えにくい。むしろ、長墓遺跡のデータは、人が継続して宮古島に住み続けたとも解釈できる。八重山諸島で人がいなくなったとき、宮古諸島が生物学でいう「避難所」となったのかもしれない。

 さらに、オセアニアとの比較でハドソンは興味深いことを書いている。

 長墓遺跡の調査から、宮古島では先史時代が少なくとも紀元後1000年頃まで続いたことが理解された。しかし、長墓遺跡では中世(グスク期)の遺物が全くないため、先史時代と中世文化の関係は不明である。考古資料から人々が島から全員いなくなったことを示すことは難しいが、太平洋におけるヨーロッパ人の植民地文化と比較すると興味深い違いがみられる。18世紀以降ヨーロッパ人が太平洋の島々に拡散するが、それによりもたらされた伝染病や直接的な暴力によって、先住民の人口は激減した。オセアニアでは、伝染病によって人口が従来の5~40%まで減った。北太平洋のアリューシャン列島でも、先住民は虐殺や伝染病で多くが命を失った。しかし、これらの島々では、先住民が絶滅する例は少なく、多くの場合は今でも生存している。一方、先島諸島では中世に沖縄諸島から農耕民が入植してから、それ以前の「先住民(先史時代の先島諸島民)」の記録は一切ないようである。つまり、18~19世紀の太平洋と比較すると、先島諸島では先史時代の終わり頃に、この地域の人口が非常に少なかったか、後期の人々がすでにいなくなっていた可能性が高い。

 まっさきに思うのは、ぼくは与論島の珊瑚礁が海面に到達したのが4000年前であり、現状では確かな遺跡も3000年前を遡らないので、他島に比べその歴史は浅いとみなしてきたが、上限の時間はたしかに浅いものの、その濃淡でいえば必ずしも秀でて浅いわけではないかもしれないということだ。

 また、先島諸島の歴史は、太平洋の島々と比較すると、不連続であるのかもしれない。

 農耕民であっても、島への入植の初期は狩猟採集を継続するということは、琉球弧の精神の考古学を考える上でも示唆深い。ぼくたちが追っているオーストロネシア語族が、農耕を携えてやってきたとしても、農耕の痕跡を残さなかった。けれど、その場合、他界や葬法はどうなるだろう。仮に、知っている農耕をせずに、狩猟採集を続けたとしても、他界や葬法は戻ることはないだろう。農耕に伴う他界や葬法の進展を著しく遅くさせることはあっても。
 


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2015/04/19

「ウミアッチャー世」と「ハルサー世」  

 樋泉岳二は、「アマン世」のある時期を「ウミアッチャー世」とし、グスク時代以降を「ハルサー世」と名づけていて面白い。これは脊椎動物の遺体から考えられたものだ(「脊椎動物からみた琉球列島の環境変化と文化変化」)。以前に、整理した表に加えてみる(cf.「日本語形成におけるオーストロネシア語族の要素」)。

Photo


 「ウミアッチャー世」は「海を歩く人時代」、「ハルサー世」は「野良仕事する人の時代」の意味。与論風にアレンジすれば、「ウミアッチャー世」は、ウンキバイの時代で、「ハルサー世」は、ウンパルキバイの時代だ。

 1.貝塚時代前1~前2期

 前1期はイノシシが大部分を占める。前2期から魚類が増加。珊瑚礁は発達過程だった可能性がある。

 2.貝塚時代前3~後2期

 「サンゴ礁周辺の漁を主とし、これにイノシシ漁を加えた様相が、後2期までの約3000年間にわたり安定して継続する」。

 前1期になぜ魚類がほとんど利用されないのか、また前2期になぜ急激に魚類利用が活発化するのか、その原因はよくわかっていない。樋泉は、「人間の文化・社会の側に何らかの原因があったと考えるのが妥当と思われる」としている。

 ここは、西田正規の「魚類は、人間が最も新しく開発した食料資源である」(『人類史のなかの定住革命』)という言葉が思い出される個所だ。

 3.グスク時代~近世

 飼育動物が出現し、魚類が減少する。飼育動物では、ウシ、ウマ、ニワトリが広く出土し、イノシシ類でもブタ(またはその可能性が高いもの)が増加する。

「ウミアッチャー世」までは未知であったウシという大型哺乳類がグスク時代初期に急速に普及した背景には。外部(おそらくヤマト)の人間による大量のウシの搬入および利用法(交配・育成、使役法など)に関する強力なインストラクションがあたことが想像される。

 与論で童名にウシがつけられるようになるのもこれ以降だ。牛の急速な普及は、童名のウシの急速な採用も促したのだろう。

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2015/04/18

漁撈-採集社会としての琉球弧

 黒住耐二の「貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」が面白い。

 約7000年前以降、「多くの遺跡ではサンゴ礁の形成された遺跡を立地させてきた」。「もちろん、サンゴ礁の形成は局所的であった可能性が高く、諸島全域に現在と同規模のサンゴ礁が存在していたとは考えていない」。

 この状況は菅浩伸によって、サンゴ礁の海面到達として整理されている。沖縄島具志頭海岸7750年前、久米島5700年前、渡名喜島6000年前、水納島6000年前、与論島4000年前、沖永良部島5300年前。黒住がいう「局所的」ということは、喜界島西部が4700年前であるのに対し、北部では6500~5500年前であることにも確認される。この年代差は、島ごと地域ごとの定住への移行差と相関を持つにちがいない。

 黒住は、

この沖縄貝塚時代の継続的な居住を可能にした一因は、サンゴ礁地域という立地環境と、狩猟ではなく漁撈-採集社会にあると考えている。

 これは狩猟資源が少なかったというより、イノー内、内湾・マングローブ域が安定していたからだ。

 前2期まではイノシシが優占し、前3期から魚類(特にサンゴ礁性)がほとんどを占め、後期まで継続する。前3期から「漁撈-採集社会」と呼べる段階になり、後2期末までの約5000年間、継続した。一方、八重山では下田原期と無土器期のあいだに遺跡が確認されておらず、継続した居住が確認できない。

 採集について、堅果類やタブの種実の出土は認められるものの、「穀類を含め、日本列島からのデンプン質の持ちこみは確認されていない」。「水生タロイモの根栽農耕も想定しているが」、社会形態を変革するほどのものではない。根栽農耕が前4期からの遺跡数の増加に関与している可能性は今後の検証が必要。

 つまり、定着期以降の遺跡数増加には、根栽農耕の寄与の可能性があるわけだ。

 交易期(後1・2期)のゴホウラやアンボンクロザメ等の大型イモガイ類の貝交易について。貝類集積遺構は決して少なくないが、「出荷し忘れた」ものが極めて多いという印象を受ける。これは、「出荷し忘れても、根本的に困ることはなかった」ことを意味するのではないか。

