「琉球列島における先史時代の崖葬墓」
片桐千亜紀の「琉球列島における先史時代の崖葬墓」は風葬墓について、整理している。「崖葬墓」とは、。「岩陰や洞穴を利用する(中略)墓」のこと。
現在まで、発掘された崖葬墓は、貝塚時代前4期から貝塚時代後期後半まで確認される。これは、少なくとも定着以降の段階では、風葬が存在したことを示している(cf.「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」)。言い換えれば、遊動期の野ざらしの遺骨は発掘されないということだ。
2013年には、白保竿根田原洞穴遺跡から崖葬墓が発見されている。
先史時代に崖葬墓を営む王位は、北はトカラ構造海峡を(生物の分布境界線である渡瀬線)を超えていないが、南は完新世後半には文化的接触が稀薄だったと考えられる沖縄諸島と先島諸島の協会である慶良間構造海裂を超えていることが明らかとなった(後略)。
タイプⅠ.風葬(一次葬)→再葬・集骨
ⅰ.再葬・集骨
・地上の露出した環境で風葬し、骨化・安置するもの。いずれも、岩陰や洞穴にスペースがあったとしても、壁際を特に意識して集骨した状況がうかがえる。
・雑然と集骨されているようにみえる中でも、頭骨を意識的に集中させたものや、四肢骨等の長骨を壁に添ってまとめたものなどがあり、再葬への様々な意図的な行為があったことを読み取ることができる。
解剖学的な位置関係を部分的に留めている事実は、一次葬がこの場所で行われた可能性が高いことを示唆する。(中略)崖葬墓では一次葬から再葬・集骨まで同一墓(岩陰・洞穴)で行っていたと推定できる。
ⅱ.丁寧な再葬
・なかには特に丁寧に再葬された遺骨も確認されている。
ⅲ.頭骨(部分骨)再葬
・再葬には頭骨を重要視して再葬するものがある。具志川島遺跡群岩立意識では、頭骨が立石で囲われた空間に安置されていた事例が確認されている。大当原貝塚では、頭骨が大当原土器を被った状態で検出された。
タイプⅡ.風葬or埋葬(一次葬)→人骨焼き(焼人骨葬)→再葬・集骨
・一次葬段階で風葬または埋葬によって骨化させた骨そのものを焼いて再葬する。タイプⅠと同時に存在していた。
タイプⅢ.火葬→再葬・集骨
・死後、軟部組織が残った状態で火葬されたと考えられる事例。タイプⅠ・Ⅱの葬法と同時に存在した。
タイプⅣ.埋葬→再葬
・崖葬墓からは稀に、土壙墓や石棺墓が確認される。オープンサイト(開地遺跡:丘陵・台地上につくられた遺跡)の遺跡で一般的に確認される。「風葬と埋葬の思想がミックスされて崖葬墓を営むケースがあるという事例である)。
発掘によって出土した人骨の個体数を考慮するならば、オープンサイトをはるかに凌駕する被葬者が崖葬墓に葬られていることが推定される。
ぼくたちが注目するのは次のいくつかのことだ。
「ⅰ.再葬・集骨」において、「頭骨を意識的に集中させたものや、四肢骨等の長骨を壁に添ってまとめたものなどがあり、再葬への様々な意図的な行為があったことを読み取ることができる」とされていることについて。このうち前者は、「埋められない埋葬」をひとつの動機にしていると思える。「ⅲ.頭骨(部分骨)再葬」もそうだ。
また、ぼくは洗骨した骨を洞穴に安置するとして、風葬自体でどこで行なわれていたのか鮮明に思い描けなかったが、「崖葬墓では一次葬から再葬・集骨まで同一墓(岩陰・洞穴)で行っていたと推定できる」とあり、やはり洞穴で行なっていたと見なしてよさそうだ。
少なくとも定着期以降、風葬が広く行なわれたことは確認できるが、同時に霊力思考の産物である「埋葬→再葬」も存在していたことが確認できる。片桐の整理は、ぼくたちの見立てを裏づけてくれるものだ。
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