『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』
吉野裕子の『日本人の死生観』は、「蛇」に関するもやもやをある程度、解消させてくれる。「蛇=人間」の比喩があたう限り生きていると思える民俗に思い切って没入している。そこには、ぼくの感じ方では踏み外しはないように思えた。しかも、琉球弧の事例が記紀神話と並んで大きな拠り所となっているだのから、関心を惹かないわけがない。
まず驚いたのは、クバと蛇の類似の視点だ。
蒲葵が信仰された理由は、その幹が蛇や男根相似のためであるが、幹は簡単に動かせずもち運びができないから、祭事の際は、その葉を折りとって幹の代用とする。蒲葵の青い葉は、祭屋を葺く料(しろ)となり、神事の扇となり、祖先紳の依代となる。乾燥して白く晒したものは、繊維として蓑笠、腰裳、そのほか種々の祭具の代とされたのである(p.21)。
蛇=男根=蒲葵の幹。マユンガナシは蒲葵の蓑笠を着けてやってくるのは、「他界の祖霊=蛇」としてである、というわけだ。
吉野は、産屋と喪屋にも構造の同一性を見出す。
「生まれたばかりの子は、母親の浴衣などを解いた古い布でつつんでおく。大小便で汚れても、場所を替えるだけ、同じその布で満産までつつんでおく」(宮古島で中年の主婦から聞き取り。1973年)。その後、たいてい六日目に満産を行う。
1.母親、あるいは近親の女性が、新生児を抱いて、東庭に出て、太陽を拝ませる。
2.その際、赤児を抱く女性は頭から「カカン」(裳)をすっぽりとかぶり、蟹をはわせる。
3.名づけをする。
吉野は、カカンは「蛇の身」と解している。そして、蟹とは、「南島の蟹をはわす行事の原型は、蛇の脱皮であり、蟹は蛇の代用物」だ。この点は、ぼくたちも考えたことがあり、蟹だけでなく、アマムと通底するのも、「脱皮」だ。(cf.「脱皮論 メモ」)
沖縄で世のはじまりのことを蒲葵の葉世(クバヌハユー)という。衣服がなく男女ともクバの葉でつくった蓑を腰にまとっていた。近世まであった七襞袴(ナナヒジャカカン)は、襞の極めて多い麻の裳であるが、これはクバの腰巻の遺制という。今でも生児の名づけのとき、老女がこの袴を頭にのせて出る習がある。住居にもクバが用いられ、イザイホウの祭りにも、女性がこもる仮屋はこれで葺かれるという。(柳田國男『海南小記』)
ここから吉野は、「神木蒲葵を蛇と推測したくなるのである」としている。
この推測が新鮮なのは、「蒲葵の葉世(クバヌハユー)」に別の視点を持ち込んでくれることだ。この言葉は、「衣服がなく」ということに力点を置いて説明されるので、ぼくなどには魅力的に感じられなかった。同じ意味なら、「アマム世」というほうが、トーテム時代を表していて好ましく感じてきたのだ。しかし、「蒲葵の葉世(クバヌハユー)」が「蛇世」の意味なら、「アマム世」と同じくトーテム時代という意味になり、かつ、「アマム世」より前を指せることになる。「蒲葵の葉世(クバヌハユー)」が「アマム世」と同等の言葉としてあるなら、吉野の推測は同意できるものだ。
吉野の文脈に戻せば、したがって、「産屋にこもっている間の新生児は、古布のボロにくるまれ、それを脱皮の料(しろ)として、産屋から呪術の誕生、つまり人の世として誕生をした(p.65)」ということだ。
吉野によれば、同じ構造は、喪屋にも見出せる。死者にとって、生児のボロに該当するのは、「他ならぬ死者の腐敗してゆく肉体そのものだった」。
死者は葬られるにさきだって、腐蝕して脱落する血肉を、身体の本質である「骨」から削ぎ落とすことが必要と考えられたのである。
「骨」は変化しないもの、腐らないもの、脱落しないもの、遺るべきもの、要するに精髄であって、「骨神」として信仰されたのである。血肉が腐蝕して骨から完全に脱落するには、数ヶ月ないし一年から数年のときを要する。この時間が殯で、それは死者が浄化される期間としてとれられる(p.67)。
吉野は、伊波普猷の「南島古代の葬制」のなかの津堅島や粟国島の殯の模様を引き、伊波のいう「慰霊」ではなく、「死体の腐敗過程を見る」ことが本質で、「非常の宗教行事だったと思われる」、と書いている。「死体の腐敗はこうして、穢れでも恐怖の的でもなかった」。