 交易品のゴホウラ等は、「威信財・食用穀類等の多大な見返りを期待した物品とは考えにく」く、むしろ「ある種の贈答品」ではないか。

 10~12世紀の穀類農耕の開始は、同時にカムィ焼きの流通とともに、漁撈-採集社会が変化してしまったことを示している。グスク時代になると、農耕用のウシが激増し、沖縄島南部では森林性のケナガネズミが激減している。これは耕作地拡大を示すものだ。

 農耕を拒否してきた人がなぜ、一挙に受容したのか。黒住は、博多商人の関与とする説を受け入れ、「カムィヤキの対価として穀類での支払いを求められたと考えたい」。つまり、博多商人が穀類農耕を強いる状況が生じたことが想定されるわけだ。

 珊瑚礁環境の出現が遊動から定住を促し、交易による強いられた状況が農耕の開始を促したことになる。ぼくは、オセアニアの種族の例をひとつのモデルとして、琉球弧の精神の考古学を考えてきたが、オセアニアが、狩猟・採集と農耕との間に、霊力思考と霊魂思考の混融が認められるのに対して、琉球弧では農耕の開始が、オセアニアの島々より遅れることを考慮しなければならない。それは霊魂思考の展開をゆるやかなものにしたはずだ。そこで、根栽農耕の弱い寄与はその展開に預かったはずだと思える。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』


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2015/04/17

『霊魂の博物誌―原始生命観の体系』

 碓井益雄(うすいますお)は霊魂の根源を「気息」に見、その根拠を「夢」に求めている(『霊魂の博物誌―原始生命観の体系』)。

 霊魂観が生まれる過程はこうだ。狩猟採集段階では、死体は放置され、その後の変化も顧みられることはんかった。ところが、夢には死者が出てくる。それによって死者の存在を漠然と感じた。これが霊魂観念の前段階。定住生活に入ると、死んでいくのを見ることになる。そこで、「肉体に宿り、肉体からぬけだす何ものかとしての霊魂観念が成立することになる」。

 これをぼくの考えで辿ってみる。霊魂が「影」や「水に映った映像」という意味の言葉で呼ばれるように、その根拠になったのは影や水に映った人間の姿だった。この、身体の似姿が像として自立するためには、身体像が対象化される必要があると思える。身体像を対象化してはじめて、身体とは別に身体像が二重化し、像としての霊魂が成立する。

 死後のことは霊魂観念なしにも考えられている。しかし、始原の時との関係なしに、死後の過程が、霊魂的に考えられるようになるのは、死が生からの移行として捉えられる段階からだ。その初期において、死者は身体を抜け出したものとして漠然と考えられる。上記の霊魂観が成立したところで初めて、夢が死者との交通として意味を持つようになる。この、死が生からの移行と捉えられる段階は、定住あるいは原始農耕の開始にかかわると考えられる。

 あとは気づきを得た個所をメモする。

 メモ1.旧約聖書で、「神は地の塵から人を造り、彼の鼻に生命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた者となった」。呼吸というより、「気息」が霊魂と考えられたということ。

 メモ2.イノチは「息(い)の内(うち)」。

 メモ3.「気息と霊魂は同じものだったのが、のちに次第に二つの意味に区別されるようになった」。

 これは、もともとは「気息」として捉えられていたところに、「霊魂」観念が生まれて、「気息」も霊魂化して捉えられるようになった、ということだ。

 メモ4.吐く息から風が生じる。漁業者の口笛のタブー。風は霊的なものの訪れ、あるいは暗示。

 メモ5.霊魂の姿とみなされるものは、蝶や蛾、その他の昆虫、コウモリ。這うものとして、蛇、ヒキガエル、蟹など。また、トカゲ、鼠、イタチ。

 これらはトーテムだったもの、トーテムが身をやつした姿ではないか。

 メモ6.マライのシマング族。新生児の霊魂は鳥の中に眠っていると考え、出産が近づくと、父親はその鳥を射ち落として妻に食べさせる。これで生まれてくる子供に霊魂が付与されると信じている。

 メモ7.

 あがをなりみかみの  我が姉妹の生御魂
 まぶらでゝ  我を守らむとて
 おわちやむお  来ませり
 やれゑけ (船を行る時のかけ声)
 おとをなりみかみの  姉の生御魂
 あやはべるなりよわちへ  美しき胡蝶となりて
 くせはべるなりよっわちへ  奇しき胡蝶となりて

 伊波氏は、「胡蝶は、今ではあの世の使者として敬遠されているが、オモロ時代には、をなり神の象徴とされたほど親しまれていたものらしい」と言っている(p.98)。

 この「疎遠」と「親しみ」の差は、他界の遠近、死穢の有無に対応するのではないか。

 メモ8.「野ざらしになっている死体に多数の蝶が群がっていることがあり、それを見た人たちの目には、この乱舞する蝶の群れは、まさに死者の化身とうつったのではないかという見方もある(p.100)。

 これは、死体から出る蛆を死者の転生の姿と見るのと同等だと思う(cf.「タミ族の葬法と他界観念」)。

 メモ9.ユメ(夢)は古くはイメといった。「寝目(いめ)」。

 与論の「夢(いみ)」は、これか。

 メモ10.「鏡を見せれば、やっと体にとりこまれかけている霊魂が吸いとられ、赤ん坊が病気になったり、早死にすると考えられたのが、本来の形だったのではないだろうか(p.132)」

 メモ11.「糞」を示す語にマリがあるが、これはマル(放)に基づく言葉で、対外に排出すること。


 『霊魂の博物誌―原始生命観の体系』というから、世界の種族の霊魂観がたくさん載っているのを期待したが、当てが外れた。

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2015/04/16

「南島古代の葬制」(伊波普猷)

 葬法についてはさんざん書き散らしているので、気になるところだけ取り上げて、再考したい。

 君南風の葬儀におけるオモリの一部。

 きんばゑの  君南風ナル
 ぎゆのしゆや  神人ノ
 しまはづれとうて  島ハヅレヲ通リ
 くにはずれとうて  国ハヅレヲ通リ
 いしやぐちふくて  石屋口ヲ潜リテ
 かなひやぶぐちふくて 金比屋口を潜リテ
 たちじぶいなたい  別離セム時ハ来リヌ
 のりじぶいなたい  決別セム時ハ来リヌ

 伊波普猷は、「いしやぐち(石屋口)」、「かなひや(金比屋口)」は、「崖などの中腹にある洞窟のこと」で、「精霊の国はこの洞窟を潜って行くものと考えられていた」としている。これは、君南風の時代にも、洞窟の向こうの他界がまだ思念されていたことを示すだろうか。

 風葬。埋めなかった葬法から埋める葬法へ変わることはあっても、その逆は考えにくいから、埋めない葬法は連綿としてきたのだと思える。また、島袋源七が国頭で古老が目撃したものをデッサンした墓や、金久正が喜界島の古老から聞き取った葬法は、それが台上葬の系譜に当たることを物語っている(cf.「琉球弧の樹上葬」「喪屋と岩屋」)。

