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2015/03/16

『古代人と死』における魂と心

 西郷信綱は、魂と心は同一ではないとして、書いている。

先ずタマシヒ(またはタマ)とココロは同一のものではなかった。沖縄語では前者はマブイ、後者はキムという。万葉などにも「群肝の心」とある。なかでも心臓がこれをつかさどるものと考えていたらしい。(中略)タマシヒとココロが働きを異にするのは、恐らく多くの民族がそうであったに違いない。しかもそこにはさらに、あれこれと分化もとげられているといっていい。(『古代人と死―大地・葬り・魂・王権』

 その通り、霊魂思考の進展とともに、霊力も霊魂化して捉えられ、種族は複数の霊魂観を持つようになる。たとえば、北米先住民のボディ・マインドとスピリット・マインド、マオリ族のハウとワイルア、ニアス島人の「気息」とルモルモのように。ぼくがはっとしたのは、琉球弧において、霊魂をマブイと呼ぶのははっきりしているが、霊魂化した霊力を何と呼ぶか、はっきりしないからだ。そこで、心に当たるキム(肝)という指摘には虚を突かれるような思いだった。

 しかしでは、貝塚時代の琉球弧人が、人間の霊魂をマブイとキムとに分けて使ったかと考えると怪しくなる。キム(肝)のほうは、肝というくらい物質的に考えられているからだ。セジは霊力というより、霊威の意味で使われる。ただ、身体自体が持っている力としては、キムよりもセジのほうが妥当である気はする。

 複数の霊魂観は明瞭に残っている。しかしその呼び分けは早い段階に消失してしまったということだろうか。


 また西郷は、「黄泉の国」のことを、ヨミガエリなどと絡めながら、死者の身体が骨化するまでの期間のことを指したのではないかと考えている。これについては、今のところ判断を加えず、備忘にとどめておく。

 
『古代人と死―大地・葬り・魂・王権』

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