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2015/03/31

『日曜日、すずは口笛を吹いた』(古勝敦監督)

 すずが口笛を吹くのは、ガジュマルに棲む精霊、ケンムンと心を通い合わせるためだ。けれど中学二年になるすずは、はじめは「迷信」とみなしていたのだから、ここには手ほどきが必要だった。野生の琉球弧を感受するための手ほどきが。

 手ほどきをする一人は、すずの祖母で、彼女は家を訪ねたすずに、文字のなかった時代には、唄で心を通い合わせたし、恋もしたのだと語って聞かせる。祖母がちゃんと島言葉で語って聞かせるのがいい。

 もうひとつの手ほどきは、すず自身が異界に紛れ込み、実体験として得るものだ。すずは、そこでハブ(蛇)の化身であるワタリ先生と交流する。異界といっても、現実世界から離れるのではなく、ありふれた日常のなかに異界がしみだしてくる。教育実習にやってきたワタリ先生は、中学校に生物部がないのに気づき、にわか仕込みの生物部を拵えて、生徒たちを夜の動物探しに誘い出す。そこでルリカケスやオオトラツグミ、アマミノクロウサギなどに出会い、すずは生き物たちにはまってゆく。

 祖母に恋しているねと指摘されても自覚のなかったすずだったが、やがて夢のなかのガジュマルの木陰で、アマミノクロウサギの化身となったすずは、蛇の化身であるワタリ先生とのふたりの物語を察知することになる。

 教育実習を終えるころ、ワタリ先生は、この出会いに感謝して、すずの手を取り、片方の掌を合わせるのだが、そのとき、合わせたすずの左手には、文様が浮かび上がる。渦巻きと十字を象ったシンボリックなデザインなのだが、それは、二十世紀までは老女の手の甲に見ることのできた針突(入墨)の残影だ。すずは、そこで動植物と心を通い合わせる霊力を授かった、というより、思い出したと言うべきなのだろう。

 奄美大島には、まだ自然との交流が可能な気配が濃厚に残っている。古勝監督は、それを、あまねく美しい大きな島、と暗示していた。ナレーションを借りて、古勝監督は、「かつてわたしたちは文字が必要でなかった民族」と語っていた。「文字がなかった」ではなく、「文字が必要でなかった」という形容が、的確だ。文字を受け入れ、文明化することで、唄が人間と動植物とをつないだ通路は見えなくなってしまった。けれどそれは塞がれてしまったのではない。その気になれば、そこにいつでも通路を開くことはできる。『日曜日、すずは口笛を吹いた』は、そんなメッセージを伝えている。

 大島紬の機織りが懐かしかった。すずはただしい少女で、すずの両親役の元ちとせと山口智充も、演技とは思えない自然体でよかった。三十分で終わるのが物足りなくて、このテーマを掘り下げた古勝監督の本格的な作品を観たいと切に思う。

 cf.「映画『トテチータ・チキチータ』-頬を撫でる霧雨」

 


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2015/03/30

「日本の先史仮面」(春成秀爾)

 春成秀爾は、顔につける仮面(マスク)以外に、マスケットとマスコイドを区別している。

 マスケット:シャマンや戦士が胸につける小型の仮面。
 マスコイド:木偶・神像・楯や縁起ものの壁掛・福箕など人ではなく器物に取り付ける仮面。神社や霊堂に安置したり、建物の破風や柱を飾る大型の仮面。

 縄文の古い時期にはマスクとしての仮面はまだ知られていない。最古例は、約5000年前、土器の胴に立体表現したマスコイド。独立した仮面は、約4500年前(後期始め)、大きなイタホガキの殻で作ったもの(28、高さ20cm、幅14cm、熊本)。マスケットに分類されるだろう、としている。

 約3800年前(後期後半)、東北南部から四国までの範囲で土製の仮面が現れる。約3500年前(後期中頃)以降になると、分布の中心は仙台湾岸に移り、やがて晩期には、ほとんど東北地方のみに分布するように変わる。約2600年前をもって本州では仮面がなくなる。北海道ママチの例(1)は、北海道で唯一の仮面で、約2400年前(晩期後半)。

 これまでに見つかった縄文時代の仮面は、120個たらずであまりに少なく、分布も東日本に偏る。

 北海道ママチの土製仮面は、墓地に立てた祖先像だったのではないだろうか。「縄文時代には、頭まで木で作った祖先像が立っていたことを想像したい」。「鼻曲がり仮面」は、縄文晩期中頃の青森・岩手の両県のみに分布している。鼻と口が曲がっているのは、シャマンが神がかりして顔面神経が痙攣いしたその瞬間の表情をあらわしているとする説がある。

 仮面をつけた土偶は少なくない。これは、女が仮面をつけていた事実、祭り、儀礼の場に女系の祖先が臨席したことを物語っているだろう(春成)。

 弥生時代、1、2世紀、壺形土器の胴部には、線刻画があらわれる。これらの線刻画では入墨の表現が顕著。

 設楽博己は、「イレズミの起源」(『人と社会―人骨情報と社会組織』)で、線刻表現の系統が縄文土偶にまでたどれることから、縄文時代に顔へのイレズミの習俗があったことを推定している。設楽がたどれるとしている鯨面土偶は、縄文晩期後半のものだ。

 はっきりしないことは多いが、少なくとも縄文時代のどこかでは、霊魂が身体の衣裳であるという段階まで、霊魂思考は進展していたことが分かる。

『縄文社会論究』

『人と社会―人骨情報と社会組織 (縄文時代の考古学)』

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2015/03/29

「樺太アイヌの埋葬形態についての一考察」

 内山達也の「樺太アイヌの埋葬形態についての一考察」は、ほぼ琉球弧の葬法とも類似したものを抱えていて面白い。

 樺太アイヌと北海道アイヌの葬制の違い。

 ①埋葬において木棺を用いる
 ②西方の埋葬頭位を示す
 ③墓所における祖先崇拝の習俗がみられる
 ④出棺の際の禁忌として住居の壁を破る習俗がみられない
 ⑤変死者の埋葬において埋葬頭位の逆転現象がみられない

 樺太アイヌの葬制における特徴の一つは、木棺を用いた埋葬だが、この木棺は家を模したような形態になっている。この家型の木棺を、仮の「家」と見立てることができないだろうか。あるいは、住居の変わりに「家を模した木棺」に死者を納めて埋葬したと仮定することはできないだろうか、と内山は書いている。

 これは、「死者のための家型の厨子瓶や墓所は、死後の世界が生前同様の生活を営んでいることを意味するばかりでなく、本当は住居そのものが死者の家であったものが、死者が屋外に移されることによって、家もまた模型として死者とともに移動したものと解釈できないだろうか」(cf.「18.「屋内葬と屋敷神」」)とする酒井卯作の視線と重なる。「木棺」と「厨子瓶」がつながる。

 「死霊に対する恐怖」がテーマになるのも、アイヌの例は琉球弧と共通だ。

 J.バチェラーは、かつて北海道アイヌにおいては家族の最年長の女性が死ぬと、その人が住んでいた家を焼く習俗が存在したと報告している。その理由の一つは、老女の肉体から離れた霊魂には悪意が存在し、その霊魂が死後に戻ってきて、残された家族に災いをもたらすために家を焼くのであるという。家を焼くことで、憎悪をもった霊魂はその対象を見つけることができなくなるためである。もう一つの理由は、「肉体を離れた霊が天で小屋を使用するために、小屋を天に送り出すという目的で、小屋を燃す」(Batchelor 1995:127-9)のであり、後者のほうがより真実であろうとも述べている。バチェラーがより真実であろうと述べる「小屋を死者に持たせる」という観念は、アイヌの葬制における副葬品の処置に、如実にあらわれている。アイヌは、箸や椀などの生活用具や生前の愛用品などを死者の副葬品とするが、それらの一部を破壊、あるいは傷つけて副葬とする。それは、副葬品の霊魂を物体そのものから分離させることで、死者とともに他界へ送り出すことができると考えられているからである。

 J.バチェラーは、家を焼くのは「死霊に対する恐怖」からではなく、「死者の副葬品」として、と捉えた。これに対して、久保寺逸彦は「祖霊に対する恐怖」に根拠を求めている。

 久保寺は、「死霊が墓地から、元の家に立帰って、種々の危害や災禍を、生ける人々に与えることを防止するためには、その帰り宿るべき家を焼却することが唯一の手段」(久保寺 2001:233)であり、「祖霊に親愛感を持ち、之を崇拝祭祀する段階は、かなり後の発達で、本来は、祖霊は恐るべきもの、墓地に屍を捨て去ったのを最後として、永遠に絶縁すべきもの」(久保寺 2001:233)であったと論じている。そして、バチェラーのいう「死者に家を持たせてやるという考え方は、祖霊の崇拝乃至祭祀が起こってからの合理化」(久保寺 2001:233)の結果だとも述べている。つまりそれは、副葬品などにみられる霊魂と物体との分離と、それにともなう他界での役割という観念に発展する前段階として、霊魂の分離、あるいは死者の霊魂の浮遊によってもたらされる災禍に対する恐怖が存在したのであり、「家の焼却」という習俗の根底にあるのは、「死」に対する人間の根源的な恐怖心であったとも考えられる。

 久保寺の視点は、『琉球列島における死霊祭祀の構造』における酒井卯作のそれにほぼ重なる。北の端と南の端で同じテーマを追っているわけだ。

 しかもこれだけではなく、「屋内葬」という形態でも共通性を持っている。内山は書いている。

擦文文化にみられる屋内葬は、その生活圏の拠点であった住居を放棄することで「死」が内包する穢れ、あるいは災厄から逃れることを意味しており、それは、死霊に対する恐怖を明確にあらわしているといえる。そして、この擦文文化の屋内葬は、「死」に対する概念とともにアイヌ文化へと受け継がれ、アイヌ文化における他界観の発展とともに、「家」を副葬するという意味においての「死者の家を焼却する」習俗へと展開していったと考えることはできないだろうか。つまり、「死霊への恐怖心」を根源とする「家を忌避する」あるいは「家を放棄する」という観念から、「家を持たせる」あるいは「家を送り出す」という副葬の観念へ転換したと捉えることができるのである。

 「家を放棄する」という観念から、「家を持たせる」観念への転換はその通りだと思う。しかし、すべての根源を「死霊への恐怖」に求めるのは無理がある。まず、死霊に恐怖するためには死霊という概念がなければならないが、「家を放棄する」葬法は、死霊概念以前に遡ることができると思える(cf.「南太平洋の死体放置」)。では、なぜ「家を放棄する」のかといえば、ぼくはそれを共同幻想の再編のためだと考えてきた。弱い霊力思考の段階では、共同幻想は、対幻想や自己幻想と溶け合うように絡み合っている。家と死者が同一視されるのもそのためだ。この段階では、他界概念も持っていないから、死による対幻想の欠損を修復する儀礼も持っていない。死は不可解な現象であり、そこに得体の知れない恐怖を感じたことはあり得る。しかし、本質的に言うなら、彼らは、死者と同一視される家を放棄することによってしか、対幻想と溶け合った共同幻想を再編することができなかったのである。生者が死者になったことに、家を去ることでしか応じることができなかったのだ。霊力思考が優位なオーストラリアの先住民で行われた、女性に課せられる「沈黙の掟」も同様だと思う。

 霊魂思考が強まると、死霊や他界観念も発生するが、ここでは家と死者の同一視は死霊や他界との関係で語られるようになる。ミンダナオ島バゴボ族の「人はすでに往き、家も往ったに違いない」、メラネシアのタミ族における「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられるのである」は、それを示すものだ(cf.「なぜ、家を捨てたのか」)。

 さらに霊魂思考が強まり、かつ遊動性を残したところでは、「家を焼く」のは、副葬としての意味を持つ。「肉体を離れた霊が天で小屋を使用するために、小屋を天に送り出すという目的で、小屋を燃す」と言うように、この段階では霊魂と他界の概念も発生している。滅却される副葬品からも、身体と霊魂の二重性の観念を認めることができる。当然、死霊という観念も生まれている。ここにおいては、「死霊に対する恐怖」と「死者の副葬品」とはどちらが根源的かというより、共存しうるのだ。

 また、「家を放棄する」にしても、「家を焼く」にしても、定住を決め込んだぼくたちが考えるほど大きな意味を持たせてはならない。アイヌの例も定住期に入っていたとしても遊動性を残していると思える。ラドクリフ・ブラウンは、アンダマン島人がキャンプを移動させる理由について、「死者が出た時」を挙げるが、それ以外にも「狩や漁に便利な場所への移動」、「季節風を避けての移動」、「ゴミの蓄積による環境悪化」、そして「理由の明らかでない移動」を挙げている。死者による家の放棄は特別な契機ではないのだ。ちなみに、アンダマン島人は、死者の家を去った後、戻ってくることもあると報告されている(cf.「遷居葬の段階例」)。

 ところで内山は、樺太アイヌには、祖先崇拝があることに対して、「アイヌの死霊に対する恐怖心を考えると、この樺太アイヌの墓参という行為は、アイヌの「死」に対する観念とは相容れない矛盾を呈しているとも思えるのである」と書いている。ここまで琉球弧と共通しているのかと驚くが、祖先崇拝が成立するには、人間と自然の関係が分離されて、人間の時系列の累積のなかで他界の内実が思考されていることを意味している。だから、これは後代に付加されたものだと考えることができる。

 本当は、アイヌにおける埋葬姿勢を知りたくて読み始めたのだった。

 宇田川洋は、樺太アイヌの埋葬頭位について、「頭位はおおむね北西を中心として北から西の間にあるといえる。また、木棺をもつ場合ともたない場合があるが、後者の方が古い形式といえそうである。伸展葬墓が多いが、屈葬もみられ、後者は古い形式に属するものと考えられる」と指摘している。「伸展葬」が多いことは、「死体放置」あるいは樹上葬・台上葬からの転化が考えられる。「屈葬」が古い形式に見えるのは、屈葬としての霊魂思考との混融の結果、「死体放置」あるいは樹上葬・台上葬から伸展位埋葬へと転換するからである。