 ところが、酒井卯作は、風葬に伴う洗骨は、新しい習俗だとみなした(cf.「16.「洗骨文化の成立」」)。また、考古学は貝塚時代前Ⅳ期以降の遺跡からは、洗骨の痕跡はあまり見出していない(cf.「「南西諸島における先史時代の墓制」(新里貴之)」)。

 酒井卯作は、洗骨は14、15世紀に、「異文化との接点であった首里、那覇を起点として、琉球南北の文化圏に波及していった」としているが、台上葬の系譜に属する限りでの風葬では、それが契機になったとしても、復活したのだと云える。では、復活を促したものは何か。

 ここは、弥生再葬が社会変動に伴うことを追求した設楽博己にならえば(cf.「弥生再葬の社会的背景」)、琉球王朝の成立に伴う社会変動といえばいいだろうか。そこで、祖先との関係が重視されるようになった。言い換えれば、現在に続く祖先崇拝の始まりだ。


 追記。伊波は、国頭で聞いた話を書き留めている。

ある旅人が晩おそく宿る所がなく、途方に暮れていたところが、幸い藪の中に一軒の小屋があったので、そこにはいって、一夜を明かした。翌朝目が覚めて、天井を見ると、芭蕉布の袋に何か入れたのが、いくつかぶら下がっているのを、ちょっと変だと思っていたら、すぐあとで死人の棺柩の側に寝ていたことが分かって、非常に吃驚した、云々。ぶら下がっていたものは、いうまでもなく洗骨した後の骸骨であった。

 ここには、頭蓋崇拝の痕跡を見ることができるのではないだろうか。


『をなり神の島 1』

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2015/04/15

「生長する石」

 生成する珊瑚などを例に引いて、伊波普猷は書いている。

石の生長するという南島人の考えには、これが多分に影響したと見て差し支えなく、この「石の国」では子供ばかりでなく、年取った人までがそう信じている。

 これは、無機物にも生命を認める霊力思考によるもので、珊瑚の生成にかかわらない。琉球弧の思考のなかでも基層にあると言っていいものだ。

 マブイが戸惑うと、マブヤーと云うが、「語尾の母音の狭いのと広いのとで凝結と放散との感じがよく表される」。マブヤーを込めるときの作法を、伊波は書いていて、これが面白いのだが、長いので引用は諦める。まず、ウビー(若水)と根石の数個を椀に入れておくが、「彼はこの晩若水で生れ替り、根石の魂代を受けて血色がたちまちよくなると信じられている」ところがポイントだ。この根石は、マブイがしっかり落ち着くまでは、枕上におかれなければならない、とされている。水と石が重視されている。

 その他、泣く石の話、降る石の話。どれも面白い。伊波はこれを自分の見聞したこととして書きとめているのだが、彼の生きた時代は、不思議なことはまだがいくらでも起きたのだ。


『をなり神の島 1』

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2015/04/14

「をなり神」(伊波普猷)

 「南島人の間にも、現に彼等と共に生活している人をそのまま神として崇める風習が遺っている」として、伊波普猷は、「をなり神」を紹介している。

 ここには、身体を聖なるものとみなす霊力思考が強く働いているが、これはそのまま生き神様信仰につながるものだ。どうして琉球弧の島人が、異族の王である天皇を仰ぎ、太平洋戦争にのめりこんでいったのか、その理由の根本はここにあるのではないだろうか。

 それでも。

こうして彼女らには、神秘力があると認められていたのだから、故郷を離れた男子には、をなり神が始終つきまとって、自分を守護してくれるという信仰があった。姉妹の項(うなじ)の髪の手を乞うて守り袋に入れ、或はその手拭を貰って旅立つ風習が、つい近頃まで首里那覇にさえ行われていた。姉妹のない時は従姉妹なり、誰なりのそれを貰って、お守りにしたとのことだ(p.5)。

 これらのことは、もう経験からは程遠いにもかかわらず、まだ認識であるより、情緒である気がする。


『をなり神の島 1』


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2015/04/13

「君真物の来訪」

 「もの」はムン、スピリットの意。「真」は美称の接頭辞で、「「真物」にすると、神仏の義となり、王者もしくは偉人の義にも転ずる」。「君」は神女のだから、

君真物(または君手摩)も古くは女神と考えられていたと思うが、これに相当する大島のテルヘー(或はエルヘー)や山原の村芝居に出てくる「にらいの大ぬし」や八重山のニール人は、男神になっている。これは恐らく後に変化したものであろう。

 「君真物」は神女たちの演じるものであるなら、むしろ逆で、「にらいの大ぬし」や八重山のニール人は、男神になっている」のが古いということになる。男神か女神かは別にして、「「にらいの大ぬし」や八重山のニール人」が、という意味で。

 遠来神崇拝の、南島人の生活史の基調になっていることは、今までに縷々述べた事で、明らかになったと思う(中略)。由来南島人は、その同胞のいうことには、耳を傾けないのに、同じことでも外来者の口から出ると、すぐそれに共鳴する傾向をもっているが、これなども世代から世代に伝えられて、個々の成員を拘束する社会心理の露れではあるまいか。

 これはその通りと云うしかないけれど、それを指摘するより、ぼくは「人見知り」の由来を見たい気がする(cf.『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』)。


『をなり神の島 2』

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2015/04/12

「あまみや考」のなかの与論島

 伊波普猷は、「あまみや考」のなかで、与論にも触れている。

思うに、右のオモロに出ている各地点は、当時の航海者の目標となったもので、必ずしも一々船掛りするというわけではなく。中には素通りした所もあろうが、(中略)古代においては、航海には宗教的様式がつきもので、とりわけ崎や半島や島には、これを守護する「おがみ」が鎮座(或はガケズ)すると信じていたから、そこに船がかりするには、普通「取ユン」といい、たださしかかることにも、やはりそういってこの神に手向けする風習があった(p.174)。
「ねの島」の語義は、子の島か、根の島か、判然しないが、多分は前者で、子の方の島の義であろう。大島にも与論にも、そういったから、古くは広く北方の島々を指したと思われる。

 伊波はさらっと書いているが、そうだとすると、与論が「根の島」と呼ばれていることに驚いたりするのは(cf.「与論、かゑふた、根の島」)、見当違いということになる。また、「とりわけ崎や半島や島には、これを守護する「おがみ」が鎮座(或はガケズ)すると信じていたから、そこに船がかりするには、普通「取ユン」といい、たださしかかることにも、やはりそういってこの神に手向けする風習があった」のなら、「かゑふた」の意味も、航海を守護する島という意味が込められているのかもしれない(cf.「「かいふた」とは立派な集落という意味」)。

 ところで、伊波は与論島について、こうも書いている。

 例のオモロ等に、与論島の見えていないわけは、同島は慶長役後もかなり後になって、大島諸島中にくり込まれたもので、言語風俗などの点から見ても、全く沖縄的であって、これらの島々を沖縄と「一地」にする、いわゆる「はし」であったからだ(p.203)。

