『生と死の考古学』
『生と死の考古学』(山田康弘)から確認できることをメモしておく。
縄文時代における人骨出土例の埋葬形態の多くは、単独・単葬。埋葬姿勢は地域差あり。
・北海道北部 強屈
・東北 膝屈
・関東 伸展化
・東海 二分化
・中四国 膝屈
・九州 二分化
山田は別のところで(「縄文時代の葬制」)、各関節の屈曲度合からみた場合、全国的には時期が新しくなるほど伸展化していく傾向がみられるとしている。これは他界か地上化する度合いに対応しているのかもしれない。
「多数合葬・複葬」は、縄文後期初頭の堀之内式期の前後、死亡時期の異なる人骨を掘り出すなどして持ちより、一時に一つの土壙に埋葬したものだとしている。
異なる系譜的関係にある家族集団が、複数集合し、至近距離において共同生活を始めたときに生じる社会的な緊張を解消するための手段として執り行われた葬送儀礼である。
ぼくは、こうした複葬のあることを初めて知った。集落を変えるという理由でも掘り起こしたということは、他界は遠くにはなっておらず、また、骨は他界の根拠になっていた。言い換えれば、このときには再生信仰は稀薄になっていたかもしれない。
山田は石棒について面白いことを書いている。
石棒のなかには、鬼頭部に意図的な摩擦や敲打を加えた痕跡が残っていたりするものがある。これなどは、儀礼のなかで擬似的な性行為を演出した証拠ととらえることも可能であろう。また、勃起したままでは擬似的な射精が行われたことにはならない。射精後には勃起状態は解除されなければならない。縄文時代の石棒の多くは意図的に破壊された痕跡をもつが、これは擬似的な射精、性行為を完了させる上で必要不可欠な行為だったのではないだろうか。
これは鈴木素行の論考と合わせると、リアリティがさらに増すように思える(cf.「屋内祭祀と石棒」)。
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