 内山によれば、一般的に北海道アイヌは、仰臥伸展葬であると言われている、という言及がある。これを確認しておきたかった。


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2015/03/28

「弱められた霊力」と「弱い霊魂」

 考古学が教える実態を参照しながら、もう少し具体化してみたい(cf.「南西諸島における先史時代の墓制」(新里貴之)」。

3

 遊動生活においては、「死体放置」と「台上葬」があった。定住移行、葬法としてこの2類型は継続された(#3,#4)。

 霊力が弱めらると、伸展位埋葬が現れる。この場合、再葬は行われなくなる(#5)。

 「弱い霊魂」は、「屈葬」と「埋められない埋葬」として現れる(#6、7)。

 「強い霊魂」でも、「屈葬」と「埋められない埋葬」は同じ(#8、9)。

 考古学が発掘しているのは、岩陰葬として、#3、4、7、9。埋葬としては、伸展位埋葬(#5)と屈葬(#6、8)。

 核になるのは、

 1.「弱い霊力」としての「死体放置」。
 2.「強い霊力」としての台上葬。
 3.「弱められた霊力」としての伸展位埋葬。
 4.「弱い霊魂」としての屈葬。
 5.「強い霊魂」としての屈葬と頭蓋崇拝。

 この5つを踏まえればよいのだと考えられる。考古学上の発掘が多いのは、「弱められた霊力」と「弱い霊魂」の葬法の跡だ。


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2015/03/27

「強い霊力」と「弱い霊力」

 琉球弧葬法の類型について、霊力、霊魂それぞれの思考の強さ、弱さで整理してみる(cf.「[改] 琉球弧葬法の6類型」)。

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 「死体放置」の場合は、ただちに遷居が行われるが、他界も死穢の観念も持っていない。国頭の阿波の例(cf.「南太平洋の死体放置」)をみると、「死体放置」は、定住後もなされたと考えられる。「琉球弧葬法の6類型」でいえば、1、3がこれに該当する。

 「強い霊力」の場合は、風葬、洗骨の手続きを経る。食人や再生信仰を伴う。これも、定住後も存続したと考えられる(類型2、4)。

 「強い霊魂」の場合は、埋葬あるいは埋められない埋葬の後に、頭蓋崇拝を行った(類型6)。

 「強い霊力」と「強い霊魂」が混融した場合は、伸展位の埋葬が上記に加わる(類型5)。頭蓋崇拝が行われなくなると、6は5に移行する。

 これでまた少し、琉球弧葬法の理解を深められただろうか。

 ただ、これではまだ曖昧なところを残すので、「強い霊力と強い霊魂」の混融を細分化してみる。

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 これで分かるのは、仮に「死体放置」(#1)を行っていた種族が、定住後もこの葬法を継続した場合、台上葬後に再葬を行わなくなった場合(#3)と見かけ上、区別がつかなくなることだ。これを識別するには、種族の伝承に再生や食人、トーテム観念の有無を確かめることだと思える。国頭の阿波の例は、記述だけ見ると、「死体放置」のように見えるが、断定しにくい。

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2015/03/26

『老人と子供の考古学』

 山田康弘は、『老人と子供の考古学』のなかで、縄文的死生観は「回帰・再生・循環」であったと書いている。

 そして一方で、後半期には、系譜的死生観(自身の歴史的立ち位置を時間軸に対して直線的に理解するという死生観)が成立していた。

 縄文時代後期初頭の関東地方では、多数合葬・複葬が行われた例がある。これは、

集落が新規に開設される際に、伝統的な血縁関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に再埋葬することによって、生前の関係性を撤廃し新規に関係性を再構築するものであり、集団構造を直接的な血縁関係に基づくものから地縁的な関係性に基づくものへと再構成させるものであった。

 これが祖霊崇拝となり、そのなかで、系譜的死生観も生まれた。

 この流れを自分なりの言い方に置き直してみる。縄文時代には、既に、霊魂思考が駆動し、生と死はひとつなぎの段階から、つながりの段階への移行が始まっている。したがって、山田のいうように、「回帰・再生・循環」では無くなりつつあるのだ。永遠の現在のなかでの再生ではなくなり、「回帰・再生・循環」は原理ではなく、祈願になりつつあった。それは同時に、人間の自然からの疎隔化に対応しており、死が生とひとつなぎではなくなったところから、人間と自然を切り離して考え、人間のなかの時間的な累積に価値が置かれるようになったとき、祖霊崇拝への道筋が見えてくる。だから、山田の挙げている二つの死生観は、「大きく異なる」とはいえ、霊魂思考の駆動という同じ流れのなかで位置づけられるものだ。

 山田は、昨今の「自然葬」のニーズの高まりに対し、縄文的死生観の復権を見ている。


『老人と子供の考古学』

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2015/03/25

『人骨出土例にみる縄文の墓制と社会』

 本土日本の縄文時代の埋葬姿勢から、文字以前の思考に接近してみる。

 まず、山田康弘は、埋葬姿勢について、下図を参照している。

Photo

 これをみると、屈葬や伸展位葬と呼んでいるものが、単純な二類型ではなく、連続的であることが分かる。特に屈葬において、それは顕著だ。この上に、仰臥、側臥、伏臥などもあるのだから、厳密に分ければ夥しい数になる。山田は、単純計算では243通りになると書いている。

 山田は縄文時代全体で、人骨1365例について、時期別に整理をしている。

 1.早期(総39例)
 ・仰臥で各関節をしっかり屈曲させた、いわゆる強い屈葬例とやや肘を伸ばした屈葬例が多く、伸展葬例はほとんどない。

 2.前期(総80例)
 ・仰臥で四肢を強く屈した屈葬例が多いといえるが、肘関節に関してはバリエーションが存在する。

 3.中期(総232例)
 ・四肢を伸展させたものと四肢を強く屈曲させたものがほぼ拮抗する状況を軸として、多様なバリエーションが存在する。

 4.後期(総538例)
 ・ICc3(仰臥・上半身C・下半身c3)が75例と最も多いが、その一方で、膝関節を強く屈曲させる姿勢も多く存在する。

 5.晩期(総462例)
 ・強く屈曲された事例が多い。

 全時期でみれば、膝関節が強く屈曲された姿勢が約半数を占める。

膝を強く屈曲させる姿勢には、さまざまなバリエーションが存在し、逆に膝を伸展させる姿勢は多くがICc3に集中するということがわかる。これまで膝を曲げる屈葬という姿勢は、呪術的な見地から非常に強い規制を受けた埋葬姿勢であるとの説が紹介されたこともあったが、むしろその実態は非常に多様性をもつものであって、反対にICc3に代表される伸展葬こそが、強い規制を受けた埋葬姿勢であったということができるだろう。

 ここで、南太平洋や琉球弧の視点から、これに対して仮説を立ててみる。縄文早期には、すでに屈葬が多いことから、この時期にはすでに霊魂思考はある強度を持っていたのだと思える。定住と原始農耕はすでに行われていた。前期、中期、後期にかけて伸展葬が増えるのは、霊力思考と霊魂思考の混融が進行した過程として把握することができる。これは、同じ伸展葬でも、樹上葬・台上葬をやめて埋葬するようになったことを示しているのではないだろうか。そして、晩期にはまた屈葬が増えるのは、農耕社会の本格化に対応する。

 琉球弧では、縄文時代並行期を通じて、伸展葬が多く見れらるが、それは霊魂思考の弱さを物語るものだ。

 これが、「縄文人の埋葬姿勢は伸展化する方向性にあったということができる。ただし、晩期に至って各関節が屈曲の度合いを強める」と、考古学者が判断する背景にあるものだ。

 山田は埋葬姿勢の地域性について地図化している。

Photo_2

 上記の仮説からこの地図を占ってみれば、Ⅲの伸展化地域とは、樹上葬・台上葬を止めて埋葬するようになった種族、つまり定住と農耕化が進んだ地域、Ⅰ、Ⅱの屈葬が強い地域は、農耕化が進展する一方、逆の面からはまだ樹上葬・台上葬を行う種族も残っている地域、Ⅳの二分化地域は、農耕種族と農耕化種族が多い地域ということになる。

 また、山田は頭蓋の扱いについても検討し、「頭蓋そのものを保管し、それによって祖先崇拝を行っていたような証拠は、今回の検討によって少なくとも縄文時代には存在しないことがわかった」としている。ここは、ぼくなどは疑問を持つ箇所だ。


『人骨出土例にみる縄文の墓制と社会』

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2015/03/24

『縄文の思考』

 土器は煮炊き料理を可能にした。けれど、料理を竪穴式住居の炉で行った形跡はない。食事は戸外でしたらしい。屋内の炉は、「灯かりとりでも、暖房用でも、調理用でもなかった」。そうなると、火をともし続けることに意味が見出されていたと考えるしかない。

炉の火は体を暖めるものではなく、心を暖め、目に灯かりをもたらすものではなく、心の目印となるのである。だからこそ、炉は、住居の存在を保障し、やがて家=イエ観念と結びつくに至るのだ。炉に石棒を立てる理由もここにある。(小林達雄『縄文の思考』

 ここに「火の神」の淵源を見ることができるのかもしれない。また、「家=イエ観念」と言わないまでも、対幻想が独自の位相を持つのに、定住化が契機となると考えることができる。

 富山県鉢伏山の頂上付近から縄文土器が発見されている。西井龍偽は、

標高五〇〇メートルの山頂部での居住がなされたとは考えにくい。付近でみられる縄文時代の遺物とは時代背景、社会環境が異なるといわざるをえない。(中略)鉢伏山そのものが山麓の人々から崇められたとみたい。山頂部の古代遺跡はそうした人々の畏敬のこもった奉賽品

 と見なし、著者の小林は傾聴に値すると書いている。

 これはぼくもそう思う。この、縄文の山岳信仰は、琉球弧では、山(タケ)由来の名称を持つ、御嶽に連結された。ただし、山が迫っているとは限らない琉球弧では、連結の対象となるのは、山または海だった。


『縄文の思考』

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2015/03/23

「弥生再葬の社会的背景」

 設楽博己の『弥生再葬墓と社会』に再度、接近してみる(cf.「『弥生再葬墓と社会』」)。

 弥生再葬制の特徴。

 1.一次葬から二次葬の段階で、被再葬者の指骨や歯などに穿孔して親族が装着する。
 2.土器再葬や焼人骨葬のように、遺骨の保存と破壊という矛盾した行為を取り込んでいる。
 3.複数土器再葬墓や数十体の焼人骨を納めた土抗などから伺えるように、合葬の意識が強く働いている。

 弥生再葬墓の成立のシナリオは、縄文文化の再葬のうち、中部高地地方で発達し、拡散した結果、生じた。縄文晩期末に、焼人骨葬を基軸として多人数の遺骨を処理する再葬が、中部高地地方から東西に拡散。壺型土器が存在した南奥地方と東海地方西部で、導入され、壺を大型化して蔵骨器となった。

 再葬を発達させた要因は何か。世界的な気候の寒冷期に、狩猟採集民が行った分散居住のなかで、墓地を共有し、祖先を媒介にして集団の同族的結合を再確認した。「墓地が歴史を経ること、すなわち系譜確認行為が繰り返されることで、深みを増した祖先に対する意識が再葬などを通じて祖先祭祀を発達させた」。弥生再葬墓は、分散化した小集団がかつての同族的結合関係を再確認するために築いた集団統合の文化装置。

西アジア先史時代に発達した頭蓋骨崇拝は日本列島には認められないように、再葬の内容は異なっているが、再葬発動の原理は遠く離れた直接的な系譜や影響関係のない地域間でも類似する場合があったと考えたいのである。つまり、再葬が有する普遍的な社会的機能が、共通の葬制を生じさせ、発達させた理由の一つである。
 したがって、社会状況と対応した集団関係調整のメカニズムが葬制に埋め込まれていることに注意を向けなくてはならない。大林がいうように、狩猟採集民と農耕民という生業形態に応じた二元的な分類、あるいは発展段階に応じて葬制が決まっているわけではない。再葬が文化類型と相関関係をもっているよりは、個々の集団がおかれた社会的な状況や社会変動に応じて、その集団関係を維持していくうえでの方策の共通性から、再葬の問題に接近したほうがよい。

 琉球弧を日本列島に含めるのであれば、「頭蓋骨崇拝は日本列島には認められない」わけではない。現在では痕跡しか確認できないが、頭蓋骨崇拝は存在している。そして、狩猟採集と農耕とでは、樹上葬・台上葬と埋葬とがそれぞれ強い結びつきをみせることも確かである。設楽は、寒冷化と異文化との接触という「社会的な状況や社会変動」に寄せすぎているように見える。そこに「文化類型と相関関係」は底流しているのだから。

 一方で、視点を換えれば、琉球弧のなかで行われていた再葬も、ずっと連綿としたのではなく、廃れた後の復活もありうることを、設楽の追跡は教えている。(cf.「16.「洗骨文化の成立」」

 そもそも弥生中期中葉に関東地方に導入された方形周溝墓は、生者と死者を区分する原理にもとづく墓制であり、死霊を恐れつつも基本的には居住域で死者と暮らす縄文文化の墓制と大きく異なる。本格的弥生農耕社会は死者を遠ざけるかわりに、穀霊と関係の深い祖先霊を居住域にまねいて祭祀するという、弥生再生墓分布地域の初期農耕文化とは異なる祖先観や葬法をもっている。それによって、死者儀礼としての祖先祭祀を墓でおこなう必要がなくなったのであろう。

 この本は、弥生再葬を縄文後期からの連続性として捉え、また弥生中期に消滅する必然性を追跡したものだ。ぼくたちの問題意識に照らせば、農耕社会到来の遅延と部分化や生者と死者の分離が徹底しなかったことで、琉球弧では祖先崇拝が連綿とすることになったと考えておこう。


『弥生再葬墓と社会』


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2015/03/22

『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』

 吉野裕子の『日本人の死生観』は、「蛇」に関するもやもやをある程度、解消させてくれる。「蛇=人間」の比喩があたう限り生きていると思える民俗に思い切って没入している。そこには、ぼくの感じ方では踏み外しはないように思えた。しかも、琉球弧の事例が記紀神話と並んで大きな拠り所となっているだのから、関心を惹かないわけがない。