 伊波普猷にとっては、1609年にまつわる与論の命運に関する認識は、ここでも確認できる(cf.「プサトゥ・サークラの出自」)。こうなるとことの真偽よりも、伊波の認識の論拠となったことを知りたいのだが、ここでもそれは適わなかった。


『をなり神の島 2』

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2015/04/11

「にらい底もい」(伊波普猷)

 伊波普猷は、「にらい」のニが土の義を持つとして、「にらい底」には「地の底」を意味するとしている。

 ついで、「にらい底」は、「黄土或は冥土」の意味を持つようになる。

南島の島々には、一世代まで所々に風葬の古俗が遺っていて、何年かの後には、これを一纏めにして、洞窟などに放ったものだが、こうして死後魂の行くと考えた所を、古琉球人たちは「にらい底」ともいって、「にらい底」に第二義が生じたに違いない(p.289)。

 さらに。

地下の闇の国という程の義に用いられていた「にらい底」も、更にそこを突き抜けていった海の彼方の仙郷に転用せられ、いつしか「底」が除かれて、常世の概念がニライだけに納められるようになったと思われる(p.290)。

 これを、地下が他界としての地下、他界としての海上という変遷と受け止めれば、ぼくたちの考えも伊波に近いことが分かる。

 面白いのは、「にらい底もい」は「地の底に住む君(尊者)」の意義であるが、それは鼠の異名であり、ネズミの語源を暗示しているとされていることだ(p.288)。

 鼠は「ある神の世界から穀物に付随して渡来したという伝承(p.283)」があるが、「日神の妾腹の初子なる馬鹿息子が、下界に降って鼠になり、狂暴な振舞をしたので、「そへふしきや」に載せて、ニライ・カナイに放逐」される(p.276)。

 鼠族がこうして、御嶽の入口の傾斜した土地の下に、大きな住宅を営み、食糧には茅の芋をあてがわれた上に、農作物を掠奪して、豪奢な生活をしているという伝承は、内地の各地に散布する鼠浄土のそれと似通ったもの(p.284)

 だという。ここでは、鼠が地上の利害と離反し、他界へと放逐される理由が語れているが、一方で、死者と鼠が同一視されてもいるのではないだろうか。死者とともに暮らすことが生者の地上の利害と矛盾している。これは逆にいえば、地上の利害の矛盾を、死者との暮らしのなかに求めたと言ってもおなじだ。そこで、地上と他界は隔てられなければならなくなった。

 これは、ポリネシアのエルベー島で、「地下の世界と現世の間を交通するため岩の間に割れ目があり、地下の世界から割れ目を通って死人が出てきていたずらをして困る、とあるときそれを塞いでしまった」(cf.「『地下他界―蒼き神々の系譜』」)と同位相にある事態を物語っているのではないだろうか。


 メモ。「祖先を見失うことは、人生最大の不幸で、あらゆる禍はそれから起るとさえ考えられている(p.74)」というのが、祖先崇拝の内容をよく言い表している。


『をなり神の島 2』


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2015/04/10

「トーテムと命名」(南方熊楠)

 南方熊楠は、トーテミズムについて、自問自答している。

 さて代々一種一類また数種類のトーテムを、一族中の各個人に命名した例が本邦にないかと言うと、あるともあるとも大ありだ。

 南方は、はしゃぐように嬉しそうに、自分の名前の「熊」と「楠」を説いている。この気分は分かる気がする。

辺鄙の民は以前苗字なき者多く、代々同名で牛とか馬とかで通じた例を控えておいたが、只今みえず。こんなこと、ことに賎民に多くて、一家を、一家全く同名ゆえ、大熊小熊、大亀跛亀など言って別った。

 これはまっすぐに琉球弧の童名にも当てはまることだが、ぼくも自分の童名にはひときわ愛着を抱いてきた。けれど、南方のように楠の木の前でうっとりするわけにいかないのは、童名が、「牛」のようには意味を明かしてくれないからだ。分かるのは、「マ」は、美称の接頭辞であることだけだ。いつか理解を届かせて、南方のようにはしゃいでみたい。

 「族霊」と「個人トーテム」という大胆な言い切りが気持ちいい論文だ。


『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』



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2015/04/09

『地下他界―蒼き神々の系譜』

 萩原秀三郎の『地下他界』は、その書名が示すとおり、地下の他界に着目している。

日本の他界観の中で、地下他界の観念は位置づけが明らかでない。というより、ほとんど無視されているといってよい。私は焼畑から水稲栽培へと初期農耕文化の形態は変っても、死霊の往く場所は地下あるいは山とする信仰が、文化の基層を貫いていたと思う。地下へ死霊は往き、かつて神々も湧出した。大地の神々は、鬱蒼として冥い、蒼き神々であった。

 ただ、荻原の力点は、地下というよりは山に向かっている。

 これまで山中他界観といえば山上から天界が意識されたが、それはアルタイ系支配者文化の流入以後のことである。より古層にあるわが国の山の他界観は、華南の山棲みの農耕文化に属するもので、大地を母とする女性原理の山に連帯する。それは、日本古代の「根の国」に通じる山の他界観である。しかも、わが「根の国」の思想は決して亡び去ったわけではなく、山中他界として発展的に受けつがれ生きづけているのである。

 もう少しいえば、地下というより山、基層を農耕と華南に引き寄せる嗜好があるのだが、それを差し引けば、萩原の問題意識の近くにぼくたちもいることが分かる。

 萩原は松本信広の見解を引いている。ポリネシアのエルベー島のこと。

この島人は、人間が死ぬと地下の世界に行く、島は珊瑚礁なので大きな洞穴があるわけで、死者の魂が地下の世界へ行くにはこういう大きな洞穴の中に行くのだという。ところが地下の世界と現世の間を交通するため岩の間に割れ目があり、地下の世界から割れ目を通って死人が出てきていたずらをして困る、とあるときそれを塞いでしまった。そこで人が死ぬとき、その霊魂は、すぐ他界へ行くことができなくなってしまった。そのため、死者の霊は島の端っこの海岸の東の絶壁の上に集まった、夏至のときと冬至のとき、太陽が昇るのを待つ。太陽が上がってくると、死者は太陽についてゆき、そして太陽が西の崖に没するとき、それについて地下の世界へ入っていくだという信仰を持つようになったというのである。

 この他界への道行き伝承には、イザナギがイザナミに追わせないために、黄泉の国と現世とを岩で塞いでしまったのと同じ瞬間が刻印されている。生と死が分離されるとき、死への移行には障害が現れ、それは岩で塞ぐことで表現されている。ここに、ぼくたちは地下、あるいは洞窟の向こうから、海上、海底へと他界が遠隔化される契機を見ることができる。

