« 「日本の先史仮面」(春成秀爾) | トップページ | 食人と再生の変形の体系 »

2015/03/31

『日曜日、すずは口笛を吹いた』(古勝敦監督)

 すずが口笛を吹くのは、ガジュマルに棲む精霊、ケンムンと心を通い合わせるためだ。けれど中学二年になるすずは、はじめは「迷信」とみなしていたのだから、ここには手ほどきが必要だった。野生の琉球弧を感受するための手ほどきが。

 手ほどきをする一人は、すずの祖母で、彼女は家を訪ねたすずに、文字のなかった時代には、唄で心を通い合わせたし、恋もしたのだと語って聞かせる。祖母がちゃんと島言葉で語って聞かせるのがいい。

 もうひとつの手ほどきは、すず自身が異界に紛れ込み、実体験として得るものだ。すずは、そこでハブ(蛇)の化身であるワタリ先生と交流する。異界といっても、現実世界から離れるのではなく、ありふれた日常のなかに異界がしみだしてくる。教育実習にやってきたワタリ先生は、中学校に生物部がないのに気づき、にわか仕込みの生物部を拵えて、生徒たちを夜の動物探しに誘い出す。そこでルリカケスやオオトラツグミ、アマミノクロウサギなどに出会い、すずは生き物たちにはまってゆく。

 祖母に恋しているねと指摘されても自覚のなかったすずだったが、やがて夢のなかのガジュマルの木陰で、アマミノクロウサギの化身となったすずは、蛇の化身であるワタリ先生とのふたりの物語を察知することになる。

 教育実習を終えるころ、ワタリ先生は、この出会いに感謝して、すずの手を取り、片方の掌を合わせるのだが、そのとき、合わせたすずの左手には、文様が浮かび上がる。渦巻きと十字を象ったシンボリックなデザインなのだが、それは、二十世紀までは老女の手の甲に見ることのできた針突(入墨)の残影だ。すずは、そこで動植物と心を通い合わせる霊力を授かった、というより、思い出したと言うべきなのだろう。

 奄美大島には、まだ自然との交流が可能な気配が濃厚に残っている。古勝監督は、それを、あまねく美しい大きな島、と暗示していた。ナレーションを借りて、古勝監督は、「かつてわたしたちは文字が必要でなかった民族」と語っていた。「文字がなかった」ではなく、「文字が必要でなかった」という形容が、的確だ。文字を受け入れ、文明化することで、唄が人間と動植物とをつないだ通路は見えなくなってしまった。けれどそれは塞がれてしまったのではない。その気になれば、そこにいつでも通路を開くことはできる。『日曜日、すずは口笛を吹いた』は、そんなメッセージを伝えている。

 大島紬の機織りが懐かしかった。すずはただしい少女で、すずの両親役の元ちとせと山口智充も、演技とは思えない自然体でよかった。三十分で終わるのが物足りなくて、このテーマを掘り下げた古勝監督の本格的な作品を観たいと切に思う。

 cf.「映画『トテチータ・チキチータ』-頬を撫でる霧雨」

 


|

« 「日本の先史仮面」(春成秀爾) | トップページ | 食人と再生の変形の体系 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『日曜日、すずは口笛を吹いた』(古勝敦監督):

« 「日本の先史仮面」(春成秀爾) | トップページ | 食人と再生の変形の体系 »