 まず驚いたのは、クバと蛇の類似の視点だ。

 蒲葵が信仰された理由は、その幹が蛇や男根相似のためであるが、幹は簡単に動かせずもち運びができないから、祭事の際は、その葉を折りとって幹の代用とする。蒲葵の青い葉は、祭屋を葺く料(しろ)となり、神事の扇となり、祖先紳の依代となる。乾燥して白く晒したものは、繊維として蓑笠、腰裳、そのほか種々の祭具の代とされたのである(p.21)。

 蛇=男根=蒲葵の幹。マユンガナシは蒲葵の蓑笠を着けてやってくるのは、「他界の祖霊=蛇」としてである、というわけだ。

 吉野は、産屋と喪屋にも構造の同一性を見出す。

 「生まれたばかりの子は、母親の浴衣などを解いた古い布でつつんでおく。大小便で汚れても、場所を替えるだけ、同じその布で満産までつつんでおく」(宮古島で中年の主婦から聞き取り。1973年)。その後、たいてい六日目に満産を行う。

 1.母親、あるいは近親の女性が、新生児を抱いて、東庭に出て、太陽を拝ませる。
 2.その際、赤児を抱く女性は頭から「カカン」(裳)をすっぽりとかぶり、蟹をはわせる。
 3.名づけをする。

 吉野は、カカンは「蛇の身」と解している。そして、蟹とは、「南島の蟹をはわす行事の原型は、蛇の脱皮であり、蟹は蛇の代用物」だ。この点は、ぼくたちも考えたことがあり、蟹だけでなく、アマムと通底するのも、「脱皮」だ。(cf.「脱皮論 メモ」

 沖縄で世のはじまりのことを蒲葵の葉世(クバヌハユー)という。衣服がなく男女ともクバの葉でつくった蓑を腰にまとっていた。近世まであった七襞袴(ナナヒジャカカン)は、襞の極めて多い麻の裳であるが、これはクバの腰巻の遺制という。今でも生児の名づけのとき、老女がこの袴を頭にのせて出る習がある。住居にもクバが用いられ、イザイホウの祭りにも、女性がこもる仮屋はこれで葺かれるという。(柳田國男『海南小記』)

 ここから吉野は、「神木蒲葵を蛇と推測したくなるのである」としている。

 この推測が新鮮なのは、「蒲葵の葉世(クバヌハユー)」に別の視点を持ち込んでくれることだ。この言葉は、「衣服がなく」ということに力点を置いて説明されるので、ぼくなどには魅力的に感じられなかった。同じ意味なら、「アマム世」というほうが、トーテム時代を表していて好ましく感じてきたのだ。しかし、「蒲葵の葉世(クバヌハユー)」が「蛇世」の意味なら、「アマム世」と同じくトーテム時代という意味になり、かつ、「アマム世」より前を指せることになる。「蒲葵の葉世(クバヌハユー)」が「アマム世」と同等の言葉としてあるなら、吉野の推測は同意できるものだ。

 吉野の文脈に戻せば、したがって、「産屋にこもっている間の新生児は、古布のボロにくるまれ、それを脱皮の料(しろ)として、産屋から呪術の誕生、つまり人の世として誕生をした(p.65)」ということだ。

 吉野によれば、同じ構造は、喪屋にも見出せる。死者にとって、生児のボロに該当するのは、「他ならぬ死者の腐敗してゆく肉体そのものだった」。

死者は葬られるにさきだって、腐蝕して脱落する血肉を、身体の本質である「骨」から削ぎ落とすことが必要と考えられたのである。
 「骨」は変化しないもの、腐らないもの、脱落しないもの、遺るべきもの、要するに精髄であって、「骨神」として信仰されたのである。血肉が腐蝕して骨から完全に脱落するには、数ヶ月ないし一年から数年のときを要する。この時間が殯で、それは死者が浄化される期間としてとれられる(p.67)。

 吉野は、伊波普猷の「南島古代の葬制」のなかの津堅島や粟国島の殯の模様を引き、伊波のいう「慰霊」ではなく、「死体の腐敗過程を見る」ことが本質で、「非常の宗教行事だったと思われる」、と書いている。「死体の腐敗はこうして、穢れでも恐怖の的でもなかった」。

 また、徳之島では、「死の装い-着物は夏冬用のものを一枚ずつ計二枚、その上から羽織を重ねさせる。着物二枚のうち、内側の一枚は裏返しにして着せ、衿を左前に合わせる」(「徳之島葬制」『葬送墓制研究集成』)が、「内側の一枚は裏返しにして着せ」るのは、「肌に密着する着物を、古い皮に見立てている証拠と思われる」としている。つまり、脱皮を模しているのだ。

 そこで、吉野にあっては、産屋と喪屋は「疑似蛇胎」として同一の構造を持つのだ。

 ここでぼくたちの考えを差し挟めば、殯とは霊魂思考が駆動して以降の行為だ。そして殯にはその前段があり、近親者は死者のそばにやはりいた。そこで、死者を食べたり、その死汁を身に浴びたのである。そこでは、骨だけでなく、腐りゆく身体も聖なるものだった。だから、殯の場面については、吉野が「非常の行為」と見なすのとは違い、伊波普猷が言うように「有情の行為」も入っていたのだ。

 吉野は屈葬についても言及している。

 伸びきった蛇の姿体は、いわば死体であって、蛇の活力は屈した体位にこそみなぎり溢れる。屈むことなしに、前進はありえない。死者は蛇と化して、急ぎ他界に赴くべきものであって、屈体は当然である。蛇の古語はカカであり、「カガム」はこのカカからと思われる(p.88)。

 要するに、屈葬=蛇、というわけだ。「死者の足が曲がらない時は、ホウキで足を撃つ真似をするとすぐ曲がる」(安田宗生「トカラ・悪石島の葬送儀礼」)、「喜界島で死者の膝を曲げ括り、次に手拭いで面部を蔽うが、これをハブサジという。サジは手拭いのこと」(『葬送民俗語彙』)。ここで、「ホウキは、(中略)蛇の象徴物であり、ハブサジは、毒蛇のハブを象る手拭いの意と解される(p.88)としている。なんでもかんでも蛇、蛇と思わせてしまう箇所だが、死霊への恐怖と解されがちな琉球弧の屈葬に対する理解があるなかでは、ぼくには新鮮だった。

 しかし、それでは霊力思考が旺盛だった前段階で伸展葬を行ったことと脈絡が見いだせない。吉野の考えであれば、トーテムがより生きていた霊力思考の段階でも、屈葬が行われて不思議ではない。また、霊魂思考の駆動から農耕によって屈葬が顕著になる南太平洋の事例にも適用できるかが分からない。吉野は、蛇信仰の普遍性と屈葬の普遍性をつなげているわけだが、果たしてこの推論は妥当だろうか。

 吉野の仮説を補強するかもしれないのは、ニューギニアの死者・祖霊像コルワルのことだ。「頭蓋骨付きコルワルは、初期においては、カヌーによる危険な遠征の時に積み込み、帯同されることが多かった。死者の霊が同行者たちを守護し、嵐を避け、戦闘や漁の成功に大いに貢献してくれたからであった(p.28、小林眞、『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』)」。ここで、コルワル像と、琉球弧で航海のときに姉妹から渡される「手拭い」は同じ意味を持つが、コルワル像は男根が強調されたり、蛇を持っていたりすることだ。このアナロジーでいけば、確かに「手拭い」も「蛇」の意味を帯び始める。

 箒を「蛇の象徴物」と見なす吉野の考えにも触れておく。

(前略)蛇に見立てられた樹木のなかで、亜熱帯の蒲葵はあらゆる点から見て、もっとも蛇に相似の木とされ、とくに蛇木(ははき)として信仰されたことは先にも述べた。蒲葵の葉も幹の代用として、その神聖性を継承し、蒲葵扇は祭りに欠かせない祭具であった。
 蒲葵葉は有用な利用度の高い実用品でもある。清掃にも使われた結果、清掃用具が、「ハハキ」すなわち「ホウキ」とよばれ、後に竹製の清掃具にその名がひきつがれて、ハハキに「箒」の字があれてられたとき、ホウキは完全に清掃用具の名称になってしまたとも思われる(p.103)。

 ※吉野はここで、伊平屋島の石下墓の左に蒲葵の箒が置かれている写真(『エノトス』1号)を、箒の原義を示唆するものとして挙げている(「古墓の蒲葵箒」)。

 ぼくも吉野の大胆な仮説の勢いを買っていえば、琉球弧では、「蛇」は地名としても生きたと思っている。エラブ・イラブ(沖永良部島、伊良部島)がそれだ。


『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』

『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』


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2015/03/21

『人類史のなかの定住革命』

 「栽培は定住生活の結果ではあっても、その原因であったとは考えられない」として、「農耕」ではなく「定住」を時代の画期と主張しているのが『人類史のなかの定住革命』(西田正規)だ。

 面白いのは、琉球弧においても農耕の開始が11世紀とされているのに、定着は前Ⅲ期(5000年前)からと、その4000年も前に遡るのだ(cf.「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」)。

 西田は、人間-植物関係の高密度化と規模拡大の二段階を考えている。

 第一の場面は、定住生活に起因する薪や建築材用の樹木の集中的な伐採、人里植物の成立、集中的な観察の蓄積などによって、ほぼ自動的に進行する過程と考えてよい。しかし、規模が拡大するという第二の場面については、さらに説明が必要である。第一の場面で管理技術が発達してゆく過程を「栽培化」とし、さらに規模が拡大する場面を「農耕化」とするなら、それぞれは、異なった要因によって進行すると考えられるからである。

 琉球弧においては、その2000年間のいあいだの「栽培化」はまだ確認されていない。しかし、黒住耐一が「熱帯に広く分布する胎生の淡水産巻貝・ヌノメカワニナが前4・5期の遺跡から確認されており、この時期に南から水生タロイモについてこの貝が持ち込まれたと想定できることから、沖縄で根栽農耕の存在の可能性を考えている」(cf.「琉球弧の先史時代三篇」)と書くように、小さな規模ながら栽培化もあったのだと思える。

 しかし、「栽培化」は定住化の結果であって原因ではない。では、定住化の契機に何があったのか。西田が注目しているのは漁撈である。

 魚類は、人間が最も新しく開発した食料資源である。樹上で進化した霊長類にとって、水界は最も遠い世界であったのだ(p.58)。

 その漁撈のなかでも、「定置漁具」の利用を西田は挙げている。定置漁具の利用は収穫量を増大させるが、定置漁具を使うのであれば、移動するわけにいかなくなる、というわけだ。

 ここでも面白いのは、琉球弧も定着化以降、「内陸部での食物物資食料獲得を基盤に、沿岸漁撈など各種の生業を体系化した状況が推察できる(伊藤慎二)」(cf.「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」)とされているのだ。

 ここはもう少しなだらかな経緯を示すことができて、

貝塚時代の脊椎動物利用は、前Ⅰ期にはリュウキュウイノシシが主であったが、前Ⅲ期にはハリセンボンなど内湾性の魚類へと変遷し、前Ⅳ期以降はサンゴ礁の魚類が主なタンパク源となったと解釈されている(cf.「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」)。

 つまり、定着期の前に内陸の動物利用から魚類利用へと移っている。この点も西田の主張に符号する。ただ、定置漁具は、琉球弧の場合、何だろう。石を積んで魚を採るカキ(カキイ)がそれに該当するだろうか。

「栽培化」の過程が、水産資源に支えられて出現した定住集落において、ほぼ自動的に進行することからえ言えば、食料生産の歴史は、魚資源という、動物性たんぱく質の宝箱についてきた付録として始まったことになる。
 人里植物の集落への集中と、その利用(「栽培化」)は、水産資源の豊かな集落で始まるが、しかし、生業活動のなかで、有用人里植物利用の比重が大きくなるのは(「農耕化」)、自然の産物として得られる資源の少ない地域であった。(中略)「農耕化」の過程は、環境の豊かさ、特に水産資源の豊さと負の相関を示して進行している(p.182)。

 これは、11世紀に強制されるまで、農耕を開始することのなかった琉球弧の説明にもなるのではないだろうか。

 また、西田の論考は、「農耕」ではなく「定着」が霊魂思考を駆動させたのではないかというぼくたちの仮説にも符号する。定着は霊魂思考を駆動させる。栽培化の進展とともに、他界は地下化あるいは地上の果てへと遠隔化される。

 この本を読みながら、霊魂という概念は抑圧された遊動への衝動が形成させたのかもしれない。また、樹上葬や台上葬は、霊長類が樹上の生活を止めて地上へ降りた、その記憶を宿しているのではないか。そんなことを思った。


『人類史のなかの定住革命』

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2015/03/20

「南西諸島における先史時代の墓制」(新里貴之)

 新里貴之の「南西諸島における先史時代の墓制(Ⅱ・Ⅲ)を小躍りするように読んだ。

 まず、トカラ列島・奄美諸島。

 仰臥伸展葬
 ・トマチン遺跡石棺墓1(縄文時代晩期・貝塚時代前Ⅴ期)
 ・トマチン遺跡92(縄文時代晩期・貝塚時代前Ⅴ期)
 ・面縄第1洞穴(縄文時代晩期・貝塚時代前Ⅴ期)
 ・宇宿貝塚(弥生時代後期~終末期以降・貝塚時代後期前半以降)

 仰臥屈肢葬
 ・長浜金久第Ⅱ遺跡(弥生時代中期・貝塚時代後期前半)
 ・宇宿港遺跡2号墓(弥生時代後期~終末期以降・貝塚時代後期前半以降)
 ・宇宿港遺跡1号墓(弥生時代後期~終末期以降・貝塚時代後期前半以降)

 小湊フワガネク遺跡群ナガガネク地区(古代・貝塚時代後期後半・8世紀代後半以降)
 ・「成人女性であると想定されている埋葬人骨は大半が小失しており、しかも棺材の抜き取りもされていることから、石棺内で骨化させた後、骨を抜き取った改装を行う施設である可能性がある」(松下孝幸)。