 もうひとつ目を惹かれるのは、ぼくたちはひときわマンガイア島の他界への道行き伝承に惹かれてきた(cf.「ニライ・カナイ、地の底から海上への転位」)。マンガイア島の例でも、死霊は冬至と夏至に、朝陽に面する島の二つの地点に集まり、「太陽が地平線に沈む瞬間に、死霊の一行は夕陽の黄金色の光跡を追い、きらめく海を越えて太陽とともにあの世へ下る」のだった。ただ、マンガイア島の例では、その前段で、「すぐ他界へ行くことができなくなってしまった」障害の経緯は語られていなかった。エルベー島の伝承は、それを語るものではないだろうか。

 両島はポリネシアに属している。トンガ島の東のエルベー島は見つけられない。これが、エウア島のことだとしたら、両島の位置は下記の地図になる。距離は1500km以上、離れている。

 萩原はニライ・カナイの原義をめぐる議論の系譜にも触れている。伊波普猷は、「ニライソコはすなわち地底のことであり、土に穴を掘って鼠がその下に住むことからニライという言葉が生まれた(p.208)」とした。前折哲雄も、海上遠く離れた楽土だとするのは間違いで、地下のことではないかとした。宮良当壮はニーラシィクは「地の底即ち根の国底の国に相当する信仰上の世界なり。而して其人界即ち光明に通ずる所はイーザー(岩屋)なり。ゆえにひとたび岩屋を下れば魔界即ち暗黒界に入るを得べしと云ふ。此国に住む者はニール・ピィトゥ(地底人)と云ふ荒ぶる神共なり」とする。アカマタ・クロマタは地底人だとも。仲松弥秀は、暗黒な世界というのは間違いで「青の世界」とした(p.260)。

 萩原は、「私には初発的な異郷が青の世界であったとは思えない」と書いているが、ぼくたちも以前に、前折哲雄への共感と仲松弥秀への違和感を書いたことがある(cf.「ニーラ・カネーラ」「青の島は、間を置いた島」)。

 ぼくたちはここで琉球弧の他界観の変遷を素描しておく。

 1.生からの死の移行
 2.洞窟の向こうの他界(地下)
 3.山中
 4.海上、海底

 3と同位相のものには、地先の島(仲松が追求したオーの島等)の段階も入っていたかもしれない。

 以下、気になる箇所をメモしておく。

 メモ1.狩猟民には、動物の生命の根源を心臓もしくは肝臓に認めて、神への供物とする習わしがある。狩りの獲物の分配の単位を、九州ではタマスといい、沖縄ではタマシという。

 これでいえば、「霊力」に該当するものは、タマシになる。

 メモ2.国頭のシヌグでは、山上の洞穴を男たちが木の枝で突く。伊是名島では少年たちが男根を山中の大木の空洞にさしつける(p.29)。

 メモ3.山に入るものは、成人男子であるが、入山の恐怖は、きわめて卑俗にいえば性の試練であり、山中の隘路を通ることは性交する、あるいは母胎に回帰することをあらわす(中野美代子『中国の妖怪』)。

 メモ4.タイ西北部のヤオ族の正月。山から山の神はじめもろもろの精霊がやってくるが、どの精霊も歩くときは片足跳びになる。この隻脚の神は、西南中国から東南アジアにかけて多い(p.32)。

 これは、徳之島のイッシャも同じだ。イッシャは犬田布岳から降りてきて、片脚で飛び跳ねて歩く。これが与論のイシャトゥの祖形かもしれない。

 メモ5.

 日本では産の神が、山の神、厠神、帚神とも考えられているが、帚は魂をはき寄せる呪具であり、便所は母親が子どもの魂の再入の門戸を開く場所であるからであろう。沖縄の八重山では、人が樹から落ちたり、つまずいて倒れたりすると、魂が体から脱出すると信じられていて、こんなときは厠の神にお願いして落ちた魂をとりもどしてもらう(p.84)。

 「厠」が信仰の対象になるのは、「魂の再入の門戸を開く場所」だからではなく、霊力思考のなかで、女性の体内から取り出すものとして、子供と排泄物が同一視されるからだ。

 メモ6.

 犬が生活にかかせない水を発見する話もあちこちにあるが、犬が人間には見えない地下の水源を察知する霊力をもつということは、古代の人々にとって驚異であった。(中略)。犬が地下水を発見する霊力をもっていることが、地下の冥界の導犬という観念を生んだものと思う(後略、p.167)。

 これは、犬をトーテムとする伝承のある宮古島への手がかりになる。

『地下他界―蒼き神々の系譜』


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2015/04/08

「霊魂観の研究史」(ハンス・フィッシャー)

 ハンス・フィッシャーの「霊魂観の研究史」は、期間にして1860年から1960年までの一世紀、人数にして23人もの西洋人の霊魂観の研究を辿っている。

 フィッシャーの整理では、ヴントを嚆矢として、23人のうち5人が、霊魂二元論に至っている。ぼくたちが捉える「霊力」と「霊魂」のうち、霊魂の根拠に注視しながら、5人の二元論を辿ってみる。

 ヴントは、「縛られた霊魂」と「自由で肉体から分離する霊魂」を区別し、「縛られた霊魂」をより原初的なものとみなし、「身体魂」と名づけた。のちに、「気息魂」と「陰影魂」の概念に至る。ヴントの陰影魂は「夢」によって説明されている(『民族心理学』)。

 ボアズは、「生命魂」と「記憶像の霊」。その名の通り、ボアズにあっては「記憶像の霊」は「記憶」が根拠になっている。

 アンカーマンは、「生命魂」と「写像魂」という名称を提案している。アンカーマンは「写像魂」を、夢に現れることによって生きていると考えられた死者の記憶の像によるとしている(「アフリカの諸民族における死者祭祀と霊魂信仰」)。

 ケルナーは、「生命力」と「影像存在」と呼んだ。「影像存在」は人間に伴う影で、人間の形の写し。ただし、「影像存在」が人間の死後も生き続けるという観念はもっと新しいと考えた(「東インドネシア諸民族における死者祭祀と生命信仰」)。

 アルプマンは、肉体から離れた人間の存在形態として「プシュケ魂」、「写像魂」を規定し、人間に生命と意識を与えるものとして「身体魂」、「機能魂」を規定した。プシュケは記憶の像であり個から離れた人格性の観念。

 各研究者は、「霊力」の捉えかたに大きな差はないが、「霊魂」発生の根拠については共通見解に辿りついていないように見える。根拠の系列には、夢、影、写像、記憶があり、研究者によって選択されるものが異なっているのだ。

 オセアニアの先住民たちの「霊魂」に、「影」や「水に映った映像」を指す言葉がよく現れるように、「霊魂」の起点になったのは、「影」や「写像」だと思える。そこから始まり、身体像までイメージ化が進んだところで、「霊魂」が概念化される。フレーザーは、「動物の内部にいる動物、人間の内部にいる人間が、魂である」(p.178『初版 金枝篇〈上〉』)と、「霊魂」を定義しているが、霊魂が身体像を元にした身体と身体像の二重化であることがよく捉えられていると思える。

