樹上葬・台上葬の思考
マリノフスキーは『未開人の性生活』のなかで、初妊娠の儀式を観察している。
妊娠の沐浴は彼らが通常身体を洗う水源、または海岸で行なう。波打ち際にくると、女たちは互いに向かい合って二列に並び、交叉的に手を握る。妊婦は、女たちの頭をささえにして、手の橋の上を歩く。そしてあるところまでくると、水中に飛び込む。そして女たちは彼女に水をかけたり、彼女の頭を沈めたりして、できるだけ濡らす。女たち曰く。「私達は彼女の皮膚を私らの手でこすり、彼女の表面をこすって清潔にしてやる」。
十分に水に浸され、身体を洗いおわると、彼女を海岸につれてきてマットの上におく。この瞬間から彼女は完全に大地から離れていなければならず、自分の足で地麺にふれてはならない。
沐浴の後、皮膚をかわかされスカートをはき、身体装飾を、逐一呪文をかけながら施される。この間、彼女はマットの上に立ったままでいなければならない。そして父の親族が彼女を持ち上げ、父の家まで運び、そこに建てた小さな台の上におろす。彼女はその日ののこりをこの台の上で過ごさねばならない。飲食物を要求する以外には口をきいてはならず、食べ物に触れてもならず、父の親族から口に入れてもらう。日が沈むと彼女は父の家に引きこもることを許されるが、翌日にはふたたび高台にあがって坐り、前日と同じタブーを繰り返し、これが三日から四日、続く。
本には、「台の上に置かれた妊婦」の写真が載っているのだが、これはまるで台上葬である。妊婦がしゃべってはならず、食べ物も自分で口に運ぶことができないのは、死者と同じ状態だ。現に、トロブリアンド諸島では、服喪の際、夫を亡くした妻は、長い間、引きこもっていなければならず、その間、大声で話してはならず、食べ物に触れてはならず、食べ物を自分で口に運んでもいけない。排泄物さえ、他人が外へ出してもらわなければならない。この場合の服喪とは、擬似的に死者と同様の在り方をすることを示すものだと思えるが、服喪と妊婦の儀礼は同型をなしている。
台の上に置かれる妊婦は、かつてトロブリアンドが台上葬を行なっていたことを示唆するものではないだろうか。ここで、注目したいのは、儀礼の過程は、妊婦が「大地から離れていなければならない」とされていることだ。思うに、これが台上葬や樹上葬の根本にある思考なのではないだろうか。
なぜ、出産が死と「同じ」になるのか。それはトロブリアンドでは、死は生の移行だが、同時にひとつながりでもあって、人間は再生する。だから、死と同じ形式を取るのは忌まわしいことではなく、生と死の円環のつなぎ目として同じであることを意味している。
樹上葬や台上葬について、なぜ、台の上や樹の上なのかを説明した文章に、ぼくはまだ出合ったことがない。北方アジアのシャーマンが樹上葬をすることについて、天の他界との関係で説明されたものを読んだことはある。しかし、葬法の思考はある条件下では、人類に共通すると仮定すると、シャーマンの樹上葬は天界信仰より古いと考えられる。そうであるなら、樹上葬を天界と結びつけるのは原型を示していない。また、オーストラリアの樹上葬などで、死汁を浴びることがなされるが、その便宜のための樹上ということも思いつくが、実用性が根本の思考にあるとも思えない。大事なのは、大地から離れるということ、なのではないだろうか。
ここには大地母神の考えはない。大地から離れたところに生と死の円環は描かれたということではないだろうか。トロブリアンドでは、すでに霊魂思考が強度を持ち、葬法も埋葬になっている。しかし、再生信仰は失われておらず、霊力思考も強い。そのことが、この妊婦儀礼にはよく示されているように思える。いわば、妊娠の儀礼によって、台の上の思考を語っているのだ。
cf.『未開人の性生活』
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