 また、トマチン遺跡の4号は、仰臥伸展葬で頭骨が抜き取られていた。

 新里はこう整理している。

 岩陰地帯の墓利用は、縄文時代早期末~前期初頭ごろから存在した可能性がある。岩陰墓が古式の先行立地形態として存在し、縄文時代晩期~弥生時代中期頃まで砂丘立地の墓と並存し、弥生時代後期以降は、砂丘立地が主流になった。岩陰と砂丘の並存は、集落ごとに墓域が異なったことを示唆している。奄美では、大隅・沖縄のように台地・兵陵立地の先史時代墓は確認されていない。

 一次葬を示すものは砂丘立地に多く、岩陰墓では二次的に動かされている。

国分直一のいうような他の場所で骨化したものを持ち込んだのではなく、当初は一次葬として埋葬されたものが、追葬を行うにあたり、それが寄せらたり退けられたりすることによって狭い埋葬空間に多重累積し、再葬の様相を示すものである。このことからすれば、縄文時代後期以降、岩陰墓・砂丘地では同一の墓抗で埋葬スペースに何度も埋葬していくという一連の種族があったことになり、砂丘地のオープンスペースにおいては、埋葬エリアの広さから一次葬のままにされることもあったと考えられる。砂丘・岩陰両立地でも、縄文時代以降、基本的には一次葬であり追葬を行うことが多いことになる。
 縄文時代晩期以降、仰臥伸展葬が主流であり、これは沖縄諸島に類似する点であるが、沖縄諸島のような伏臥伸展葬は認められていない。弥生時代後期以降は、仰臥屈肢葬(後略)。埋葬頭位は、全体としてやや南よりの傾向があるが、北偏も一定量有り、判然としない。
 奄美諸島・沖縄諸島地域においては、下顎切歯を中心とした抜歯が主様式であったことが峰和治によって明らかにされている。この見解に加えて、松下孝幸らは、沖縄諸島には犬歯の抜去例がないことを抽出している。

 続いて沖縄諸島

 仰臥伸展葬
 ・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
 ・具志堅(砂丘・前Ⅳ期後半)
 ・大久保原(砂丘・前Ⅳ期後半・前Ⅴ期末)
 ・具志川島西区(岩陰・前Ⅳ期~)
 ・具志川島岩立(岩陰・前Ⅳ期~前Ⅴ期末)
 ・仲原(台地・前Ⅴ期末)
 ・木綿原(砂丘・前Ⅴ期末~後期初頭)
 ・宇地泊兼久原1(砂丘・後期?)
 ・安座間原2(砂丘・後期前半)

 仰臥屈肢葬
 ・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
 ・屋部原田原(砂丘・前Ⅴ期)
 ・西底原D(砂丘・後期?)
 ・名護(砂丘・後期後半)

 仰臥屈葬
 ・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
 ・具志川南区(砂丘・後期前半)
 ・米須(砂丘・後期?)

 伏臥伸展層
 ・安座間原(砂丘・前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末)
 ・大久保原(砂丘・前Ⅳ期後半・前Ⅴ期末)
 ・武芸洞(洞穴・前Ⅴ期末~後期初頭)
 ・木綿原(砂丘・前Ⅴ期末~後期初頭)
 ・中川原(砂丘・後期初頭?)
 ・嘉門B(砂丘・後期前半)
 ・アーカル原(砂丘・後期?)

 新里の整理。

 沖縄諸島には伏臥伸展葬が目立つ。抜歯の対象者は成人すべてに対して行われているわけではなく、遺跡によって、8%、数%、33%、30%、43%と時期とともに若干増えるが、検出人骨数に対して8割以上の抜歯を行う本土に比べてかなり少ない。

南西諸島の葬墓制が、九州・本土地域と異なるのは、縄文時代から伸展葬を主要な埋葬姿勢とする伝統性をもつ奄美・沖縄であるといえよう。(中略)伏臥葬については、台湾を起源とする可能性もある。

 新里の整理をもとに関心のある項目について作表してみる。

 Photo_3

 各遺跡は古い順にソートしている。とはいっても、各遺跡は該当する期間に幅があるから、遡れる上限の時期に合わせている。さて、上記のなかでも、仰臥伸展葬、伏臥伸展葬、仰臥屈肢葬、仰臥屈葬という埋葬姿勢について、各遺跡ごとの交わりを見てみる。

Photo_4


 ひとつの遺跡でも期間があるから、上の図はあまり意味を持たないが、おおざっぱな目安を立ててみたい。「伏臥伸展葬」は初耳なのと、屈肢葬と屈葬の区別はぼくにはよく分からないが、屈葬の方が曲げる度合いが強いとみなしておく。

 すると、仰臥伸展葬と伏臥伸展葬には一定の重複があるが、仰臥屈肢葬と仰臥屈葬については単独の場合が多い。四つの葬法姿勢とも認められるのは、貝塚時代前Ⅳ期後半~前Ⅴ期末(4000年前-2600年前)とされる安座間原遺跡だ。

 これに埋葬数を考慮して、新里は埋葬姿勢間の割合を出している。

 前Ⅳ・Ⅴ期の埋葬姿勢のわかるものを対象とすると、仰臥伸展葬:仰臥屈肢葬:仰臥屈葬:伏臥伸展葬の割合は、32:5:1:14となる。後期になると、3:5:2:2となり、全体的に対象数が少ないものの、屈肢・屈葬が増加し、伏臥葬も継続している。

 乱暴だが、これを百分率で表すと、

 仰臥伸展葬:伏臥伸展葬:仰臥屈肢葬:仰臥屈葬

 62%:27%:10%: 2% (前Ⅳ・Ⅴ期)
 25%:17%:42%:17% (後期)

 四つの埋葬姿勢がいちどきに出た安座間原遺跡では、「伏臥葬は仰臥葬と併用される一般的な埋葬姿勢であり、屈葬はわずか一例で特殊であると」報告されているが、伏臥伸展葬は仰臥伸展葬の変形タイプだと思われる。屈葬の前段で、伸展葬より霊魂思考が進んだものとみなすのだ。

 貝塚時代の前Ⅳ期から後期にかけて伸展葬は主流であり、後期になると屈葬の割合が増すのは、霊魂思考の強まりを示していると思える。霊魂思考の強まりでいえば、仰臥伸展葬(伏臥伸展葬)→仰臥屈肢葬→仰臥屈葬の流れを想定することができる。

 また、頭骨の抜き取りや頭骨と四肢骨の分離も興味深い。前者は霊魂思考による頭蓋崇拝であり、後者は霊力思考の優位だと考えることができる。

 代表的な立地である砂丘と岩陰について、新里は居住域を理由として想定している。それを元に考えると、少なくとも前Ⅳ期以降では、砂丘域では霊力思考優位の種族も埋葬を選択し、岩陰域では、霊魂思考優位の種族は埋められない埋葬としての風葬を行ったと考えられる。前Ⅳ期はすでに定着期に入っており、霊魂思考が進展していったのだ。ただし、再葬は上記よりも実際は多かったのではないだろうか。新里は、「砂丘・岩陰両立地でも、縄文時代以降、基本的には一次葬であり追葬を行うことが多いことになる」と見なしているが、ぜひ再葬の視点を導入してもらいたいと思う。

 この表でいえば、#10の仲原遺跡(伊計島)においては廃屋墓も確認されている。これは、日本でいえば縄文中期後半に確認されている。単純計算では1400年の差がある。

 琉球弧で抜歯が希薄なのも興味深い。ひょっとしたら、琉球弧では、成人儀礼の臨死度は低かったのではないだろうか。


 

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2015/03/19

「ウォーラシア海域からみた琉球列島における先史人類と海洋適応」

 ウォーラシア海域は、アジア(東南アジア)とオセアニアの境界に位置する空間。更新世代には、「東南アジアでは、現在のマレー半島やスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島が陸続きとなってスンダ大陸を形成する一方、オセアニアではニューギニア島とオーストラリア大陸が合体してサフル大陸を形成していた」。

 4~3万年前頃までには、ウォーラシア海域中に人類が移住した可能性が明らかになっている。

「更新世後期に移住した新人集団は、現在のオーストラリアに暮らすアボリジニやニューギニア島民の祖先に当たるオーストラロ・メラネシア系の人々と考えられている。興味深いことに、これまで日本で発見された最古の完全人骨とされ、1万8000年前頃の年代値が得られている沖縄の港川人骨もオーストラロ・メラネシア系の人々に形態的に近いという指摘もあ」る。

 ウォーラシア海域における新石器時代の開始の時期は、現在のところ約3500年前頃と考えられている。生業における特徴は、農耕や家畜飼育の実践。ただし、ニューギニアでは9000年前頃の灌漑農耕も推測されているから、何らかの形での農耕や植物栽培は行なわれていた可能性もある。

 メラネシアでは、3300年前頃、ラピタ土器がビスマルク諸島に突然、出現し、その後約100年間でソロモン諸島を越え、それまでは人類未踏だったヴァヌアツやフィジーらの島を経由し、ポリネシアの西部に位置するサモアやトンガまで広がったことが明らかになっている。これは直線距離4000kmにも及ぶ。ラピタ集団はポリネシア人の祖先とも言われている。

 ラピタ集団はオーストロネシア語族に属する。オーストロネシア語族は、台湾を起源とし、東南アジア島嶼部を経由してオセアニアへ拡散したとする移動仮説が、げんざい最も支持されている。ラピタ集団の漁撈活動は、サンゴ礁の発達した沿岸で行なわれ、出土する魚骨の90%以上が沿岸魚種のもので占められている。

 小野林太郎は、「ウォーラシア海域からみた琉球列島における先史人類と海洋適応」において、上記のあとに琉球弧を検討している。

 琉球弧でもっとも古い人類の痕跡は、山下町洞穴遺跡で、約32,000年前の人骨。

 沖縄本島の場合、もっとも可能性があるのは九州方面からの移住。最終氷期においては、九州南端からのトカラ海峡の40kmはより短かった可能性が高い。

 石垣島の白保竿根田遺跡の人骨は、約24,000年前までさかのぼる。宮古島のピンザアブ洞穴遺跡は26,000年前。

 台湾から八重山への渡海は黒潮を考えると容易ではない。台湾を出発点と考えると、西表・石垣島まで直線距離約120km、与那国島からは約50km。与那国島を経由しなくても、台湾から西表・石垣島へ直接、渡海した可能性もある。

 また、宮古島は、距離を考えると、石垣島(約80km)経由で行なわれた可能性が高い。


 メモ。崎山理は、オーストロネシア語族の最初の北上を6000年前と想定していた。それと比べると、ウォーラシア海域の新石器時代の開始の3500年前とはギャップがある。この違いの意味は、今のところ分からない。ラピタ集団の活躍は面白い。彼らがオーストロネシア語族であれば、日本とポリネシアをつなぐ鍵を握っているかもしれない。とにかく、3~2万年前には、琉球弧に北からも南からも人類が到達していたのだと思う。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』


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2015/03/18

霊力旺盛なイザナミ

 イザナギとの国生みに励むイザナミは、ヒノカガビコノカミを生んだ後に、その火の神に陰処を焼かれて煩ってしまう。その時の嘔吐からカナヤマビコノカミを生み、糞からハニヤスビコノカミ、尿からミツハノメノカミ、ワクムスビノカミを生む。

 オオゲツヒメのように、この後、身体から料理や、その死を代償に有用植物を出すわけではなく、イザナミはどちらかといえば黄泉の国でトーテム化するが、それにしても、嘔吐、糞、尿から神々を生みだすのは凄まじい。イザナミは旺盛な霊力を持っていると言える。

 イザナミの挿話をみると、大和朝廷視力は、稲作農耕の神として連綿としてきたが、彼らが稲作農耕勢力であったとは限らないように感じられる。彼らが霊力思考が優位なころの伝承を保持していたのかもしれないが、霊力思考豊かな在地の伝承を掬いあげたことも考えられる。


『現代語訳 古事記』

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2015/03/17

琉球弧の先史時代三篇

 ようやく琉球弧の先史時代をポジティブに捉える人たちが出てきたのが嬉しくなる本だ。彼らが明らかにしたとを辿ってみる。

◇「奇跡の島々-先史時代の奄美・沖縄諸島」(高宮広土)

 まず、高宮の提示する年表がありがたい。

Koshi_2

 8、9世紀までの遺跡からは栽培植物は全く検出されず、堅果類(ドングリの類)やぶどう、ダブノキがほとんどで、人々は野生植物に依存していた。前1期から後2期のほとんどまで、島人は野生の植物を食していた狩猟採集民だった。

 これは奇跡的なことだと、高宮は言う。なぜなら、狩猟採集民が島嶼環境に適応するの至難なのだ。世界中の多くの島は、「農耕がはじまった一万年前おりあとに、農耕民によって、初めて移植されたのである」。

 狩猟採集民のいた島には次の特徴がある。

 1.大きな島であること(沖縄島はその意味では小さな島)
 2.大陸あるいは大きな島から近距離にある。
 3.大型海獣がある程度豊かで、コンスタントに手に入る
 4.動植物の持ち込み(琉球弧の場合、確実は持ち込みはイヌのみ)
 5.1~4の組み合わせがあること

 琉球弧貝塚時代は、この一つも当てはまらない。にもかかわらず、少なくとも約6500年前から「人が継続して住み続けた(伊藤慎二)」。


◇「島における先史時代の墓」(新里貴之)

 高宮広土が明らかにした先史時代の琉球弧の5つの特徴。

 1.旧石器時代に現生人類が生活していた
 2.狩猟(漁撈)採集民が長期間にわたって継続して居住した島
 3.狩猟(漁撈)採集から採集へと生業が変遷した島
 4.狩猟(漁撈)採集のバンド社会から王権を成立させた島
 5.人間が大きな環境破壊を引き起こしていなかった島

 貝塚時代の墓は前2期から確認され、前4期にはすでに多様な墓が認められる。

 前2期。土坑墓。
 前3期末から前4期。集住していく様子がみられ、土坑墓、岩陰墓、石囲墓、配石墓、廃屋墓。廃屋墓はぼくたちの関心を惹く(仲原遺跡は、伊計島にあり、貝塚時代前5期に当たる)。