 ここまでイメージ化がすすめば、「夢」が、霊魂の身体離脱と死者の霊魂の存在の根拠になっただろう。また、死者の霊は、霊魂として捉えられることになる。さらに、吉本隆明にならえば、「臨死体験」は他界の根拠になったと考えられる。夢で霊魂は身体を離脱しうるし、覚醒時にも離脱すると病気になり、離脱のまま戻らないことを死と捉えることには霊魂思考の特徴がよく現れている。生と死を、仕組み、仕掛けとして捉えようとする志向性が前面化しているからだ。そういう意味では、「影」や「水に映った映像」を霊魂とみなすのも、知覚を根拠にしている点で、霊魂思考のたまものだと言える。それにしても、霊魂の永久離脱を死とみなしことは、霊魂思考の最初の大きな発明だったのではないだろうか。

 「記憶」は、弱められた再生の形として現れていた。死後、兄弟のなかに住み、兄弟が死ぬ頃、忘れられるというウォンガ・ムラ族や、子や孫の中に入り生長させ、1~2年して絶滅するというアルンタ族がそうだ。だから、これは死後の霊魂の存在の一形態で、そういう意味では「夢」と同じ機能を果たしていると思える。

 ぼくたちもまた霊魂を二元的に捉えている。というより、「霊魂」概念が成立したとき、「霊力」も霊魂化して考えられるようになったのだ。

 その二つについて、クロイトは、「霊質」と「霊魂」としているので、ぼくたちの「霊力」と「霊魂」にはとても近い(インドネシアにおけるアニミズムの研究)。ただし、クロイトは、「霊質が生きている体の中にのみあるのに対し、霊魂は体の死後生き続ける霊」として、時間軸のなかで考えているので、二元論だというわけではない。ファン・デル・レーウはクロイトを受けて「霊質」には力の概念を含んでいるから「霊力」とも呼べるとした。少なくともこの概念に関する限り、ぼくくたちはファン・デル・レーウの思考に接近していたようだ。

 アルプマンは、「自然民族においては、一般的に「霊魂観の二元論」が優勢である。これは全く自然なことである。なぜならそれらは、起源と内容が全く異なる、二つの観念だからである」としている。ここで、ぼくたちの考えはアルプマンに重なっている。

 この論考を読むきっかけは、棚瀬襄爾が『他界観念の原始形態』で挙げている「身体魂」の意味を知りたくて、その解説を探したことだった。ヴントが「縛られた霊魂」を指して、「身体魂」と呼んでいるのを元にすると、身体に限定して考えられた「霊力」のことだと分かる。

 ただ、「身体魂」の把握だけにとどまらない長旅ができた。翻訳した相澤里沙に強く感謝したい。「霊魂観の研究史」は、フィッシャーの『オセアニアにおける霊魂観の研究』の第1章に当たるものだという。読んでみたい。翻訳されないだろうか。

『初版 金枝篇〈上〉』

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2015/04/07

「伸展位の埋葬」と「坐位の台上葬」

 樹上葬、台上葬を行う霊力思考優位の段階から、霊魂思考が強くなったとき、葬法がこうむる変容について、ことさら変容が明瞭なものに限定して例を挙げてみる(棚瀬襄爾『他界観念の原始形態』)。


 事例1.ニューアイルランド。家の中の舟棺に坐位を取らせて、石灰で塗り包んで屋根裏に吊るし、何年も保存する(p.201)。

 事例2.サンクリストヴァル。地面に掘った墓に伸展位で葬る。坐位で家の中または舟庫に葬る。

 事例3.エディストン島。死体を蹲踞の姿勢でさらす。しばらくすると頭蓋を取り去り、社に納める。

 事例4.ニューブリテン島のバイニング族。死者を埋葬するけれど、墓穴をふさぎはしない(p.206)。

 事例5.マリンド・アニム族。死体を地面にさしたサゴの木にもたせかけて安置し、全身を黒く塗り目だけは黄または赤に塗る。家の中の平常いたところに死体の長さ位の墓を掘る。埋葬後、若干日が経つと、再び発掘して死体を掘り出し骨を飾り、再び埋める。1年後に骨を取り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗る。頭蓋を洗って赤く塗る。そして再び墓に納めるが、このとき胸の上にサゴを載せる(p.340)。

 事例6.トンガ人。伸展位で埋葬する。

 事例7.ザブブン族。死体は伸展位にして仰臥させ、頭を夕日の方向に向けて埋葬する。


 これらの例が語るのは、伸展位の地上葬が、「伸展位の埋葬」になるか、「坐位の地上葬」になるか、という変容がひとつある。次に、坐位で地上に置いた後、伸展位で埋葬する場合がある。

 前者は、葬法と姿勢のたすきがけを行っており、マリンド・アニム族では、たすき掛けしたものを両方、行っている。マリンド・アニム族はなにごとにつけやることが徹底している。また、マリンド・アニム族は、屋内葬が台上葬系譜の思考だということも教えている。

 琉球弧の風葬に多いのは、このたすき掛けの伸展位埋葬だと言える。

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2015/04/06

環状集落・環状列石・環濠集落

 設楽博己による集落と墓地の変遷図が、分かりやすいので挙げておく。

Photo

 左端は、縄文中期の「環状集落」。墓地を中心に円形に住居が配置されている。真ん中は、「環状列石」を中心に、住居が分散している。これは、縄文中期終末の気候の寒冷化現象にともなう人口減少と集落の小規模分散によるものだとされている。右端は、弥生期の「環濠集落」。集落の外に墓域が押し出されている。

 これに生死認識と他界観を対応させてみる。

 環状集落:死は生からの移行。生者と死者の区別のはじまり。他界は空間化の初期。
 環状列石:生者と死者の空間の区別。他界の空間化の深まり。
 環濠集落:生と死の分離。他界の空間化の完成。


 
『弥生再葬墓と社会』

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2015/04/05

「日本語形成におけるオーストロネシア語族の要素」

 いままで何度も引用してきた崎山理によるオーストロネシア語の北上について、整理しておこう。

 琉球弧の年代と伊藤慎二による時代区分(cf.「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」)も同時に添えてみる。


Photo_2

 1.ハイ期

・ニューギニアあたりを北上
・ハイ(原オーストロネシア語のエイを意味する*payi が語源。星、星座への比喩的表現として用いられる。
・「エイの星」は、オーストロネシア語族インドネシア語派の民族にとって、方位、風位を認識するための星として機能した。
・他には、木、火、イモ、臼、原、魚(いお)、目(ま)、臍(ほぞ)・へそ、たえ、飲み、泣き、抱き、果て、嘗め、小さ。

 2.ヨネ期

・インドネシア語派の分布地域であるインドネシア東部からフィリピン、ミクロネシア西部あたりを経て北上したのか、いわゆる照葉樹林地帯に含まれる中国揚子江南部流域から出発したのか決め手がない(3期を含む)。
・ヨネは砂、砂利。ヨネは「米の実」を意味した。新しく渡来した穀物への比喩。その後、コメに置き換えられてしまった。
・琉球語では、ユニ、ユナは「米」と「砂」に意味的連合がある。

