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2015/03/13

生と死の分離としての死穢の発生

 イザナギがイザナミを追って、黄泉の国に出入りした「じぶんはたいへん醜悪なけがれた国に行っていたものだ。だから身体の禊をしよう」と称したことについて、吉本隆明は書いている。

もしも、最初の〈父神〉がおこなう清祓が、人間のあらゆる対他的な関係にたいするプリミティブな清祓であるとすれば、この挿話が表現しているものは、未開人が〈法〉と〈宗教〉の根源は〈醜悪な戯れ〉そのものであるとかんがえたということである。いいかえれば、あらゆる対他的な関係がはじまるやいなや、人間は〈醜悪な戯れ〉を〈法〉または〈宗教〉として疎外する。(中略)。

 人間のあらゆる共同性が、家族の〈性〉的な共同性から社会の共同性まですべて〈醜悪な戯れ〉だと考えられたとしたら、未開の種族にとって、それは〈自然〉から離れたという畏怖に発祥している。人間は〈自然〉の部分であるのに対他的な関係にはいりこんでしか生存が保てない。これを識ったとき、かれらはまず〈醜悪な戯れ〉をプリミティブな〈共同幻想〉として天上にあずけた。かれらはそれを生活の具体的な場面からきりはなし、さいしょの〈法〉的な共同規範としてかれらの幻想を束縛させた。そうすることでいわば逆に〈自由〉な現実の行為の保証をえようとしたのである。(「規範論」『共同幻想論』

 ぼくたちは、死が穢れになるのは、霊魂思考が霊力思考に対して優位になる地点からではないかと考えてきた。死体ですら聖なるものとして扱った霊力思考からは、身体に対する感じ方が反転しているからだ。少なくとも、霊力思考に対して霊魂思考が関与した結果、この反転は起こっている。吉本の言い方でいえば、「あらゆる対他的な関係がはじまるやいなや」ということだ。対他的な関係とは、まさに霊魂思考が行なうことに他ならない。

 イザナギは黄泉の国から逃げだすと、黄泉の国を石でふさぐ。ここに他界が空間性を獲得した契機を見ることができる。死は生の移行だった段階から、生と死が分離し、他界が時間性としてだけでなく、空間性を獲得したことを意味している。そしてそれが、死を穢れと見なすときと同期しているのを見ることができる。

 この生と死の分離を、ぼくたちは原始農耕の開始時点だと捉えている。この時点には、再生信仰の崩壊過程、女性の殺害による植物再生という人間と自然との関係の人工化、霊魂と身体の二重化による自己幻想の分離という契機も内包しているはずだと思える。


『共同幻想論』(吉本隆明)

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