 前5期。一定領域に住居を何度も建て替えて住み続ける。石棺墓。

 徳之島トマチン遺跡(前5期末。2800~2400年前)

 石棺墓上段、1号:仰臥伸展葬。中段、4号:仰臥伸展葬、ただし頭部は上段に置かれていた。

4号人骨が埋葬され、骨化してから頭骨を抜き取り、上段埋葬の底石を敷いた後、さらに三体の被葬者を埋葬するまで大事に棺内に安置さr続けた、という再葬の状況が具体的に明らかになった。

 石棺墓そのものは九州系の要素だが、「重層構造は、前4期頃から確認されており、伝統的な埋葬法であったようだ」。埋葬された人々は琉球弧の先史時代の集団だと判断されている。風習的な抜歯は確認されていない。家族あるいは親族と考えられる。ミトコンドリアDNAでは、2号がD4n、4号がD4b。

 生業活動は漁撈とイノシシ猟。遺跡からは多量のカニ・ヤドカリ類が確認された。オカヤドカリは、墓地の外に多く、墓地周辺では少ない。

 ぼくたちは、約2800~2400年前の徳之島トマチン遺跡に埋葬された島人が、霊力思考の上に霊魂思考を混融させた地上の他界を持つ人々だったと推測することができる。そして、4号からは頭蓋崇拝の痕跡も認められる。

 またトマチン遺跡のある喜念は、松山光秀が調べた洗骨と埋葬の分布では、洗骨地帯に入っている。東半分は埋葬地帯だが、その下層には、仰臥伸展葬があったのかもしれない。


◇「サンゴ礁の貝を利用し続けた沖縄の人々」(黒住耐一)

 旧石器時代から貝塚時代までは一万年のギャップが存在しているといわれていたが、徐々に埋められつつある。たとえば、港川人と同じ時代で貝を用いた道具や装飾品が沖縄島南部のサキタリ洞遺跡から発見された。

琉球列島では弥生時代以降に相当する後期にも水田稲作等の穀類農耕は行なわれていなかったことが確実となった。ただ、筆者は熱帯に広く分布する胎生の淡水産巻貝・ヌノメカワニナが前4・5期の遺跡から確認されており、この時期に南から水生タロイモについてこの貝が持ち込まれたと想定できることから、沖縄で根栽農耕の存在の可能性を考えている。しかし、このタロイモ農耕による貝類等の変化はほとんど認められておらず、根栽農耕が存在していたとしても高宮・新里等が想定している社会組織に影響を与えるものではないという評価は妥当であると考えている。

 ぼくたちも徳之島トチマン遺跡の葬法からは、琉球弧の根栽農耕はあったと考える。それは社会組織に大きな影響はなかったかもしれないが、琉球弧に他界を発生させ、憑依の呪術を生むなど、思考にとっては大きな転換だったと思える。一方で、死体化生神話が琉球弧で稀薄なことと符合している。

 約6000年間の安定した貝類利用は、10~11世紀のグスク時代に入り、穀類による農耕社会になることで、大きく変化する。

 筆者は、この貝類遺体の示す漁撈-採集社会から農耕社会への変化を、農耕に従事させられるという社会的制約によりサンゴ礁での貝類採集活動が減少した結果であると考えている。

 黒住の論考は食べ物の話が出てくるのも楽しい。たとえば、小型の貝類は身(肉)よりもダシ的に利用したと想定したところ、調査時の民衆で、この貝の吸い物とマガキガイの身の入った油味噌が出て実証された、というように。

 また、「貝塚時代の約六〇〇〇年間はこのサンゴ礁の貝類利用が中心であったと言えよう」としているが、これは、そうだったろうなぁと、島人の実感としても頷けるのではないだろうか。


『文明の盛衰と環境変動――マヤ・アステカ・ナスカ・琉球の新しい歴史像』


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2015/03/16

『古代人と死』における魂と心

 西郷信綱は、魂と心は同一ではないとして、書いている。

先ずタマシヒ(またはタマ)とココロは同一のものではなかった。沖縄語では前者はマブイ、後者はキムという。万葉などにも「群肝の心」とある。なかでも心臓がこれをつかさどるものと考えていたらしい。(中略)タマシヒとココロが働きを異にするのは、恐らく多くの民族がそうであったに違いない。しかもそこにはさらに、あれこれと分化もとげられているといっていい。(『古代人と死―大地・葬り・魂・王権』

 その通り、霊魂思考の進展とともに、霊力も霊魂化して捉えられ、種族は複数の霊魂観を持つようになる。たとえば、北米先住民のボディ・マインドとスピリット・マインド、マオリ族のハウとワイルア、ニアス島人の「気息」とルモルモのように。ぼくがはっとしたのは、琉球弧において、霊魂をマブイと呼ぶのははっきりしているが、霊魂化した霊力を何と呼ぶか、はっきりしないからだ。そこで、心に当たるキム(肝)という指摘には虚を突かれるような思いだった。

 しかしでは、貝塚時代の琉球弧人が、人間の霊魂をマブイとキムとに分けて使ったかと考えると怪しくなる。キム(肝)のほうは、肝というくらい物質的に考えられているからだ。セジは霊力というより、霊威の意味で使われる。ただ、身体自体が持っている力としては、キムよりもセジのほうが妥当である気はする。

 複数の霊魂観は明瞭に残っている。しかしその呼び分けは早い段階に消失してしまったということだろうか。


 また西郷は、「黄泉の国」のことを、ヨミガエリなどと絡めながら、死者の身体が骨化するまでの期間のことを指したのではないかと考えている。これについては、今のところ判断を加えず、備忘にとどめておく。

 
『古代人と死―大地・葬り・魂・王権』

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2015/03/15

「琉球列島における先史時代の崖葬墓」

 片桐千亜紀の「琉球列島における先史時代の崖葬墓」は風葬墓について、整理している。「崖葬墓」とは、。「岩陰や洞穴を利用する(中略)墓」のこと。

 現在まで、発掘された崖葬墓は、貝塚時代前4期から貝塚時代後期後半まで確認される。これは、少なくとも定着以降の段階では、風葬が存在したことを示している(cf.「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」)。言い換えれば、遊動期の野ざらしの遺骨は発掘されないということだ。

 2013年には、白保竿根田原洞穴遺跡から崖葬墓が発見されている。

先史時代に崖葬墓を営む王位は、北はトカラ構造海峡を(生物の分布境界線である渡瀬線)を超えていないが、南は完新世後半には文化的接触が稀薄だったと考えられる沖縄諸島と先島諸島の協会である慶良間構造海裂を超えていることが明らかとなった(後略)。

タイプⅠ.風葬(一次葬)→再葬・集骨

ⅰ.再葬・集骨

・地上の露出した環境で風葬し、骨化・安置するもの。いずれも、岩陰や洞穴にスペースがあったとしても、壁際を特に意識して集骨した状況がうかがえる。
・雑然と集骨されているようにみえる中でも、頭骨を意識的に集中させたものや、四肢骨等の長骨を壁に添ってまとめたものなどがあり、再葬への様々な意図的な行為があったことを読み取ることができる。

解剖学的な位置関係を部分的に留めている事実は、一次葬がこの場所で行われた可能性が高いことを示唆する。(中略)崖葬墓では一次葬から再葬・集骨まで同一墓(岩陰・洞穴)で行っていたと推定できる。

ⅱ.丁寧な再葬

・なかには特に丁寧に再葬された遺骨も確認されている。

ⅲ.頭骨(部分骨)再葬

・再葬には頭骨を重要視して再葬するものがある。具志川島遺跡群岩立意識では、頭骨が立石で囲われた空間に安置されていた事例が確認されている。大当原貝塚では、頭骨が大当原土器を被った状態で検出された。

タイプⅡ.風葬or埋葬(一次葬)→人骨焼き(焼人骨葬)→再葬・集骨

・一次葬段階で風葬または埋葬によって骨化させた骨そのものを焼いて再葬する。タイプⅠと同時に存在していた。

タイプⅢ.火葬→再葬・集骨

・死後、軟部組織が残った状態で火葬されたと考えられる事例。タイプⅠ・Ⅱの葬法と同時に存在した。

タイプⅣ.埋葬→再葬

・崖葬墓からは稀に、土壙墓や石棺墓が確認される。オープンサイト(開地遺跡:丘陵・台地上につくられた遺跡)の遺跡で一般的に確認される。「風葬と埋葬の思想がミックスされて崖葬墓を営むケースがあるという事例である)。

発掘によって出土した人骨の個体数を考慮するならば、オープンサイトをはるかに凌駕する被葬者が崖葬墓に葬られていることが推定される。

 ぼくたちが注目するのは次のいくつかのことだ。

 「ⅰ.再葬・集骨」において、「頭骨を意識的に集中させたものや、四肢骨等の長骨を壁に添ってまとめたものなどがあり、再葬への様々な意図的な行為があったことを読み取ることができる」とされていることについて。このうち前者は、「埋められない埋葬」をひとつの動機にしていると思える。「ⅲ.頭骨(部分骨)再葬」もそうだ。

 また、ぼくは洗骨した骨を洞穴に安置するとして、風葬自体でどこで行なわれていたのか鮮明に思い描けなかったが、「崖葬墓では一次葬から再葬・集骨まで同一墓(岩陰・洞穴)で行っていたと推定できる」とあり、やはり洞穴で行なっていたと見なしてよさそうだ。

 少なくとも定着期以降、風葬が広く行なわれたことは確認できるが、同時に霊力思考の産物である「埋葬→再葬」も存在していたことが確認できる。片桐の整理は、ぼくたちの見立てを裏づけてくれるものだ。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』


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2015/03/14

『南嶋入墨考』(小原一夫)

 小原一夫は、琉球弧の女性が両手の甲に施した入墨について、その意味を探っている(『南嶋入墨考』)。


Amamu


 小原はまず、右手に描かれる茎上突起道文様の「+」、「×」(上図1~12)について、柳田國男の「阿也都古考」を引いて、「火の神の保護のしるし」であることから魔除けを意味すると捉えている。また、「+」、「×」は全島を通じて手指背第一関節部にも描かれている。

 では、右手の茎上突起道文様は何か(上図13~23)。

 13:沖縄島
 14:奄美大島
 15:八重山
 16:与論島
 17:与那国島
 18:喜界島
 19:喜界島
 20:沖永良部島
 21:沖永良部島
 22:奄美大島
 23:奄美大島

 小原はこれらが同一のモチーフに基づき、「「アマム」の意味する「ヤドカリ」をシンボライズしたのではあるまいか」と考えている。

 老婆たちは、その背に巻貝を負った「ヤドカリ」の文様をなでながら、この「ヤドカリ」から、われわれは産れてきたもので、これは我々の先祖のしるしであると語った(後略)。

 これはもうその通りだと思う。ニ十世紀になっても、トーテム的感覚を証言として聴けたのも貴重なことだ。われらアマムの子、なのだ。

 入墨について歌われた歌詞も、小原は採録している。

 夫欲しさもひととき/妻欲しさもひととき/彩入墨欲しさは/命かぎり(沖永良部島)

 銭はあっても/あの世まで持っては行けぬ/わたしの手にある入墨は/あの世までも(糸満)

 入墨が、現世と他界に連綿とするものと考えられているのが分かる。

 民話では、大和の人が若い女をもらいにくるという時に、彼らの嫌いな入墨を入れて難を逃れたという由来譚が語られたりしている。これは近代になれば、大和へ行けない足かせとして嘆かれることになるが、入墨が琉球弧の証としてどっしり腰を据えた時代があったのだ。

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2015/03/13

生と死の分離としての死穢の発生

 イザナギがイザナミを追って、黄泉の国に出入りした「じぶんはたいへん醜悪なけがれた国に行っていたものだ。だから身体の禊をしよう」と称したことについて、吉本隆明は書いている。

もしも、最初の〈父神〉がおこなう清祓が、人間のあらゆる対他的な関係にたいするプリミティブな清祓であるとすれば、この挿話が表現しているものは、未開人が〈法〉と〈宗教〉の根源は〈醜悪な戯れ〉そのものであるとかんがえたということである。いいかえれば、あらゆる対他的な関係がはじまるやいなや、人間は〈醜悪な戯れ〉を〈法〉または〈宗教〉として疎外する。(中略)。

 人間のあらゆる共同性が、家族の〈性〉的な共同性から社会の共同性まですべて〈醜悪な戯れ〉だと考えられたとしたら、未開の種族にとって、それは〈自然〉から離れたという畏怖に発祥している。人間は〈自然〉の部分であるのに対他的な関係にはいりこんでしか生存が保てない。これを識ったとき、かれらはまず〈醜悪な戯れ〉をプリミティブな〈共同幻想〉として天上にあずけた。かれらはそれを生活の具体的な場面からきりはなし、さいしょの〈法〉的な共同規範としてかれらの幻想を束縛させた。そうすることでいわば逆に〈自由〉な現実の行為の保証をえようとしたのである。(「規範論」『共同幻想論』

 ぼくたちは、死が穢れになるのは、霊魂思考が霊力思考に対して優位になる地点からではないかと考えてきた。死体ですら聖なるものとして扱った霊力思考からは、身体に対する感じ方が反転しているからだ。少なくとも、霊力思考に対して霊魂思考が関与した結果、この反転は起こっている。吉本の言い方でいえば、「あらゆる対他的な関係がはじまるやいなや」ということだ。対他的な関係とは、まさに霊魂思考が行なうことに他ならない。

 イザナギは黄泉の国から逃げだすと、黄泉の国を石でふさぐ。ここに他界が空間性を獲得した契機を見ることができる。死は生の移行だった段階から、生と死が分離し、他界が時間性としてだけでなく、空間性を獲得したことを意味している。そしてそれが、死を穢れと見なすときと同期しているのを見ることができる。

 この生と死の分離を、ぼくたちは原始農耕の開始時点だと捉えている。この時点には、再生信仰の崩壊過程、女性の殺害による植物再生という人間と自然との関係の人工化、霊魂と身体の二重化による自己幻想の分離という契機も内包しているはずだと思える。


『共同幻想論』(吉本隆明)