 3.ハヤト期

・ハヤトという言葉ではなく、隼人、熊襲の北上を崎山は意味させている。
・琉球語で太陽を意味するシナ(光)、ヤドカリを意味するアマン、波照間島でカラムシを意味するbaagoo。
・イを語頭にともなう地名。

 伊藤の区分をもとにすれば、オーストロネシア語族の北上は、定着期以降だということが分かる。

 ぼくはここからいくつか仮説を立ててきた。与論を指す「ユンヌ」の語源が「ヨネ」に由来する。それはオーストロネシア語族の北上2期に、与論の珊瑚礁環境が整ったこと、最古に近い遺跡があることも傍証している。また、アマミキヨとは、帰ったきたアマムではないかということ。それは「砂」として北上した「ヨネ」が「米」として帰ってきたのと同じだ。また、トーテムとしてのアマムが古くはなく、少なくとも最古ではないことも示唆されている。


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2015/04/04

樹上葬・台上葬の思考、注

 樹上葬、台上葬について、なぜ樹上なのか、なぜ台上なのかに答えた先住民の証言をぼくは知らない。けれど、マリノフスキーの『未開人の性生活』のなかで、「初妊娠の儀式」は、妊婦が台の上に置かれるのを知り、生誕と死が同型であるのを知った。そこには、トロブリアンド諸島に見られるように再生の信仰が流れている。そして、そこでは「完全に大地から離れていなければなら」ないとされている思考を見ることができる(cf.「樹上葬・台上葬の思考」)。

 ぼくたちは先に、再生信仰のなかにも霊魂思考が宿っているのを確認した(cf.「食人と再生信仰における思考の差異」)。この場合の霊魂思考とは、大地は死にかかわり、地下は死者の領域であることが観念されいるのではないだろうか。

 樹上葬、台上葬を行った種族が、霊魂思考を受け入れる過程で、死者に軽く土や枝をかけるような埋葬が行われる。棚瀬襄爾はこれを「埋めない埋葬」と呼んだ。ここから、死は生とひとつなぎではなく、移行の段階に入っていく。

 考えてみれば、樹上葬、台上葬は相当に人為的だ。


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2015/04/03

『縄文社会と弥生社会』

 設楽博己の『縄文社会と弥生社会』でまず驚かされるのは、現在の考古学による農耕の開始に関する知見だ。

日本列島における穀物の出現が、弥生時代の直前にまでしかさかのぼらないことと、初めに雑穀が栽培されて水稲耕作が遅れてはじまったというものではないことを、現状では認めざるをえない。

 これは9~11世紀まで農耕の開始が認められないとする琉球弧の考古学の知見と同位相にあるのだ。もちろん、年代はまるで違う。

 植物の栽培という意味での「なんらかの農耕」は縄文時代から存在したとみなければならないが、「栽培植物のほとんどが嗜好品的な食料である点に、縄文農耕の特質がある」とされていることは、琉球弧においては、低生産にとどまるとされていることに対応する。

 ぼくは、農耕の開始がグスク時代を待たなければならないことと、琉球弧におけるハイヌウェレ型神話の希薄さに関連の可能性を見出したが、本土日本における雑穀と水稲耕作の同時性についても、関連を感じるものがある。『古事記』において、殺害されたオオゲツヒメの身体から生まれたのが、稲の穂の他、小豆、蚕、粟、大豆、麦と雑穀類も混じっていることだ。中部高地地方では「ダイズやアズキ」が縄文中期以降に認めれているし、オオゲツヒメから生まれた植物にしても置き換えの可能性はあるけれど、この組み合わせは実態だったのかもしれない。

 以下、設楽の挙げる知見を整理してメモを加えていく。

◆草創期(1.5万年前)

・1万数千年前、「土偶」の出現
・竪穴住居が徐々に増加
・「土偶」。小さな頭と腕を表現しているが、顔の表現や脚の欠如、大きな乳房

◆早期(1万年前)

・「土偶」。大きな乳房、よく張った臀部、顔の表現と脚の欠如
・早期後半、上野原遺跡の遺物位置は、見事な環状に分布
・早期末、「環状集落」が関東地方などで形成された

◆前期(7000年前)

・定住生活の深まりを思わせる大型集落の形成
・6000年前、イノシシを口縁部頂点に表現した土器の出現
・前期中葉、「環状集落」の一角に墓域が設けられるようになった
・石棒の出現

◆中期(5500年前)

・「環状集落」
・「廃屋墓」(東京湾岸)

・5500年前、動物型土器(イノシシ)が作られるようになる
・土偶の盛行、狩猟が活発ではなく植物質食料に支えられていた
・「土偶」。中期以降、顔の表情や脚を獲得して立体的に表現されるようになる

・中期中葉、大型石棒の増加
・中期後半以降、土偶にかわるようにして石棒が盛行

◆後期(4500年前)

・狩猟が活発化し大規模配石遺構が成立して呪術具のバリエーションが豊富になる
・後期以降、イノシイ型土製品の盛行
・狩猟の盛行(シカとイノシシ)

・後期以降、環状列石をはじめとする大規模な配石遺構の出現(東日本中心)
・仮面を表現した土偶の出現、土製の仮面の出現

・後期後半(北海道で、墓地に副葬品を多く入れる風習の強まり)

◆晩期(3300年前)

・抜歯が盛行(西日本)
・土偶の副葬(東北地方から関東地方へ)
・終末、土偶と石棒という男女を象徴した遺物が土坑墓から出土(愛知県)


◇弥生時代

・「環濠集落」
・戦死者の人骨出土数200体(縄文時代、10体に満たない)

◇前期(前8世紀)

・男女一対の土偶が副葬される(女性像が大きい)
・水田稲作や雑穀栽培が日本列島の隅々まで達した(北海道、琉球弧、下北半島、津軽半島を除く)

◇中期(前4世紀)

・男女一対の土偶が副葬される(男性像が大きい)

 メモ1.

 まず、「環状集落」の一角に墓域が形成される縄文前期中葉から、中央に墓域を持つ中期にかけては、死が「移行」の段階に入ったことを示している。

 中期以降、土偶が、顔の表情や脚を獲得して立体的に表現されるようになるのは、身体像の対象化に当たる。これは、「霊魂」観念の成立には不可欠な条件だと思える。身体を対象化してイメージできることが、霊魂が身体から抜け出すイメージを生むのに必要だと考えられるからだ。

 後期、土製の仮面が出現している。このとき、霊魂と身体ははっきりと二重化される。そして同時に、この仮面は、死者や祖先として表象されたと考えられるが、これは他界の空間化のはじまりを意味していると思える。仮面により死者を出現させたのは、言い換えれば、死者の遠隔化に当たっている。これは同時に生と死の分離のはじまりだ。そして、生と死の分離は、弥生時代の環濠集落で明確になる。

 他界の空間化のはじまりは、生と死のひとつなぎの段階の崩壊過程を示す。また、ぼくの考えでは、仮面の出現以降、精霊観念も確かになる。

 弥生時代中期に男女一対の土偶が副葬されるところでは、既に男女神が想定されるようになっている。

 メモ2.

