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2015/02/14

離魂病(かげのわづらひ)の治療は当人の霊魂を探す

 インドネシアや東南アジアにおける、体から遊離して病気を引き起こす霊魂は、一般に非人格的な生命霊ともいうべきもので、内臓・血液・唾液・汗などに宿っており、これに生気と活動とを与える存在であり、また時には影と同一視されていて、人格性や個性はないものとされている。したがって離魂病(かげのわづらひ)の治療に際して、患者の体に招き入れる霊魂は、必ずしも失踪した当の霊魂でなくてもよい。もし本人の霊魂がみつからぬ場合は、別の人物の霊魂をさらって来てもよいし、またこれと同じ生命霊を含んでいると考えられる、米・卵・毛髪・唾液などからな取ってきてもよいのである。これらを病人の体にこすりつけ、体内の霊魂の不足を補おうとするのである。またこうした霊魂観念は、シベリアでもアメリカ・インディアンでも、ある程度同じである(松前健『古代伝承と宮廷祭祀―日本神話の周辺』)。

 この具体的を知りたくて、本書に当たったが、松前は例示はしていない。これはありえないのではないだろうか。あったとしても、少なくとも後代のものだ。

 「患者の体に招き入れる霊魂は、必ずしも失踪した当の霊魂でなくてもよい」という考えをシャーマンが聞こうものなら、がっかりするだろう。彼らは失った当の霊魂をこそ見つけ出すために、トランス状態に入り、心身の消耗をかけて探索に出かけるのだから。

 松前が言っている、「内臓・血液・唾液・汗などに宿っており、これに生気と活動とを与える存在であり、また時には影と同一視されていて、人格性や個性はない」というのは、霊魂というよりは霊力に該当している。このなかでは、「影」だけが霊魂思考に属するものだ。「内臓・血液・唾液・汗」などに宿っている生命霊は、霊力思考の系譜のうちにある。

 「米・卵・毛髪・唾液」を「病人の体にこすりつけ、体内の霊魂の不足を補おうとする」のは、まさに霊力を補おうとしているのであって、霊魂ではない。取り戻せなかった霊魂に対して、せめて霊力を補填しているにすぎない。松前はどこからこの判断を導いたのだろう。知りたいものだ。

 ところで、「離魂病」を「かげのわづらひ」と呼ぶのは味わいがある。

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