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2015/03/12

弱められた再生信仰

 再生信仰が弱まり、子や孫、兄弟のなかに入るという形は霊魂思考の影響を感じる。この場合、葬法も埋葬になっているのではないかという仮説から、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』の事例を追ってみると、果たしてそうだった。浅い埋葬あるいは埋めない埋葬という葬法と言ってよいと思う。


事例1.ユーアライ族

[再生]
・成年式を経ずして死んだ子供は再生すると信ぜられるが、再生は実母を通じても、他の女を通じても行われる。実母を通じて生まれたと信ぜられる子供をmillanboo(再び同じの意)という。老婦と結婚した年少の青年は、再生前に好きだったものだとも説明される。

[葬法]
・墓穴に樹皮、聖樹の葉を敷く。樹皮につつんだ死体を置く。土をかぶせる。


事例2.ウォンガ・ムラ族

[再生]
・死者の霊魂はやや離れたところにいて、兄弟に会い、その中に入り、兄弟が死ぬまでその中に住む。兄弟が死ぬ頃には忘れられてしまう

[葬法]
・埋葬だが、土でふさがず、木の枝をかけておくのみ


事例3.ウォンガ・マズ族

[再生]
・死霊は寡婦、兄弟または父の胸に住むけれど、しかも、ある土人によれば、それは叢林を彷徨し、最後には大きな洞穴に行き、さらに再生するという者もいる。

[葬法]
・埋葬。参列者はは墓側の湿土を身体に塗り、墓穴をふさぐ。


事例4.アルリッヤ族、マズダラ族

[再生]
・死霊wangaは叢に住む見えざる黒人である。Wangaは友人を助けると考えられる。しかし、再生の観念もあり。精霊児の夢で再生するという

・死霊は北方の島に行き、数ヶ月の後、黒雲とともに帰来して、息子、特に孫に入り、その生長を助成する。再び離れて死者の島に行き、離れたことを悲しむ。死者の西方に行き、しなの木の所に来て、これを回って眺めていると西方から雷雲が出て来て、この木に落雷し次いで霊魂が打たれ、降雨で木の根元に流れ、終わる。

[葬法]
・埋葬。墓穴を掘り、死体を墓の中に置き、草とアカシヤの枝で覆う。若干時が経ってから、砂と土で墓をふさぐ。

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2015/03/11

霊力思考と霊魂思考からみた時代区分

 宇田亮一の整理を参照しながら、時代区分について、もう少し考えてみたい(cf.「共同幻想としての霊魂」)。

[原始未開](10万年前~6000年前)

・共同幻想・対幻想・個人幻想が未分化な状態から分化する
・霊力思考が優位

[前古代](6000年前~3000年前)

・共同幻想・対幻想・個人幻想が分離する
・霊魂概念の発生と身体と霊魂の二重化
・他界の発生
・高神と来訪神
・霊力思考と霊魂思考の混融

[古代](3000年前~1300年前)

・共同幻想そのものが分化・分離する
・他界の遠隔化
・霊魂思考の優位


『吉本隆明『共同幻想論』の読み方』


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2015/03/10

「頭蓋骨」の二重性

 頭蓋骨の意味を持つコルワルは、それを象徴として、死者・祖霊像をコルワル像と呼んだ。小林は書いている。

ヌムファー島の説話では、最初のココナツヤシが女性の頭蓋骨から芽生えたことを語っている(死体化粧説話)。頭蓋骨とココナツは同じ呼び名リウリ(rewuri)である。頭蓋骨はココナツの油で磨かれた。ワンダメン湾地方やルーン(Roon)島では座して姿勢で埋葬されたり、カヌー型の棺に入れて晒された。いずれも遺体から頭蓋骨と脊椎骨と胸骨を持ち帰り、洗骨して喪の期間中遺族が首まわりに着用していた。その後は呪術具(占いなどの用具)として用いられたという。(中略)。

 剥落すべきものを剥落させ、最後に残るのが骨である。この清浄な白骨は腐らないし、変化しない。半永久的に残すこともできる。遺体時に頭部が白骨化する時は、死者が生者の住むこの世(現世)を離れ、あの世つまり祖霊の国:他界に去る時でもあった。多くの民族において頭は他の身体に比較して特別に扱われていた。頭蓋骨が崇拝され祭祀の対象とされたのは、頭が精神の座位としてではなく、生命生殖霊が勧請され宿る所として、豊饒や復活の呪力を具えていたとみなされていたからである。例えば、埋葬に際して復活(再生)祈願の頭蓋骨崇拝が行われ、作物の豊饒や狩猟の成功を願って首狩りが行なわれた。

 葬法には台上葬も採られ、頭蓋骨以外の骨も使われ、呪術具になるなどの点で、北西ニューギニアでは霊力思考がまだ強かったことが示されている。その霊力からいえば、頭蓋骨は霊力の座だった。しかし、ここでも霊魂思考は進展している。そもそも霊力が宿るのは腐る身体そのものである。そのことをよく示しているのは、再生が手続きではなく、祈願になっていることだ。この段階では、頭蓋骨は霊力と霊魂の二重性を背負っていると思える。

 再生の手続きに尊重されるのは橈骨などだったが、霊魂思考の進展とともに再生は祈願となり、重視されるのは頭蓋骨になる。この転換には、ココヤシという有用植物との同一視や霊魂の座としての見なしが関わっているようにみえる。


『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』


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2015/03/09

『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』

 『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』の著者、小林眞は、ぼくの父と生年が同じだが、友よ、と呼びたくなるくらい、この本はモチーフが近しかった。あとがきで、滅多に引用されるのを見たことのない棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』を熟読したとあるにも親近感を覚えた。

 この本は、棚瀬の本では意外に手薄なパプアニューギニアの事例がふんだんに盛り込まれていて、『他界観念の原始形態』を補ってくれるものであり、また、「イメージの力」展の仮面や彫像のつくり手の種族の背景についても補完してくれる。ぼくにとっては願ってもない書物だ。

 最大の収穫は、霊魂思考が進展したところで行なわれる頭蓋崇拝について、その頭蓋骨から高神と来訪神への通路が開けそうに感じられることだ。

 小林が探求しているのは、北西ニューギニアのコルワル像だ。コルワルとは、北西ニューギニアにおいて、死者・祖先の頭蓋骨そのものの呼称であり、それが肖像彫刻の意味にもなっている。肖像彫刻は本来、死者本人の頭蓋骨が据えられたが、身体と同様に木でつくられていくようになる。

 コルワル像の機能のひとつとして、小林は「氏神化」を挙げている。

 氏神化した祖先(霊)像。村や氏族の始祖や偉大な英雄・戦士を表した祖先像で、村落共同体単位で長い間祀られ祈願されてきた。村や氏族の行事については、呪術師モンを通して託宣を求められた。社会的規範への違反には厳しい罰をくだす神のような怖い存在でもあった。(p.111)

 呪術師を通じて、託宣や罰則を加える祖先像は、高神の一歩手前のものだと見なせる。この祖先像が、カミ化すれば、それが高神だ。

 では、来訪神はどうか。仮面に関わる事例を見てみよう。

 事例1.セピック河中流域のサウォス族、イアトムル族。死者儀礼や成人儀礼で、人態的支え棒の先端に頭蓋骨を取りつけ、衝立などに身を隠した男が操作していた。

 事例2.セピック河中流域のイエンチェン村。樹皮製平面人形の頭部に頭蓋骨を設置。死者儀礼や成人儀礼で、年配者たちが、遮蔽ボードの内側に隠れて、この人形を操作して死霊の踊りを演出する。

 事例3.セピック地方。村の有力者の死後、行なわれる死者儀礼ミンジャンゴ・バング。掘り起こされ、洗骨した頭蓋骨に、添加・化粧を施し、生前の容貌を再現する。それを植物戦士房着用の等身大立体像に設置する。生前の勇姿を彷彿とさせる死者の再現。精霊堂ハウスタンバランの周りか死者の家で、囲いをつくり、内部にある棚に死者像を載せる。そして棚を揺らして死者を踊らせる。死者儀礼が済むと、添加・化粧頭蓋骨は保存される。

 事例4.セピック河中流域のイアトムル族。篭型全身被り仮面アヴァン。上下二つある顔のうち上部の顔面が、身内故人の添加・化粧頭蓋骨。被り仮面は、氏族や村の創始者が登場する死者儀礼や成人儀礼および豊作祈願の儀礼などの舞台で、秘密結社の長老、幹部たちによって着用され踊られていた。

 なんとアヴァンの上仮面はそうだったのか。

Avan_2

 事例5.ニューブリテン島、トーライ族、バイニング族。頭蓋骨の後方の半分を切り落とし、その前方だけを用いて、肉付け・彩色し、さらに象徴を施した添加・化粧頭蓋骨の仮面を作っていた。死者儀礼用と成人儀礼用とがある。

 事例6.ニューブリテン島、トーライ族。添加・化粧頭蓋骨仮面が木製塗彩の人態像の頭部に据えつけられた死者像があった。霊魂が宿った身内の踊る死者像で有力者の死者そのものを体現した姿。
 
 事例7.ニューアイルランド島。筒型の木彫りの像の上端に木釘の突起があり、死者そのものの肖像首が据えられている。ウリ儀礼(女性の生殖力を祀る)と雨乞いの呪術に用いられていた。

 事例8.ニューアイルランド島。太陽と死者のマランガン儀礼と雨乞いのための呪術で用いられた。頭部に添加化粧を頭蓋骨化粧仮面を据えたウリ像。

 事例9.ニューアイルランド島。死者の記念祭、マランガン儀礼と雨乞いのための呪術で用いられた。頭部に添加化粧を頭蓋骨化粧仮面を据えたウリ像(身体は木彫り)。

 事例10.サンタクルーズ諸島(ニューヘブリディス諸島)。粘土・樹脂で肉付けし、鼻や耳を取りつけた添加・化粧頭蓋骨を据えた粗製の人形。死者の儀礼に出演し、故人そのものの里帰りを顕わしている。

 事例11.マレクラ島(ニューヘブリディス諸島)。首長や有力者など高い階級の者が亡くなった時に限り、最も手の込んだつくりの添加・化粧頭蓋骨を人工のマネキン人形の頭部に取りつけた。ランバランブと呼ぶ死者記念像。死後六カ月後に催される喪明けの儀礼に至る死者の儀礼ネヴィンビュールの約十夜にわたって、男がこの像ランバランブを抱えてダンスをさせる。はじめて作られた時のことを語る説話では、「もの言わぬ似姿」と語られている。

 事例12.トラジャ族(インドネシア)。二次葬(死者記念祭)において、遺骨を改めて洗骨し、蓆フヤで縛り束ねて、村の儀礼小屋ボロに持ち込む。ロボ内に並べられ、死者の仮面ペミアに取りつける。遺族たちは、遺骨に取りつけたペミアの仮面を亡き人そのものとみなして、夜ごと頬ずり、愛撫して名残りを惜しむ。

 事例13.カロ・バタック、シマルンガン(スマトラ島)。埋葬儀礼時に仮面踊りを行なっていた。頭からすっぽり被る木製仮面で、頭・顔面を覆い、下方はワンピースまたはツーピースの簡単な布の着衣で全身を覆った仮面ダンサー。仮面踊りは収穫祭の時にも行なわれる。「この場合被り仮面の古いタイプが頭蓋骨であったとする可能性は高い」。

 これを、頭蓋骨の用いられ方と儀礼場面を軸に整理してみる。

 A:木彫りの人形などに頭蓋骨等を取りつける
 B:頭蓋骨をもとにした仮面を人が被る
 C:頭蓋骨を用いない

Photo_2

 これを見ると、仮面は、死者儀礼時に、頭蓋骨を棒や人形につけて揺らしたり、動かしたりすることが初源にあったことが分かる。それが、頭蓋骨をもとにした仮面をつける(事例4.イアトムル族)を間に置いて、頭蓋骨を使わない仮面(事例13.スマトラ島)へと変容していく。また、そうなるにつて、豊饒儀礼の要素を持つようになっている。

 小林は、「仮面の起源が頭蓋骨に由来しているとする説は妥当」としているが、そのように受け止めることができる。より本質的にいえば、頭蓋骨と霊魂が二重化されたときだ。あとは、死者が、トーテムとして表象できたものから、人の祖先としてしか表象できなくなる幅が存在することになる。

 南太平洋では、来訪神は見つかるが、高神が見つからないと言われる。イェンゼンも、高神の不在に驚いていた。しかし、パプアニューギニアを中心としてコルワル像の事例からは、その手前の状態にあることが分かる。来訪神は具体的な死者像であり、高神は抽象的な死者像という面を持っている。


『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』


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2015/03/08

[改] 琉球弧葬法の6類型

 考えを改めたことがあるので、琉球弧の葬法の類型を更新したい(cf.「琉球弧葬法の6類型」)。

 更新するポイントは二点。

・定着以前には、「埋める」ことはなかったと仮定。
・定着以前の「埋めない」場合にも、改葬はありえたので訂正。

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 たとえば、与論島の洗骨は、埋める→改葬のプロセスを経るので、類型6に該当する。しかしこれは明治の強制に依るものなので、それ以前は類型4に当たる。

 しかし、洗骨では頭蓋が重視されている。これは、類型6の観念に見られる態度だ。ここに、埋めない風葬と埋められない埋葬との二重性があると考えられる(cf.「埋められない埋葬」)。


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2015/03/07

『弥生再葬墓と社会』

 設楽博己の『弥生再葬墓と社会』は、とても面白いのだが、時代区分を把握するのにとても苦労するので、下に表を上げておく。

Photo_10


 第7章以降を見ていく。

 第1節 祖先祭祀および通過儀礼としての再葬

 1.祖先祭祀としての多人数集骨葬

 堀之内Ⅰ式期までの初期の多人数集骨葬の人骨には性や年齢に偏りがない。廃屋墓を起源に成立した可能性。縄文晩期では性別に著しい偏りをみる場合がある。

 多人数集骨墓。「一つの集落で墓所を異にしていた出自の異なる二つの集団の子孫が、生活に弊害をもたらす排他的な関係を撤廃するための記念碑としてつくりあげられた」。それは集落の中心に位置するので、環状集落を形づくったのはいわば集団の始祖(渡辺新)。