 縄文時代の基本的な思想として、再生観にもとづく循環の論理を指摘した山田は、弥生時代には祖先とのつながりという系譜関係を意識した直線的な思想が重視されると述べている(p.51)。

 縄文時代は、少なくとも定住化以降は、死が生からの移行と捉えられた時代であり、純然たる再生観の時代ではない。

 メモ3.

 石棒はどうだろうか。設楽は「石棒類は、墓に副葬されたり、墓域に立てられたりする場合が多い」として、そこに死とのかかわりを見ている。アカマタ・クロマタの持つマラ棒はそれに触れると一年以内に死ぬと言われており、石棒つまり男根は死との関わりをもつが、鈴木素行によれば、「住居跡外において完形の状態で検出される大型石棒には、「樹立」の確実な事例は認められない」として、婚姻儀礼との関わりを仮説している。(cf.「屋内祭祀と石棒」)。そうなると、「石棒類は、墓に副葬されたり、墓域に立てられたりする場合が多い」ということも判断材料にしてよいか、分からなくなる。

 メモ4.

 弥生時代の壺形土器は、口辺部に顔を持つ顔壺を呼ばれるものがある。これは墓から出土されるが、弥生中期後半から後半にかけて居住域から出土するようになる。これは「葬送儀礼から農耕儀礼へと役割が変化したからではないだろうか」。

 西川津遺跡例の顔は斜め上を向いているが、想像を膨らませれば、上空に上げた視線の先には、空を飛ぶ鳥が観念されえいたのではないかと思われる。森の中で精霊と交感する土偶が正面、すなわち森の奥を見ているのと対照的だ(p.109)。

 この想像は愉しい。でも、ぼくの見立てでは、精霊が形を取った時には、既に土偶づくりは盛行を過ぎている。

 メモ5.

 「日本列島の穀物の始原は縄文晩期終末」であり、北九州から始まることと、「抜歯」が縄文晩期の西日本で盛行すること。このふたつにはつながりがあるかもしれない。抜歯は、黒い雲で雨降りの呪術と見なせば、農耕の開始と雨乞いとの同期を示す。また、琉球弧において抜歯があまり見られないのは、農耕に依存していなかったからだという理解になる。

 デュルケムは書いている。

アルンタ族では、歯を抜くことは雨と水との氏族でしか行われていない。ところが、伝承によると、この手術は明白に縁取りされたある黒雲-これが近く降雨の到来することを告げるとみられ、またこの理由から同一系統のものと考えられている-に外観を似せるのが目的であると。これが、原住民自らがこの変形の目的は少なくとも因習的には自らにトーテムの外形を与えるためであると意識している証拠である(p.205、『宗教生活の原初形態〈上〉』

 デュルケムが引いているのは、スペンサー&ギレンによるものだ。さすが。

 メモ6.

 多人数集骨葬の多くは、円形あるいは楕円形の土坑を掘り、その中に再葬人骨を集積しているが、頭蓋骨を土坑の壁に沿って配列し、長管骨を束ねて積み上げた例が目立つ(p.162)。

 ぼくはこの「頭蓋骨」と「長管骨」の扱いには意味があると思う。

 メモ7.

 設楽は、弥生時代に、「漁撈集団の農耕集団への従属」がみられるとして書いている。

この関係性は、漢帝国とのあいだに冊封関係を結んで東アジアの政治的枠組みのなかに参入していく外交的な政治組織づくりにあたって、漁撈集団をその政治組織に取り込んでいくという、なにかにつけて内部化していくことにたけた農耕集団の積極的な働きかけから生まれてきたものであろう。

 「なにかにつけて内部化していくことにたけた農耕集団」。この本でもっとも印象的な箇所だった。

 メモ8.

 なぜ水稲耕作の出現は突然なのか。設楽は仮説している。

 縄文時代の水さらし処理。
 湧水点→導水路→取水施設→水さらし場→堰→排水路

 灌漑水田稲作。
 河川→導水路→井堰→水田→井堰→排水路
 
 と、アク抜き工程と基本的に変わらない。「縄文時代は、灌漑水田も行おうと思えば可能であった技術のレベルをすでに確保していたとみなすべきである」。

 メモ9.

 設楽は、縄文時代を「採集狩猟社会」と書き、「狩猟採集社会」とは書いていない。これは、縄文後期に狩猟が活発になることを受けてのことだと思う。

『縄文社会と弥生社会』

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2015/04/02

食人と再生信仰における思考の差異

 食人と再生信仰における霊力思考の差はなんだろう。食人は、身体に霊力を認めるのだから、霊力思考が支配的であることが分かる。

 ところが、再生信仰では、霊魂思考の動きも認められる。オーストラリアのウンマトエラ、カイティッシュ、ワラムンガ、グナンジ、マラ族は再生信仰を持つ。これらの種族では、死霊は死体が樹上あるいは木の間をさまよい、また服喪が正しく行われているかを監視すると考えられ、切髪、石灰塗布、沈黙の掟が守られるが、骨葬が終わると、死霊は父祖の神話時代の地へ去り、遺族の服喪も終わる。

 棚瀬はこれについて、「遊離霊」であることは間違いなく、それ自身の意思を持ち、「形像霊」的な把握も皆無ではないが、「人間形態視」は強くないとしている。つまり、再生信仰においては、霊魂思考も稼働しているのだ。

 ということは、再葬にはいずれ「骨の信仰」があることは間違いないが、それは霊魂思考の関与だと見なすことができる。

 「霊魂」観念の諸相には、

 1.動く
 2人間の形を持つ

 この二つの軸がある。霊力思考が優位なところでも、身体を離れて「動く」霊魂は存在して、その場合、人は再生するという観念を生む。「人間の形を持つ」という段階まで来ると、霊魂は身体と二重化した「霊魂」として振る舞う。そこでは、霊力より霊魂思考が優位になっていく。

 (cf.棚瀬襄爾『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』

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2015/04/01

食人と再生の変形の体系

 食人と再生について、その変形の連鎖を図解してみる(cf.「ロベール・エルツの「死の集合表象」)。

Henkan

 霊力思考にとって、骨は再生の媒介だが、霊魂思考になると祖霊の根拠になる。また、重視される骨も長骨から頭蓋骨へと変わる。霊力思考と霊魂思考において対照的なのは、死体が「聖なるもの」と「穢れたもの」として対置されることだ。

 この反転がなぜ起こるのか、根底的なところが、まだ分からずにいる。ただ、女性の殺害による有用植物への再生を行ったことは大きな契機のように思える。それは自然に手を加え、人為的に自然を加工することの最たる行為であり、いわば、人間が自然から決定的に分離することを意味している。

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