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2015/03/04

「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」

 高宮広土と新里貴之による「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」(2013年)。

 琉球列島のふたつの稀な特徴。

 1.島嶼環境下で、狩猟採集民が長期間継続した地域はかなり珍しい。
 2.狩猟採集のバンド社会から国家の成立までの社会組織の変遷があったこと。世界のほとんどの島は農耕民いよって植民されたので、それらの島々では狩猟採集のバンド社会は存在しなかった。狩猟採集民のいた島でも首長社会が存在したことが知られるが、これらの島では国家は形成されなかった。

◇貝塚時代(7、8000年前~1000年前)

・脊椎動物利用、主なタンパク源
 前Ⅰ期(7,8000年前~5,6000年前) リュウキュウイノシシが主
 前Ⅲ期(5000年前~4000年前) ハリセンボン科など、内湾性の魚類へと変遷
 前Ⅳ期(4000年前)以降 サンゴ礁の魚類

・貝塚時代には農耕はなかったことが明らかになりつつある。
・最古の栽培植物は、9~10世紀想定(那崎原遺跡)。明確なのは、11~12世紀。
・植物遺体は、堅果類などの野生植物のみであり、栽培植物は含まれていなかった。

1.貝塚時代前Ⅰ期~Ⅲ期(縄文時代早期末~後期初頭)

・前Ⅰ期 砂丘または洞穴・岩陰を中心として遺跡が形成
・前Ⅱ・Ⅲ期になるにつれ、台地上の遺跡も増加し、遺跡立地のバリエーションが増加する。
・前Ⅱ期には、九州を起源とする曾畑式土器が琉球列島に南下し定着。
・貝塚時代前Ⅰ~Ⅲ期にかけて、住居跡や集団墓地は確認されておらず、比較的遊動的な社会であったと考えられる。

2.貝塚時代前Ⅲ期末~前Ⅳ期(縄文時代後期中葉~弥生時代前期)

・貝塚時代前Ⅲ期末~前Ⅳ期初頭には、直径約3m前後の円形・楕円形・不定形の竪穴住居跡が、数基散在する傾向にあるものが多い。
・前Ⅴ期には、一遺跡における住居跡数が急増する。
・前Ⅴ期末には、竪穴を補強するような石囲いや石囲い炉も出現する。
・前Ⅳ期の住居跡の長さは平均5m以下であるのに対して、前Ⅴ期になると5m以上の住居跡もみられるようになる。
・前Ⅴ期の遺跡が高地性集落的で、何らかの緊張状態を示しているようにも考えられる。
・前Ⅳ期から、集団墓地(岩陰墓や砂丘墓)が確認される。土抗墓、配石墓、石囲墓、覆石墓、土器棺墓など、層墓制が多様化するとともに、副葬品や装身具に貝を用いることが多い。

・漁撈採集民にもかかわらず、定住化が前Ⅲ期末から生じた。
・前Ⅳ期末までの社会組織はバンド的な社会であったと考えられる。
・前Ⅴ期末には石囲住居跡や石棺墓の一部に、労働投下量の違いから、前Ⅳ期以前の状況とは差異があったことは確か。
・交流によって多種多様な外来品がもたらされ、土器形態を変化させ、住居形態や石棺墓の導入というような文化変容、集落機能の分化も確認される。

 前Ⅴ期末の住居例として挙げられているウフタ川遺跡(大島龍郷町)は、上野原遺跡の公園で復元されたものを見たことがある。石囲いや石積みの竪穴住居で、石組みの炉を持つ母屋と倉庫がある。壁材は珊瑚が用いられている。

 住居の規模は前に比べて大きくなっていると解説されているが、ぼくたちの現在の住居感覚と比べてはいけない。身をかがめなければ入れない出入り口と、狭い内部空間で、雨露をしのぐほどしかできなかったのではないかと感じられた。

Uhuta

3.貝塚時代後期前半(弥生時代中期~古墳時代)

・遺跡は交易に対応するように、沿岸部に立地
・柱穴が散在する小規模集落と竪穴住居跡と柱穴が無数に切り合い、混在する集住的な大規模集落が見られる。
・「貝の道」と呼ばれる南海産貝交易が活発化

4.貝塚時代後期後半(古墳時代終末~平安時代)

・遺跡は砂丘や丘陵上に立地
・竪穴住居跡が不明瞭になり、堀立柱建物跡が主体となる。
・ヤコウガイ交易


・前Ⅴ期の遺跡立地について、巨大津波の発生による高地への集落移動を考える仮説もある。また、人口の増加による環境の悪化や集団間の緊張から、高地性集落が形成された可能性もある。

 この論考で最も印象づけられるのは、琉球弧において、農耕の開始を明確に言えるのは11世紀になってからで、「貝塚時代には農耕はなかったことが明らかになりつつある」ということだ。

 もしこれが本当だとして符号するのは、琉球弧において、死体から有用植物が生えるハイヌウェレ型の神話(cf.「ハイヌウェレ神話とマヨ祭儀」)が稀薄なことだ。煙草の起こりを示す民話はあるが、死体の女性はバラバラにされず殺害もされない。また煙草が琉球弧に流入したのは、15~17世紀とずっと後になってのことだ。また、他の民話でもサムレー(武士)が登場するように、明らかに変形を加えられている。仮に、農耕の開始がグスク時代になってからだとしたら、ハイヌウェレ型の神話が、こうした弱められ変形されたものしかなくても不思議ではない。


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コメント


おはよう。
お久しぶりです。

  ちょっと高度すぎて (僕には)読み続けていません。

 徹先生に 与論島史」クリアをコピーして持っていきました。 事後承諾」お願いします。
留守宅に置いてきたら、 私が書いたのかと 勘違いされまして困ってしまいました。
 「与論史」がすごい。もっと書いて下さい 弟子入りさせてください」と手紙をもらいましたので お伝えさせてください。 無断ですみません。
そろそろ 逢いたいですね。
   

投稿: 泡盛 | 2015/03/04 06:20

盛窪さん

まだブログは、ぼくのメモ書きみたいになっているので、分かりにくくてごめんなさい。もう少し先に、考えたことを展開していく予定です。

竹下先生に見ていただけるのは嬉しいです。『ドゥ・ダンミン4』、愉しく読みましたとお伝えください。

母のことで去年は与論に帰れませんでした。遠くないうちに那覇の図書館に行きたいと思っています。その際、与論にも寄りたいと思っています。

投稿: 喜山 | 2015/03/04 06:53

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