 加曾利EⅢ式期に大型集落は終焉を迎え、加曾利EⅣ式期~称名寺式期に小規模集落が形成(関東地方)。多人数集骨墓は、「小規模集落が集まって大型の集落を開設したときに祖先の骨を持ち寄ってつくったモニュメント」。「祖先崇拝」のあらわれ(山田康弘)。

 先葬者とその後の埋葬を行った人々のつながりが。「集団の始祖、祖霊といった形で捉えられていた可能性」がある(林謙作)。

 多人数集骨墓が、「祖先祭祀のための記念碑的施設であるという基本的な理解は揺るがないだろう(設楽博己)。

 田端遺跡の環状積石遺構(加曾利B1式期~安行3c式期)。死霊や祖霊に対する「宗教的意識」がある(戸田哲也)。

 出自別墓制から出自・世帯別墓制への移行。このような集団内部の分節化傾向としての世帯の相対的な自立化を抑制する機能として、血縁的系譜関係の確認が強化され、祖先祭祀が発展した。

 中期後半以降の環状集落の住居は、内側に向かって居住スペースを狭めるように形成されていくが、これは廃屋墓を祖先として意識した結果、重複を慎んで外側に拡張しなかった結果ではないか(高橋龍三郎)。

 再葬は縄文後期中葉以降に衰退するが、再び顕著になるのは縄文後期後半~晩期前半。

 再葬の目的。死者を含む集落構成員の社会関係の再構築。その表現方法のひとつが合葬。死亡時に時間差のある遺体や遺骨を合葬するため必然的に再葬の形態を取った。

 再葬1.多人数集骨葬や焼人骨葬のように祖先祭祀の中核施設としての再葬。
 再葬2.少人数集骨葬や土器再葬のように生前の血縁的なつながりを再確認するための再葬。

 関東地方の場合。合葬された人々の関係性は「縄文後期初頭~前半が婚入者を含む世帯構成員であり、後期前半~中葉になるとそれが血縁関係にもとづく出自集団へと変化していったことがうかがえる」。


 2.祖先祭祀の発達と再葬-集団統合の文化装置

 縄文中期終末には大規模集落は解体し、小規模集落に変貌する。一方で、大規模な環状列石が出現してくる。これが墓地であることは共通の認識になっている。これはひとつの集落の墓地というより、共同墓地の可能性がある。

縄文中期後半に集中して居住していた集団が、気候の寒冷化をきっかけとして縄文後期になると分散居住するようになり、それが晩期にも引き継がれた。

 分節化した世帯群の同族的結合はその後も維持されていた。共同の居住域は消えたものの、環状列石のような祭祀施設は維持された。分散化集落の結集の原点は墓地だった。

 縄文中期末から後期初頭にかけて石棒が著しく増加する。これは多人数集骨葬の出現と一致している。一方、土偶は縄文中期中葉にピークを迎える。縄文後~晩期には生業に占める狩猟の比率が増大する。

 設楽は、石棒と父系社会を結びつけた上で、「縄文時代の再葬の発達は、父系を基盤にした祖先祭祀の高揚を背景としたと考えたい」としている。

 縄文晩期から弥生時代前半にかけて、日本列島中央部で再葬は再び発達する。

縄文中期末~後期前半に発達した多人数集落は祖先祭祀のシンボルとしての機能が高いので、そうした機能は縄文晩期以降、弥生再葬の焼人骨葬や多人数集骨葬に引き継がれたと考えられる。また、縄文時代の再葬を特徴づける集団統合としての多人数集骨葬と、血縁紐帯の確認としての合葬という二重の意味もまた、弥生再葬墓においては焼人骨葬などの多人数集骨葬と、構成員の合葬である土器再葬の二重性に引き継がれた。

 「弥生再葬墓の性格は、血縁紐帯にもとづく同族意識を確認するための祖先祭祀の場である、との理解がもっとも適切」である。弥生再葬制を構成する要素の系譜の多くが、縄文晩期の文化に求められる。


 設楽は、この後、民族誌、民俗学的事例を参照していく。参照先は、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』と琉球弧の複葬だ。ぼくたちにとってはこれはお馴染みなので、ここで一端、引用を止める。また、記述が複雑なので、今のぼくの手に負えない。そこで、太い仮説線を引いておいて、迂回することにする。

 仮説化のためにここで注目するのは、再葬が、縄文後期に衰退し、縄文後期後半~晩期前半に再び顕著になる。そして晩期のそれは弥生時代前半に連なっていることだ。

 ぼくはこの二つの再葬は思考が違っていたと仮定しておきたい。前者の再葬は、まだ霊力思考が残っており、後者の再葬は霊魂思考によるものだとみなす。

 定着、あるいは原始農耕(食物栽培)霊魂思考を発生させた。しかし、環状集落においては、霊魂思考は初期のものであり、霊力思考も旺盛に残っている。人間は再生するという観念もあった。再葬は、そのための儀礼だった。再生信仰の衰退とともに、再葬も行われなくなる。この間、霊魂思考が発達する。再び再葬が行われるようになったとき、それは死者が祖霊となり、生者を守護するという思考に変貌していた。それが、弥生再葬まで続く理由に当たる。

『弥生再葬墓と社会』

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2015/03/06

樹上葬・台上葬の思考

 マリノフスキーは『未開人の性生活』のなかで、初妊娠の儀式を観察している。

 妊娠の沐浴は彼らが通常身体を洗う水源、または海岸で行なう。波打ち際にくると、女たちは互いに向かい合って二列に並び、交叉的に手を握る。妊婦は、女たちの頭をささえにして、手の橋の上を歩く。そしてあるところまでくると、水中に飛び込む。そして女たちは彼女に水をかけたり、彼女の頭を沈めたりして、できるだけ濡らす。女たち曰く。「私達は彼女の皮膚を私らの手でこすり、彼女の表面をこすって清潔にしてやる」。

 十分に水に浸され、身体を洗いおわると、彼女を海岸につれてきてマットの上におく。この瞬間から彼女は完全に大地から離れていなければならず、自分の足で地麺にふれてはならない。

 沐浴の後、皮膚をかわかされスカートをはき、身体装飾を、逐一呪文をかけながら施される。この間、彼女はマットの上に立ったままでいなければならない。そして父の親族が彼女を持ち上げ、父の家まで運び、そこに建てた小さな台の上におろす。彼女はその日ののこりをこの台の上で過ごさねばならない。飲食物を要求する以外には口をきいてはならず、食べ物に触れてもならず、父の親族から口に入れてもらう。日が沈むと彼女は父の家に引きこもることを許されるが、翌日にはふたたび高台にあがって坐り、前日と同じタブーを繰り返し、これが三日から四日、続く。

 本には、「台の上に置かれた妊婦」の写真が載っているのだが、これはまるで台上葬である。妊婦がしゃべってはならず、食べ物も自分で口に運ぶことができないのは、死者と同じ状態だ。現に、トロブリアンド諸島では、服喪の際、夫を亡くした妻は、長い間、引きこもっていなければならず、その間、大声で話してはならず、食べ物に触れてはならず、食べ物を自分で口に運んでもいけない。排泄物さえ、他人が外へ出してもらわなければならない。この場合の服喪とは、擬似的に死者と同様の在り方をすることを示すものだと思えるが、服喪と妊婦の儀礼は同型をなしている。

 台の上に置かれる妊婦は、かつてトロブリアンドが台上葬を行なっていたことを示唆するものではないだろうか。ここで、注目したいのは、儀礼の過程は、妊婦が「大地から離れていなければならない」とされていることだ。思うに、これが台上葬や樹上葬の根本にある思考なのではないだろうか。

 なぜ、出産が死と「同じ」になるのか。それはトロブリアンドでは、死は生の移行だが、同時にひとつながりでもあって、人間は再生する。だから、死と同じ形式を取るのは忌まわしいことではなく、生と死の円環のつなぎ目として同じであることを意味している。

 樹上葬や台上葬について、なぜ、台の上や樹の上なのかを説明した文章に、ぼくはまだ出合ったことがない。北方アジアのシャーマンが樹上葬をすることについて、天の他界との関係で説明されたものを読んだことはある。しかし、葬法の思考はある条件下では、人類に共通すると仮定すると、シャーマンの樹上葬は天界信仰より古いと考えられる。そうであるなら、樹上葬を天界と結びつけるのは原型を示していない。また、オーストラリアの樹上葬などで、死汁を浴びることがなされるが、その便宜のための樹上ということも思いつくが、実用性が根本の思考にあるとも思えない。大事なのは、大地から離れるということ、なのではないだろうか。

 ここには大地母神の考えはない。大地から離れたところに生と死の円環は描かれたということではないだろうか。トロブリアンドでは、すでに霊魂思考が強度を持ち、葬法も埋葬になっている。しかし、再生信仰は失われておらず、霊力思考も強い。そのことが、この妊婦儀礼にはよく示されているように思える。いわば、妊娠の儀礼によって、台の上の思考を語っているのだ。
 
 cf.『未開人の性生活』

『未開人の性生活』


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2015/03/05

『生と死の考古学』

 『生と死の考古学』(山田康弘)から確認できることをメモしておく。

 縄文時代における人骨出土例の埋葬形態の多くは、単独・単葬。埋葬姿勢は地域差あり。

・北海道北部 強屈
・東北 膝屈
・関東 伸展化
・東海 二分化
・中四国 膝屈
・九州 二分化

 山田は別のところで(「縄文時代の葬制」)、各関節の屈曲度合からみた場合、全国的には時期が新しくなるほど伸展化していく傾向がみられるとしている。これは他界か地上化する度合いに対応しているのかもしれない。

 「多数合葬・複葬」は、縄文後期初頭の堀之内式期の前後、死亡時期の異なる人骨を掘り出すなどして持ちより、一時に一つの土壙に埋葬したものだとしている。

異なる系譜的関係にある家族集団が、複数集合し、至近距離において共同生活を始めたときに生じる社会的な緊張を解消するための手段として執り行われた葬送儀礼である。

 ぼくは、こうした複葬のあることを初めて知った。集落を変えるという理由でも掘り起こしたということは、他界は遠くにはなっておらず、また、骨は他界の根拠になっていた。言い換えれば、このときには再生信仰は稀薄になっていたかもしれない。

 山田は石棒について面白いことを書いている。

石棒のなかには、鬼頭部に意図的な摩擦や敲打を加えた痕跡が残っていたりするものがある。これなどは、儀礼のなかで擬似的な性行為を演出した証拠ととらえることも可能であろう。また、勃起したままでは擬似的な射精が行われたことにはならない。射精後には勃起状態は解除されなければならない。縄文時代の石棒の多くは意図的に破壊された痕跡をもつが、これは擬似的な射精、性行為を完了させる上で必要不可欠な行為だったのではないだろうか。

 これは鈴木素行の論考と合わせると、リアリティがさらに増すように思える(cf.「屋内祭祀と石棒」)。


『生と死の考古学―縄文時代の死生観』

『死と弔い―葬制 (縄文時代の考古学)』

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2015/03/04

「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」

 高宮広土と新里貴之による「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」(2013年)。

 琉球列島のふたつの稀な特徴。

 1.島嶼環境下で、狩猟採集民が長期間継続した地域はかなり珍しい。
 2.狩猟採集のバンド社会から国家の成立までの社会組織の変遷があったこと。世界のほとんどの島は農耕民いよって植民されたので、それらの島々では狩猟採集のバンド社会は存在しなかった。狩猟採集民のいた島でも首長社会が存在したことが知られるが、これらの島では国家は形成されなかった。

◇貝塚時代(7、8000年前~1000年前)

・脊椎動物利用、主なタンパク源
 前Ⅰ期(7,8000年前~5,6000年前) リュウキュウイノシシが主
 前Ⅲ期(5000年前~4000年前) ハリセンボン科など、内湾性の魚類へと変遷
 前Ⅳ期(4000年前)以降 サンゴ礁の魚類

・貝塚時代には農耕はなかったことが明らかになりつつある。
・最古の栽培植物は、9~10世紀想定(那崎原遺跡)。明確なのは、11~12世紀。
・植物遺体は、堅果類などの野生植物のみであり、栽培植物は含まれていなかった。

1.貝塚時代前Ⅰ期~Ⅲ期(縄文時代早期末~後期初頭)

・前Ⅰ期 砂丘または洞穴・岩陰を中心として遺跡が形成
・前Ⅱ・Ⅲ期になるにつれ、台地上の遺跡も増加し、遺跡立地のバリエーションが増加する。
・前Ⅱ期には、九州を起源とする曾畑式土器が琉球列島に南下し定着。
・貝塚時代前Ⅰ~Ⅲ期にかけて、住居跡や集団墓地は確認されておらず、比較的遊動的な社会であったと考えられる。

2.貝塚時代前Ⅲ期末~前Ⅳ期(縄文時代後期中葉~弥生時代前期)

・貝塚時代前Ⅲ期末~前Ⅳ期初頭には、直径約3m前後の円形・楕円形・不定形の竪穴住居跡が、数基散在する傾向にあるものが多い。
・前Ⅴ期には、一遺跡における住居跡数が急増する。
・前Ⅴ期末には、竪穴を補強するような石囲いや石囲い炉も出現する。
・前Ⅳ期の住居跡の長さは平均5m以下であるのに対して、前Ⅴ期になると5m以上の住居跡もみられるようになる。
・前Ⅴ期の遺跡が高地性集落的で、何らかの緊張状態を示しているようにも考えられる。
・前Ⅳ期から、集団墓地(岩陰墓や砂丘墓)が確認される。土抗墓、配石墓、石囲墓、覆石墓、土器棺墓など、層墓制が多様化するとともに、副葬品や装身具に貝を用いることが多い。

・漁撈採集民にもかかわらず、定住化が前Ⅲ期末から生じた。
・前Ⅳ期末までの社会組織はバンド的な社会であったと考えられる。
・前Ⅴ期末には石囲住居跡や石棺墓の一部に、労働投下量の違いから、前Ⅳ期以前の状況とは差異があったことは確か。
・交流によって多種多様な外来品がもたらされ、土器形態を変化させ、住居形態や石棺墓の導入というような文化変容、集落機能の分化も確認される。

