「南西諸島における先史時代の墓制」(新里貴之)
新里貴之の「南西諸島における先史時代の墓制(Ⅱ・Ⅲ)を小躍りするように読んだ。
まず、トカラ列島・奄美諸島。
仰臥伸展葬
・トマチン遺跡石棺墓1(縄文時代晩期・貝塚時代前Ⅴ期)
・トマチン遺跡92(縄文時代晩期・貝塚時代前Ⅴ期)
・面縄第1洞穴(縄文時代晩期・貝塚時代前Ⅴ期)
・宇宿貝塚(弥生時代後期~終末期以降・貝塚時代後期前半以降)
仰臥屈肢葬
・長浜金久第Ⅱ遺跡(弥生時代中期・貝塚時代後期前半)
・宇宿港遺跡2号墓(弥生時代後期~終末期以降・貝塚時代後期前半以降)
・宇宿港遺跡1号墓(弥生時代後期~終末期以降・貝塚時代後期前半以降)
小湊フワガネク遺跡群ナガガネク地区(古代・貝塚時代後期後半・8世紀代後半以降)
・「成人女性であると想定されている埋葬人骨は大半が小失しており、しかも棺材の抜き取りもされていることから、石棺内で骨化させた後、骨を抜き取った改装を行う施設である可能性がある」(松下孝幸)。
また、トマチン遺跡の4号は、仰臥伸展葬で頭骨が抜き取られていた。
新里はこう整理している。
岩陰地帯の墓利用は、縄文時代早期末~前期初頭ごろから存在した可能性がある。岩陰墓が古式の先行立地形態として存在し、縄文時代晩期~弥生時代中期頃まで砂丘立地の墓と並存し、弥生時代後期以降は、砂丘立地が主流になった。岩陰と砂丘の並存は、集落ごとに墓域が異なったことを示唆している。奄美では、大隅・沖縄のように台地・兵陵立地の先史時代墓は確認されていない。
一次葬を示すものは砂丘立地に多く、岩陰墓では二次的に動かされている。
国分直一のいうような他の場所で骨化したものを持ち込んだのではなく、当初は一次葬として埋葬されたものが、追葬を行うにあたり、それが寄せらたり退けられたりすることによって狭い埋葬空間に多重累積し、再葬の様相を示すものである。このことからすれば、縄文時代後期以降、岩陰墓・砂丘地では同一の墓抗で埋葬スペースに何度も埋葬していくという一連の種族があったことになり、砂丘地のオープンスペースにおいては、埋葬エリアの広さから一次葬のままにされることもあったと考えられる。砂丘・岩陰両立地でも、縄文時代以降、基本的には一次葬であり追葬を行うことが多いことになる。
縄文時代晩期以降、仰臥伸展葬が主流であり、これは沖縄諸島に類似する点であるが、沖縄諸島のような伏臥伸展葬は認められていない。弥生時代後期以降は、仰臥屈肢葬(後略)。埋葬頭位は、全体としてやや南よりの傾向があるが、北偏も一定量有り、判然としない。
奄美諸島・沖縄諸島地域においては、下顎切歯を中心とした抜歯が主様式であったことが峰和治によって明らかにされている。この見解に加えて、松下孝幸らは、沖縄諸島には犬歯の抜去例がないことを抽出している。
続いて沖縄諸島
仰臥伸展葬
・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
・具志堅(砂丘・前Ⅳ期後半)
・大久保原(砂丘・前Ⅳ期後半・前Ⅴ期末)
・具志川島西区(岩陰・前Ⅳ期~)
・具志川島岩立(岩陰・前Ⅳ期~前Ⅴ期末)
・仲原(台地・前Ⅴ期末)
・木綿原(砂丘・前Ⅴ期末~後期初頭)
・宇地泊兼久原1(砂丘・後期?)
・安座間原2(砂丘・後期前半)
仰臥屈肢葬
・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
・屋部原田原(砂丘・前Ⅴ期)
・西底原D(砂丘・後期?)
・名護(砂丘・後期後半)
仰臥屈葬
・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
・具志川南区(砂丘・後期前半)
・米須(砂丘・後期?)
伏臥伸展層
・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
・大久保原(砂丘・前Ⅳ期後半・前Ⅴ期末)
・武芸洞(洞穴・前Ⅴ期末~後期初頭)
・木綿原(砂丘・前Ⅴ期末~後期初頭)
・中川原(砂丘・後期初頭?)
