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2015/03/07

『弥生再葬墓と社会』

 設楽博己の『弥生再葬墓と社会』は、とても面白いのだが、時代区分を把握するのにとても苦労するので、下に表を上げておく。

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 第7章以降を見ていく。

 第1節 祖先祭祀および通過儀礼としての再葬

 1.祖先祭祀としての多人数集骨葬

 堀之内Ⅰ式期までの初期の多人数集骨葬の人骨には性や年齢に偏りがない。廃屋墓を起源に成立した可能性。縄文晩期では性別に著しい偏りをみる場合がある。

 多人数集骨墓。「一つの集落で墓所を異にしていた出自の異なる二つの集団の子孫が、生活に弊害をもたらす排他的な関係を撤廃するための記念碑としてつくりあげられた」。それは集落の中心に位置するので、環状集落を形づくったのはいわば集団の始祖(渡辺新)。

 加曾利EⅢ式期に大型集落は終焉を迎え、加曾利EⅣ式期~称名寺式期に小規模集落が形成(関東地方)。多人数集骨墓は、「小規模集落が集まって大型の集落を開設したときに祖先の骨を持ち寄ってつくったモニュメント」。「祖先崇拝」のあらわれ(山田康弘)。

 先葬者とその後の埋葬を行った人々のつながりが。「集団の始祖、祖霊といった形で捉えられていた可能性」がある(林謙作)。

 多人数集骨墓が、「祖先祭祀のための記念碑的施設であるという基本的な理解は揺るがないだろう(設楽博己)。

 田端遺跡の環状積石遺構(加曾利B1式期~安行3c式期)。死霊や祖霊に対する「宗教的意識」がある(戸田哲也)。

 出自別墓制から出自・世帯別墓制への移行。このような集団内部の分節化傾向としての世帯の相対的な自立化を抑制する機能として、血縁的系譜関係の確認が強化され、祖先祭祀が発展した。

 中期後半以降の環状集落の住居は、内側に向かって居住スペースを狭めるように形成されていくが、これは廃屋墓を祖先として意識した結果、重複を慎んで外側に拡張しなかった結果ではないか(高橋龍三郎)。

 再葬は縄文後期中葉以降に衰退するが、再び顕著になるのは縄文後期後半~晩期前半。

 再葬の目的。死者を含む集落構成員の社会関係の再構築。その表現方法のひとつが合葬。死亡時に時間差のある遺体や遺骨を合葬するため必然的に再葬の形態を取った。

 再葬1.多人数集骨葬や焼人骨葬のように祖先祭祀の中核施設としての再葬。
 再葬2.少人数集骨葬や土器再葬のように生前の血縁的なつながりを再確認するための再葬。

 関東地方の場合。合葬された人々の関係性は「縄文後期初頭~前半が婚入者を含む世帯構成員であり、後期前半~中葉になるとそれが血縁関係にもとづく出自集団へと変化していったことがうかがえる」。


 2.祖先祭祀の発達と再葬-集団統合の文化装置

 縄文中期終末には大規模集落は解体し、小規模集落に変貌する。一方で、大規模な環状列石が出現してくる。これが墓地であることは共通の認識になっている。これはひとつの集落の墓地というより、共同墓地の可能性がある。

縄文中期後半に集中して居住していた集団が、気候の寒冷化をきっかけとして縄文後期になると分散居住するようになり、それが晩期にも引き継がれた。

 分節化した世帯群の同族的結合はその後も維持されていた。共同の居住域は消えたものの、環状列石のような祭祀施設は維持された。分散化集落の結集の原点は墓地だった。

 縄文中期末から後期初頭にかけて石棒が著しく増加する。これは多人数集骨葬の出現と一致している。一方、土偶は縄文中期中葉にピークを迎える。縄文後~晩期には生業に占める狩猟の比率が増大する。

 設楽は、石棒と父系社会を結びつけた上で、「縄文時代の再葬の発達は、父系を基盤にした祖先祭祀の高揚を背景としたと考えたい」としている。

 縄文晩期から弥生時代前半にかけて、日本列島中央部で再葬は再び発達する。

縄文中期末~後期前半に発達した多人数集落は祖先祭祀のシンボルとしての機能が高いので、そうした機能は縄文晩期以降、弥生再葬の焼人骨葬や多人数集骨葬に引き継がれたと考えられる。また、縄文時代の再葬を特徴づける集団統合としての多人数集骨葬と、血縁紐帯の確認としての合葬という二重の意味もまた、弥生再葬墓においては焼人骨葬などの多人数集骨葬と、構成員の合葬である土器再葬の二重性に引き継がれた。

 「弥生再葬墓の性格は、血縁紐帯にもとづく同族意識を確認するための祖先祭祀の場である、との理解がもっとも適切」である。弥生再葬制を構成する要素の系譜の多くが、縄文晩期の文化に求められる。


 設楽は、この後、民族誌、民俗学的事例を参照していく。参照先は、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』と琉球弧の複葬だ。ぼくたちにとってはこれはお馴染みなので、ここで一端、引用を止める。また、記述が複雑なので、今のぼくの手に負えない。そこで、太い仮説線を引いておいて、迂回することにする。

 仮説化のためにここで注目するのは、再葬が、縄文後期に衰退し、縄文後期後半~晩期前半に再び顕著になる。そして晩期のそれは弥生時代前半に連なっていることだ。

 ぼくはこの二つの再葬は思考が違っていたと仮定しておきたい。前者の再葬は、まだ霊力思考が残っており、後者の再葬は霊魂思考によるものだとみなす。

 定着、あるいは原始農耕(食物栽培)霊魂思考を発生させた。しかし、環状集落においては、霊魂思考は初期のものであり、霊力思考も旺盛に残っている。人間は再生するという観念もあった。再葬は、そのための儀礼だった。再生信仰の衰退とともに、再葬も行われなくなる。この間、霊魂思考が発達する。再び再葬が行われるようになったとき、それは死者が祖霊となり、生者を守護するという思考に変貌していた。それが、弥生再葬まで続く理由に当たる。

『弥生再葬墓と社会』

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