 前Ⅴ期末の住居例として挙げられているウフタ川遺跡(大島龍郷町)は、上野原遺跡の公園で復元されたものを見たことがある。石囲いや石積みの竪穴住居で、石組みの炉を持つ母屋と倉庫がある。壁材は珊瑚が用いられている。

 住居の規模は前に比べて大きくなっていると解説されているが、ぼくたちの現在の住居感覚と比べてはいけない。身をかがめなければ入れない出入り口と、狭い内部空間で、雨露をしのぐほどしかできなかったのではないかと感じられた。

Uhuta

3.貝塚時代後期前半(弥生時代中期~古墳時代)

・遺跡は交易に対応するように、沿岸部に立地
・柱穴が散在する小規模集落と竪穴住居跡と柱穴が無数に切り合い、混在する集住的な大規模集落が見られる。
・「貝の道」と呼ばれる南海産貝交易が活発化

4.貝塚時代後期後半(古墳時代終末~平安時代)

・遺跡は砂丘や丘陵上に立地
・竪穴住居跡が不明瞭になり、堀立柱建物跡が主体となる。
・ヤコウガイ交易


・前Ⅴ期の遺跡立地について、巨大津波の発生による高地への集落移動を考える仮説もある。また、人口の増加による環境の悪化や集団間の緊張から、高地性集落が形成された可能性もある。

 この論考で最も印象づけられるのは、琉球弧において、農耕の開始を明確に言えるのは11世紀になってからで、「貝塚時代には農耕はなかったことが明らかになりつつある」ということだ。

 もしこれが本当だとして符号するのは、琉球弧において、死体から有用植物が生えるハイヌウェレ型の神話(cf.「ハイヌウェレ神話とマヨ祭儀」)が稀薄なことだ。煙草の起こりを示す民話はあるが、死体の女性はバラバラにされず殺害もされない。また煙草が琉球弧に流入したのは、15~17世紀とずっと後になってのことだ。また、他の民話でもサムレー(武士)が登場するように、明らかに変形を加えられている。仮に、農耕の開始がグスク時代になってからだとしたら、ハイヌウェレ型の神話が、こうした弱められ変形されたものしかなくても不思議ではない。


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2015/03/03

「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」(伊藤慎二)

 伊藤慎二の「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?:琉球縄文文化の断続問題」。琉球弧の精神の考古学をしていく上で、大事な補助線を引いてくれそうだ。

 1.遊動期

・琉球縄文時代前Ⅰ期~前Ⅱ期(縄文時代早期末葉~中期中葉に併行)
・沿岸に近い遺跡がやや目立つが、内陸の洞窟から海辺の低地まで多様な土地環境に小さな遺跡が点在する。
・住居址は未確認で、集石遺構や炉跡の検出例が少し存在する程度で、恒常的な集落景観はまだ不鮮明。
・資源獲得の適地間を随時移動し粗放的に利用する生活が推測できる。

 2.定着期

・琉球縄文時代前Ⅲ期~前Ⅴ期(縄文時代中期後葉~晩期頃に併行)
・遺跡は、主に台地縁辺とその直下、および内陸寄りの砂丘など、土地環境の利用が集約化する傾向がある。
・内陸部での食物物資食料獲得を基盤に、沿岸漁撈など各種の生業を体系化した状況が推察できる。
・原初的な農耕を試行していた可能性も考慮される
・2~3軒の住居址を伴う遺跡だけでなく、この時期の後半には地形に沿って帯状に群集した多数の住居址を伴う拠点的な集落遺跡も出現する。
・墓域(集団埋葬)・食糧貯蔵域・廃棄域(貝塚)など、土地空間利用の区別も次第に明確化する
・安定的な居住活動が確立する

 3.交易期

・琉球縄文時代後期(弥生時代~平安時代頃に併行)
・遺跡の種類は定着期とほぼ同じであるが、沿岸に近い砂丘上に極端に集中し、小規模遺跡が激増する。
・社会経済的要因から居住活動体系が細分化した可能性が推測できる
・列状に配列あるいは垂直方向に重畳した埋葬遺跡が定着期の終わり頃から現れ、何らかの強い社会的系譜関係の出現がうかがわれる。
・出土遺物には九州などとの交易に関わるものがしばしば含まれ、沖縄諸島のいくつかのすよう遺跡ではその交易・再分配拠点的性格も推定されている。


Hitoryukyu


 遊動期は、家を捨てる習俗の段階、定着期は、死者を屋外へ出す段階とひとまずは位置づけることができる。


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2015/03/02

屋内祭祀と石棒

 縄文時代の屋内祭祀と石棒についての論考を見てみよう。

 まず、山本暉久の「屋内祭祀の性格」。

 1.居住時点の屋内祭祀。

 1)石柱・石壇をもつ住居址

 石柱は、石棒とは異なり、人為的な加工は施されない。中期後葉期に認められる。「居住成員の祖霊を祭る役割や豊饒を祈願する祭りの対象とされたものと思われる」。

 2)埋甕-幼児埋葬から儀器へ

 埋甕は、住居の出入口に埋設された特異な施設。有力な説は、「胎盤収納あるいは幼児埋葬」。妊娠・朱さんにともなうきわめて女性的な儀礼行為の産物であったという認識は一致している。盛行したのは中期後葉期で、石柱・石壇施設の構築とほぼ同時期。

 後期初頭に屋外埋甕となるが、これは幼児埋葬が屋内から屋外へ転化し、「本来的な幼児埋葬用途から逸脱し、妊娠・再生にかかわる呪術的・祭祀的な容器・施設-場へと変質した」。

 3)石棒祭祀-炉辺部樹立石棒

 屋内埋甕と同様な軌跡を辿っている。「火との深い関わりにおいて石囲炉の一角に石棒が樹立・設置されたことは間違いないのであ」る。「石柱・石壇に石棒をほとんど転用しないことを考えると、両者の間には祭祀の違いがうかがわれる」。

 2.住居廃絶にともない屋内祭祀-廃屋儀礼

 1)吹上パターン現象と廃屋墓

 吹上パターン現象というのは、住居址覆土中から多量の完形ないし、それに近い土器群が出土する現象。「縄文時代の住居が、人為的な埋没、すなわち、「埋め戻し」という行為によって埋没された可能性」がある。

 「住居内の死者が生じ、そのままその中に埋葬して若干の土をかけ、更にその上に生前使用していた土器や石器類を盛って、他の家族は退去したのだろう」。「埋葬のため(忌避廃屋)」(大場盤雄)。

 廃絶住居内に遺体を埋葬した、いわゆる「廃屋墓」は、縄文時代の独特な墓制として知られている」。

 2)床面倒置土器-廃屋墓との関わり

 埋葬遺体の頭部に土器を倒置させて被せた「甕被葬」。

 3)石棒祭祀と廃屋儀礼

 「廃屋儀礼にともなう火入れ行為と石棒祭祀の結び付きが強い」。「住居を捨てるにあたって、家を火により浄化させる意識があったものと考えられよう」。

 4)環礫方形配石と周堤礫-縄文後期の廃屋儀礼

 住居の廃絶過程の儀礼的行為として、環礫方形配石と火入れ行為が行なわれた可能性が考えられる。

 居住時点での屋内祭祀事例に共通するのは、中期後葉・加曾利E式期に集中的に認められる。「中期終末期の柄鏡形(敷石)住居の出現とともに、屋内祭祀は変質し、廃屋儀礼と配石施設の構築に端的なように、集落構成員全体に関わる共同祭祀としての屋外祭祀主体へと変化を遂げる」。個別住居成員祭祀から共同祭祀への転化」。

 屋内での幼児埋葬や廃屋墓は古代琉球弧の習俗からも理解しやすい。屋内祭祀から共同祭祀への転化を縄文中期後葉とする視点も参考になる。ぼくたちの観点からは、これは生者が住居を去るのではなく、死者が住居を去る段階に対応させることができるだろうか。

 ところで、石棒については、鈴木素行が別のことを書いている(「石棒」)。

 石棒は、炉辺部に「樹立」と表現されるが、完形の状態の石棒は、「隔離」「埋没」「燃焼」「破砕」の状態で検出されるものがほとんどで、「樹立」を復元できる事例はない。

 「樹立」を認めず、「隔離」「埋没」「燃焼」「破砕」の状態を認めることから、大型石棒は短期の祭儀のために準備され、祭儀の終了にともない処分されたことを考える。(中略)。準備することの価値を損なわず維持しつづけるために、「隔離」「埋没」「燃焼」「破砕」が実行された。次の祭儀には、また新たな大型石棒を準備することが要求されるのである。「燃焼」は燃え上がる炎に劇的な効果が期待されることから、祭儀の装置としての役目を果たし終えたことを目撃し、大型石棒自体には「燃焼」「破砕」による廃棄の刻印が押されることになる。変色し分割された破片は、もとは大型石棒であっても非なるものとして扱われ、他の施設(たとえば、石柱-引用者)あるいは道具の材料に転用されている。

 それでは、石棒は何に使われたのか。鈴木は、婚姻の儀礼を想定している。「大型石棒の準備を、当事者の男性に課せられた婚入の道具立てとも見ておきたい。「大型石棒は、婚儀の場でのみ披露される。抱えもちながらの舞踏があったと見るのは想像にすぎるだろうか」。

祭儀は厳粛なものであったかもしれない。しかし、祭儀の場面を想像していると、大型石棒を腰に当てた偉容を褒めそやす掛け声、重さに耐え切れずによろけた姿を叱咤する掛け声、そして、掛け声に反応して沸き上がる笑い声が聞こえてくるのである。

 これは魅力的な説だと思う。住居に奥に男根を模した石棒があったと考えるより、リアリティが感じられる。


『心と信仰―宗教的観念と社会秩序 (縄文時代の考古学)』


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2015/03/01

堀一郎の山中他界、人神、来訪神論

 堀一郎の記述に、霊力思考と霊魂思考の概念を添わせてみる。

 (山中他界の-引用者)観念の発生は、山そのものの持つ崇高さや神秘さ、怪異、変化、静寂などの特色が素朴な古代人の上に働きかけて、山が一個の人格体と見做されるようになり、やがてそこから山は一個の精霊を有するものと考えられ、ついでかかる精霊観念が成長すれば、山から分離されて山の神となって行く。山中の神秘がかかる精霊の現存を人々に示唆するのであるが、それは多くの場合、死者の亡霊が山中に出没するともせられ、他方山頂は空に近く、雲霧に閉されるところからは天空や雨の神とも関連し、その峯が神々や亡霊の住所と認められて来るようになる。

 「山中他界」は、他界を持たなかった霊力思考の種族に対して、地下他界を持つ霊魂思考の種族が流入したことによって生じた、地上の他界の一種だ。本土日本の場合、地上の他界は、低地在住者にとって負荷の大きい山に託された。

 海上に水葬し、海岸洞窟などに風葬し、沖の小島に奥津棄戸を求めて来た海浜住民にとって、死者の行き住むべき国は海の彼方であり。そこからは他界としてのトコヨ(常夜、常世)が、独自の信仰を芽生えさせて来たらしいのに対して、早く内陸部に土着していた農民たちにとっては、その葬法の上からも霊魂は高きに就くを必然としていたため、やがて死霊入山の信仰を生じ、それが進んでは山そのものの機能的神霊とも習合していったものと考えられる。かくして諸国の霊山は生まれてくる。

 地上の他界の変形として、琉球弧では、海の負荷が海上他界となり、本土日本では、山の負荷が山中他界となった。別に、「霊魂は高きに就くを必然としていたため」ではないと思える。

 「神に仕える者が神の子であり、神を顕わし得る」。「神の垂迹者」から「転倒した人神は、またそのごとくに内容も転倒していくる」。

ここには神の垂迹よりは人の神化に重点がおかれ、人間にして霊異性を獲得して神たるの地位を占めたものを意味する点で、われわれにとってははなはだ重要な在り方を示す。その神異ことに猛きはアラヒトガミとも称せられ、天皇の稜威を示す語に慣用せられた時代もある(後略)」

 生き神は、身体が聖なるものであるという霊力思考の関与は大きい。それが、霊魂思考が関与しはじめ、生と死がひとつながりではなく、移行の段階に移ったところで、死者がカミとなる同時に、老人や呪術的な力を持つ者とカミと見なされるようになる。そこに「生き神」の原型はあるだろう。

(フレイザーによれば-引用者)穀霊は一般には稚き男性神として表現せられ、それが往々永遠の生殖を示すと推測される大母神、または地母神をともなって現われることがあるとせられる。

 ぼくは以前、これをトゥブアンとドゥクドゥクの仮面仮装に当てはめて考えてみようとしたことがあるが、実際は分からない。

南方の結社儀礼にあっては、明らかに死者または死霊との交媒を主たる眼目としていることは、あのニューブリテン島のDuk-duk、ブーゲンビル島のRuk-ruk結社の名が duka すなわち死者またはghostの語からでてきたことや、モタ島その他のTamate結社の名がメラネシア語のnatmat, tamtegi, テンベル島の natmate などとともに死者の意味であることからも知られ、彼らによって未加入者や婦人たちに対してなされる来訪行事にあっても、多くの島々で死者の来訪、または亡霊の再現と伝えられかつ信じられている。
同じ未開社会においても、酋長または部落長老、あるいは呪毉、雨師その他特殊な霊力をもつ人々の死後継承者によって行なわれるカンイバリズム(啖肉儀礼)の風習や、死者集団(Ghost societies)における死者象徴の心性神秘な仮面に死者の頭蓋を利用する慣例や、その末期のシャイネストック呼気を吸入する実例や、死者の床に横たわって共寝する習わしは、等しく生前その肉体に内蔵せられた霊力、統治力その他の潜在力を継承する意義を有し、それが特定の死者崇拝の一つの要素をなしていることが知られる。

 ぼくたちも、琉球弧において、死者に添い寝するところに、霊力の転位を想定しているが(cf.「添寝論 メモ」)、堀によれば、この風習はアフリカにおいて顕著だとされている。

 

『堀一郎著作集〈第7巻〉民間信仰の形態と機能』


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