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2015/03/17

琉球弧の先史時代三篇

 ようやく琉球弧の先史時代をポジティブに捉える人たちが出てきたのが嬉しくなる本だ。彼らが明らかにしたとを辿ってみる。

◇「奇跡の島々-先史時代の奄美・沖縄諸島」(高宮広土)

 まず、高宮の提示する年表がありがたい。

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 8、9世紀までの遺跡からは栽培植物は全く検出されず、堅果類(ドングリの類)やぶどう、ダブノキがほとんどで、人々は野生植物に依存していた。前1期から後2期のほとんどまで、島人は野生の植物を食していた狩猟採集民だった。

 これは奇跡的なことだと、高宮は言う。なぜなら、狩猟採集民が島嶼環境に適応するの至難なのだ。世界中の多くの島は、「農耕がはじまった一万年前おりあとに、農耕民によって、初めて移植されたのである」。

 狩猟採集民のいた島には次の特徴がある。

 1.大きな島であること(沖縄島はその意味では小さな島)
 2.大陸あるいは大きな島から近距離にある。
 3.大型海獣がある程度豊かで、コンスタントに手に入る
 4.動植物の持ち込み(琉球弧の場合、確実は持ち込みはイヌのみ)
 5.1~4の組み合わせがあること

 琉球弧貝塚時代は、この一つも当てはまらない。にもかかわらず、少なくとも約6500年前から「人が継続して住み続けた(伊藤慎二)」。


◇「島における先史時代の墓」(新里貴之)

 高宮広土が明らかにした先史時代の琉球弧の5つの特徴。

 1.旧石器時代に現生人類が生活していた
 2.狩猟(漁撈)採集民が長期間にわたって継続して居住した島
 3.狩猟(漁撈)採集から採集へと生業が変遷した島
 4.狩猟(漁撈)採集のバンド社会から王権を成立させた島
 5.人間が大きな環境破壊を引き起こしていなかった島

 貝塚時代の墓は前2期から確認され、前4期にはすでに多様な墓が認められる。

 前2期。土坑墓。
 前3期末から前4期。集住していく様子がみられ、土坑墓、岩陰墓、石囲墓、配石墓、廃屋墓。廃屋墓はぼくたちの関心を惹く(仲原遺跡は、伊計島にあり、貝塚時代前5期に当たる)。

 前5期。一定領域に住居を何度も建て替えて住み続ける。石棺墓。

 徳之島トマチン遺跡(前5期末。2800~2400年前)

 石棺墓上段、1号:仰臥伸展葬。中段、4号:仰臥伸展葬、ただし頭部は上段に置かれていた。

4号人骨が埋葬され、骨化してから頭骨を抜き取り、上段埋葬の底石を敷いた後、さらに三体の被葬者を埋葬するまで大事に棺内に安置さr続けた、という再葬の状況が具体的に明らかになった。

 石棺墓そのものは九州系の要素だが、「重層構造は、前4期頃から確認されており、伝統的な埋葬法であったようだ」。埋葬された人々は琉球弧の先史時代の集団だと判断されている。風習的な抜歯は確認されていない。家族あるいは親族と考えられる。ミトコンドリアDNAでは、2号がD4n、4号がD4b。

 生業活動は漁撈とイノシシ猟。遺跡からは多量のカニ・ヤドカリ類が確認された。オカヤドカリは、墓地の外に多く、墓地周辺では少ない。

 ぼくたちは、約2800~2400年前の徳之島トマチン遺跡に埋葬された島人が、霊力思考の上に霊魂思考を混融させた地上の他界を持つ人々だったと推測することができる。そして、4号からは頭蓋崇拝の痕跡も認められる。

 またトマチン遺跡のある喜念は、松山光秀が調べた洗骨と埋葬の分布では、洗骨地帯に入っている。東半分は埋葬地帯だが、その下層には、仰臥伸展葬があったのかもしれない。


◇「サンゴ礁の貝を利用し続けた沖縄の人々」(黒住耐一)

 旧石器時代から貝塚時代までは一万年のギャップが存在しているといわれていたが、徐々に埋められつつある。たとえば、港川人と同じ時代で貝を用いた道具や装飾品が沖縄島南部のサキタリ洞遺跡から発見された。

琉球列島では弥生時代以降に相当する後期にも水田稲作等の穀類農耕は行なわれていなかったことが確実となった。ただ、筆者は熱帯に広く分布する胎生の淡水産巻貝・ヌノメカワニナが前4・5期の遺跡から確認されており、この時期に南から水生タロイモについてこの貝が持ち込まれたと想定できることから、沖縄で根栽農耕の存在の可能性を考えている。しかし、このタロイモ農耕による貝類等の変化はほとんど認められておらず、根栽農耕が存在していたとしても高宮・新里等が想定している社会組織に影響を与えるものではないという評価は妥当であると考えている。

 ぼくたちも徳之島トチマン遺跡の葬法からは、琉球弧の根栽農耕はあったと考える。それは社会組織に大きな影響はなかったかもしれないが、琉球弧に他界を発生させ、憑依の呪術を生むなど、思考にとっては大きな転換だったと思える。一方で、死体化生神話が琉球弧で稀薄なことと符合している。

 約6000年間の安定した貝類利用は、10~11世紀のグスク時代に入り、穀類による農耕社会になることで、大きく変化する。

 筆者は、この貝類遺体の示す漁撈-採集社会から農耕社会への変化を、農耕に従事させられるという社会的制約によりサンゴ礁での貝類採集活動が減少した結果であると考えている。

 黒住の論考は食べ物の話が出てくるのも楽しい。たとえば、小型の貝類は身(肉)よりもダシ的に利用したと想定したところ、調査時の民衆で、この貝の吸い物とマガキガイの身の入った油味噌が出て実証された、というように。

 また、「貝塚時代の約六〇〇〇年間はこのサンゴ礁の貝類利用が中心であったと言えよう」としているが、これは、そうだったろうなぁと、島人の実感としても頷けるのではないだろうか。


『文明の盛衰と環境変動――マヤ・アステカ・ナスカ・琉球の新しい歴史像』


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