・嘉門B(砂丘・後期前半)
・アーカル原(砂丘・後期?)
新里の整理。
沖縄諸島には伏臥伸展葬が目立つ。抜歯の対象者は成人すべてに対して行われているわけではなく、遺跡によって、8%、数%、33%、30%、43%と時期とともに若干増えるが、検出人骨数に対して8割以上の抜歯を行う本土に比べてかなり少ない。
南西諸島の葬墓制が、九州・本土地域と異なるのは、縄文時代から伸展葬を主要な埋葬姿勢とする伝統性をもつ奄美・沖縄であるといえよう。(中略)伏臥葬については、台湾を起源とする可能性もある。
新里の整理をもとに関心のある項目について作表してみる。
各遺跡は古い順にソートしている。とはいっても、各遺跡は該当する期間に幅があるから、遡れる上限の時期に合わせている。さて、上記のなかでも、仰臥伸展葬、伏臥伸展葬、仰臥屈肢葬、仰臥屈葬という埋葬姿勢について、各遺跡ごとの交わりを見てみる。
ひとつの遺跡でも期間があるから、上の図はあまり意味を持たないが、おおざっぱな目安を立ててみたい。「伏臥伸展葬」は初耳なのと、屈肢葬と屈葬の区別はぼくにはよく分からないが、屈葬の方が曲げる度合いが強いとみなしておく。
すると、仰臥伸展葬と伏臥伸展葬には一定の重複があるが、仰臥屈肢葬と仰臥屈葬については単独の場合が多い。四つの葬法姿勢とも認められるのは、貝塚時代前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末(4000年前-2600年前)とされる安座間原遺跡だ。
これに埋葬数を考慮して、新里は埋葬姿勢間の割合を出している。
前Ⅳ・Ⅴ期の埋葬姿勢のわかるものを対象とすると、仰臥伸展葬:仰臥屈肢葬:仰臥屈葬:伏臥伸展葬の割合は、32:5:1:14となる。後期になると、3:5:2:2となり、全体的に対象数が少ないものの、屈肢・屈葬が増加し、伏臥葬も継続している。
乱暴だが、これを百分率で表すと、
仰臥伸展葬:伏臥伸展葬:仰臥屈肢葬:仰臥屈葬
62%:27%:10%: 2% (前Ⅳ・Ⅴ期)
25%:17%:42%:17% (後期)
四つの埋葬姿勢がいちどきに出た安座間原遺跡では、「伏臥葬は仰臥葬と併用される一般的な埋葬姿勢であり、屈葬はわずか一例で特殊であると」報告されているが、伏臥伸展葬は仰臥伸展葬の変形タイプだと思われる。屈葬の前段で、伸展葬より霊魂思考が進んだものとみなすのだ。
貝塚時代の前Ⅳ期から後期にかけて伸展葬は主流であり、後期になると屈葬の割合が増すのは、霊魂思考の強まりを示していると思える。霊魂思考の強まりでいえば、仰臥伸展葬(伏臥伸展葬)→仰臥屈肢葬→仰臥屈葬の流れを想定することができる。
また、頭骨の抜き取りや頭骨と四肢骨の分離も興味深い。前者は霊魂思考による頭蓋崇拝であり、後者は霊力思考の優位だと考えることができる。
代表的な立地である砂丘と岩陰について、新里は居住域を理由として想定している。それを元に考えると、少なくとも前Ⅳ期以降では、砂丘域では霊力思考優位の種族も埋葬を選択し、岩陰域では、霊魂思考優位の種族は埋められない埋葬としての風葬を行ったと考えられる。前Ⅳ期はすでに定着期に入っており、霊魂思考が進展していったのだ。ただし、再葬は上記よりも実際は多かったのではないだろうか。新里は、「砂丘・岩陰両立地でも、縄文時代以降、基本的には一次葬であり追葬を行うことが多いことになる」と見なしているが、ぜひ再葬の視点を導入してもらいたいと思う。
この表でいえば、#10の仲原遺跡(伊計島)においては廃屋墓も確認されている。これは、日本でいえば縄文中期後半に確認されている。単純計算では1400年の差がある。
琉球弧で抜歯が希薄なのも興味深い。ひょっとしたら、琉球弧では、成人儀礼の臨死度は低かったのではないだろうか。
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