また、徳之島では、「死の装い-着物は夏冬用のものを一枚ずつ計二枚、その上から羽織を重ねさせる。着物二枚のうち、内側の一枚は裏返しにして着せ、衿を左前に合わせる」(「徳之島葬制」『葬送墓制研究集成』)が、「内側の一枚は裏返しにして着せ」るのは、「肌に密着する着物を、古い皮に見立てている証拠と思われる」としている。つまり、脱皮を模しているのだ。
そこで、吉野にあっては、産屋と喪屋は「疑似蛇胎」として同一の構造を持つのだ。
ここでぼくたちの考えを差し挟めば、殯とは霊魂思考が駆動して以降の行為だ。そして殯にはその前段があり、近親者は死者のそばにやはりいた。そこで、死者を食べたり、その死汁を身に浴びたのである。そこでは、骨だけでなく、腐りゆく身体も聖なるものだった。だから、殯の場面については、吉野が「非常の行為」と見なすのとは違い、伊波普猷が言うように「有情の行為」も入っていたのだ。
吉野は屈葬についても言及している。
伸びきった蛇の姿体は、いわば死体であって、蛇の活力は屈した体位にこそみなぎり溢れる。屈むことなしに、前進はありえない。死者は蛇と化して、急ぎ他界に赴くべきものであって、屈体は当然である。蛇の古語はカカであり、「カガム」はこのカカからと思われる(p.88)。
要するに、屈葬=蛇、というわけだ。「死者の足が曲がらない時は、ホウキで足を撃つ真似をするとすぐ曲がる」(安田宗生「トカラ・悪石島の葬送儀礼」)、「喜界島で死者の膝を曲げ括り、次に手拭いで面部を蔽うが、これをハブサジという。サジは手拭いのこと」(『葬送民俗語彙』)。ここで、「ホウキは、(中略)蛇の象徴物であり、ハブサジは、毒蛇のハブを象る手拭いの意と解される(p.88)としている。なんでもかんでも蛇、蛇と思わせてしまう箇所だが、死霊への恐怖と解されがちな琉球弧の屈葬に対する理解があるなかでは、ぼくには新鮮だった。
しかし、それでは霊力思考が旺盛だった前段階で伸展葬を行ったことと脈絡が見いだせない。吉野の考えであれば、トーテムがより生きていた霊力思考の段階でも、屈葬が行われて不思議ではない。また、霊魂思考の駆動から農耕によって屈葬が顕著になる南太平洋の事例にも適用できるかが分からない。吉野は、蛇信仰の普遍性と屈葬の普遍性をつなげているわけだが、果たしてこの推論は妥当だろうか。
吉野の仮説を補強するかもしれないのは、ニューギニアの死者・祖霊像コルワルのことだ。「頭蓋骨付きコルワルは、初期においては、カヌーによる危険な遠征の時に積み込み、帯同されることが多かった。死者の霊が同行者たちを守護し、嵐を避け、戦闘や漁の成功に大いに貢献してくれたからであった(p.28、小林眞、『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』)」。ここで、コルワル像と、琉球弧で航海のときに姉妹から渡される「手拭い」は同じ意味を持つが、コルワル像は男根が強調されたり、蛇を持っていたりすることだ。このアナロジーでいけば、確かに「手拭い」も「蛇」の意味を帯び始める。
箒を「蛇の象徴物」と見なす吉野の考えにも触れておく。
(前略)蛇に見立てられた樹木のなかで、亜熱帯の蒲葵はあらゆる点から見て、もっとも蛇に相似の木とされ、とくに蛇木(ははき)として信仰されたことは先にも述べた。蒲葵の葉も幹の代用として、その神聖性を継承し、蒲葵扇は祭りに欠かせない祭具であった。
蒲葵葉は有用な利用度の高い実用品でもある。清掃にも使われた結果、清掃用具が、「ハハキ」すなわち「ホウキ」とよばれ、後に竹製の清掃具にその名がひきつがれて、ハハキに「箒」の字があれてられたとき、ホウキは完全に清掃用具の名称になってしまたとも思われる(p.103)。
※吉野はここで、伊平屋島の石下墓の左に蒲葵の箒が置かれている写真(『エノトス』1号)を、箒の原義を示唆するものとして挙げている(「古墓の蒲葵箒」)。
ぼくも吉野の大胆な仮説の勢いを買っていえば、琉球弧では、「蛇」は地名としても生きたと思っている。エラブ・イラブ(沖永良部島、伊良部島)がそれだ。
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