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2015/02/18

さまざまな「霊魂」

 身体の霊力は、霊魂思考が関与すると、霊魂と対で表象されるようになる。これが霊魂が複数存在するという場合のひとつの根拠だ。

 ニュージーランドのマオリ族は、その典型的なひとつで、霊魂にはワイルア(wairua)とハウ(hau)の二種類がある。ワイルア(wairua)は、「影、非実質的な像、鏡などに映る顔のごとき映像」を意味しており、hauは人間の「本質ないし生命原理」で、「元来は風を意味したようである」。棚瀬襄爾は、「風」から「気息」を意味するようになったのだろう、とフレイザーを引いている(p.401『他界観念の原始形態』)。また、棚瀬は死後、永続する霊魂がワイルアかハウかをフレイザーは明らかにしていないとしているが、「影、非実質的な像、鏡などに映る顔のごとき映像」を指すワイルアであると考えることができる。マルセル・モースが『贈与論』の基礎に据えたハウは、霊力を指している。ただ、『贈与論』を読むと、ハウの態様も霊魂化の作用を受けて、分割、交換されるものへ変形されている(cf.「マルセル・モースの『贈与論』」)。

 『アボリジニの世界』によれば、人間の霊は死ぬと三分割される。ひとつめは「トーテム霊」とも呼ぶべきもので、「身体を支える生命の源にまつわる霊」で、これは「まだ生まれていない領野」に立ち返る。ふたつめは「先祖霊」で、天空にある「死者の国」に行く。三つめは「自我霊」で、場所、親類縁者、道具や衣服との結びつきが強い。ここでいうアボリジニとは、天界を持ち再生信仰を持たず、埋葬を行なうことから、東南オーストラリアの種族だと考えられる。ぼくたちの考えでは、「トーテム霊」と著者に呼ばれているものが霊力思考によるもので、「先祖霊」と「自我霊」が霊魂思考によるものだ。「自我霊」と「先祖霊」とを、故郷にある、「振動する天空」へと送り返す(p.472)」とも書かれているので、「自我霊」と「先祖霊」は、ひとつのものとみなせるかもしれない。

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』から、ぼくたちは天界を思考した東南オーストラリア種族は、霊魂思考を優位にしていると考えてきたが、ここでは「トーテム霊」として霊力思考の存在を認めることができる。棚瀬襄爾が参照した文献の範囲では、「生命霊の観念が存在していない(p.846)」と書いているが、これは資料の不足に依ると見なしてみる。すると、「トーテム霊」が返る「まだ生まれていない領野」の観念の有無が、死穢の観念の発生を左右するかもしれないという考えが浮かぶ。

 マリノフスキーによれば、トロブリアンド諸島では、霊魂はバロマと呼ばれる(『バロマ―トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』)。バロマは、死後、地下に行く、あるいは実在の島、トゥマ島に行くとされる。そして、他界での一生を終えた時か、飽きた時に、再び人間として再生する。トロブリアンド諸島では、霊魂は、ひとつとして表象されている。身体を遊離する霊魂に霊力が被さるように二重化している。

 セリグマンの資料をもとに、棚瀬はこう書いている。

埋葬後、しばらくして、死体を発掘し、頭蓋を石灰入れとして死者の子供が使用する。これは子供のほか、寡婦の父も使用してよいらしい。村の首長の死体の場合には、父または姉妹の夫が手足や肋骨をとり、全トテム氏族員に分配する。分配された者は、これを近親の墓に埋める。死者の名は忌避されないらしい(p.316)。

 同じ点について、マリノフスキーは指摘している。

 ここで私は、ニューギニアの若干の他の部族の間に存在するような、死者のバロマと、頭蓋骨や顎骨、腕骨、膝骨、それに毛髪などの身体の遺物との結びつきが存在しないことを付記しておきたい。それらの部族の所では、遺体の各部は親族たちに持ち去られ、ライムポット、ネックレス、及びライム箆(へら)にそれぞれ使用されるのである(p.43)。

 棚瀬の記述にある父の頭蓋を子供が石灰入れとして使うというところは、実用品扱いで驚くが、マリノフスキーの記録で、それが親族の実用品にもなることにさらに驚く。ニューギニアの他の部族に見られる死者のバロマと身体との結びつきというのは、典型的には複葬語の頭蓋崇拝を指しているが、たしかにトロブリアンドでは、子供が頭蓋を使う点に結び付きはあっても、崇拝にはなっていない。ここにも、トロブリアンドのバロマにおける霊力思考の優位を見ることができる。

 吉本隆明は、フォレスト・カーターの『リトル・トリー』に出てくる「霊の心(スピリチュアル・マインド)」と「からだの心(ボディ・マインド)」について書いている。

このお祖母さんの伝習するインディアンの心観によれば、「からだの心」は肉体の死と一緒に死んでしまうが、「霊の心」はいつまでも生きつづけ、また赤ん坊を見つけて生まれ変わる。これは肉体が死ぬと「霊の心」が肉体を抜けだして転生をつづけるといったバリエーションはあっても、インディアンに特有なものというより、アジアやオセアニアにもあるから未開、原始心性に特有なものと位置づけた方がいいくらい普遍的だ。「霊のこころ」は使えば使うほど大きく強くなるというのも、「からだの心」を卑俗に使いすぎると「霊のこころ」が縮まってしまうというかんがえも、未開、原始の心性として普遍的な倫理だといっていいのかもしれない。(『心的現象論本論』

 この場合には、「霊の心(スピリチュアル・マインド)」と「からだの心(ボディ・マインド)」は、そのまま霊力と霊魂に対応していない。「からだの心」が、肉体の死と一緒に死ぬのは霊力思考だが、「からだの心」を卑俗に使うと、「霊のこころ」が縮まってしまうという場合の「からだの心」は霊魂思考、「霊のこころ」は霊力思考に当たる。同様に、「霊の心」はいつまでも生きつづける場合の「霊の心」は霊魂思考だが、赤ん坊を見つけて生まれ変わるのは霊力思考だ。「霊の心(スピリチュアル・マインド)」と「からだの心(ボディ・マインド)」は、それぞれ霊魂思考と霊力思考をいくぶんかずつ分け合っている。

 ここまでで言えるのは、「霊魂」という単位を見ても、そこでの霊魂思考と霊力思考のそれぞれの強度、編み方は異なっているということだ。霊魂思考と霊力思考が混融した場合の未開社会の霊魂の様態は、種族ごとにさまざまでありえた。琉球弧においてもまた。

『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』


『心的現象論本論』


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