トーテミズムの「変換の体系」
フレイザーはメラネシアで観察されたトーテム信仰の単純な形態に関心をもち、それらがオーストラリアの懐妊トーテミズムの起源になる原初形態であり、またそれ以外のトーテミズムはすべてその懐妊トーテミズムから派生したものだと考えた。こうした認識について、レヴィ・ストロースは書いている。
ニューヘブリデス諸島(アウロラ島)およびバンクス諸島(モタ島)には、自分の存在はある植物、ある動物、またはある物体の存在に結びつけられると考える人たちがいる。それらのものは、バクス諸島ではアタイもしくはタマニウと呼ばれ、アウロラ島ではヌヌと呼ばれる。ヌヌという語の意味は、ほぼ魂にあたる。アタイという語の意味もおそらくそうであろう。
コドリントンによれば、モタ島のある現地人は自分のタマニウを、幻視かもしくは占卜術で知ると言っている。ところがアウロラ島では、母となるべき女性が、椰子の実とかパンの木の実をなんらかの物体が子供と神秘的な関係をもつと想像し、子供はいわばそのようなもののこだまであると考えるのである。リヴァーズはモタ島でも同じ考え方を見つけ出した。そこでは、多数の住民が食物禁忌を守っているが、それはそれぞれ自分は母が妊娠中に見つけた動物や果実であると考えるからである。このような場合に女性は、その植物や果実や動物を村に持ち帰り、ことの意味を尋ねる。人びとは女に、そのものに似た子供が生れるのだとか、または子供がそのもの自体なのだとか説明してくれる。そこで彼女は、ものをもとの場所にもどし、もしそれが動物であれば石ですみかを作ってやる。そして毎日訪れて餅を与えてやるのである。動物が姿を消せば、それは動物が彼女の体内に入ったのであり、のちに子供の形をとって出てくるということになる。(『野生の思考』)
これはメラネシアにおけるトーテミズムの形態を示している。棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』では、アウロラ島について記述があり、そこでの霊魂は、霊魂思考によるものとしかみえない。記述中、唯一それらしく思えるのは、「生前耳朶に穴を穿っていない死霊は、水が飲めぬし、入れ墨をしていない死霊は、美食できないという」ところに、トーテミズムの思考を認めることができる。つまり、霊力思考だ。ここからは、記録の不足は無いとして、霊魂の形態のなかにはその痕跡が見えなくても、トーテミズムは残存していることがありうることを示している。
子供は自分と同一視される動植物を食べてはならない。この禁を犯せば、病気になったり死んだりする。食用にならぬ果実の場合には、その木に触ってもいけない。嚥下や接触は一種の自食行為と見なされる。人間と物とのこの関係は非常に緊密で、人間は物の諸特性を保有すると考えられる。子供は、同一視される動植物にしたがって、たとえば、ウナギや海蛇のように軟弱でのらりくらりになるとか、ヤドカリのように怒りっぽくなるとか、トカゲのようにおとなしく人がよくなるとか、鼠のように粗忽であわてん坊で無思慮になるとか、フトモモの実の形ににた太鼓腹になるなどと言われる。このような対応関係はモトラブ(サドル島の一部の名)にも見出される。個人と動植物ないし物体を結ぶこの連繋は全員に及ぶものではなく、一部の人間だけにかかわるものである。それはまた世襲的でもない。偶然に同じ動植物種に結びつけられた男女の間に外婚禁制が生ずることもない。
動植物に対する擬人化のさまが読んでいて楽しい。ヤドカリは怒りっぽいとされているが、琉球弧ではそういう見なしではなかっただろう。この動植物との関連は、全員に該当するわけではないので、トーテミズムの残存形態であると考えることができる。
フレイザーはこれが、ロイヤルティ諸島中のリフ島やソロモン諸島中のウラワ島、マライタ島で見出されている信仰の起源だと考えた。
リフ島では、人間が死ぬ前に、つぎにどの動物-鳥とか蝶とか-生れかわるかを言っておくことがときどきある。その動物を食べたり殺したりすることは、子孫の全員に禁止される。人びとは「うちのご先祖さまだ」と言って、供えものをする。ソロモン諸島(ウラワ島)でも同様デアッテ、コドリントンは、住民たちがバナナを植えたり食べたりせず、その理由はむかし偉い人が死ぬ前に、あとで自分がバナナに生れかわれるよう、それを食べてはいけないと言ったからだと記している。
これは、ぼくたちの考えでは、トーテミズムに伴う再生信仰が動植物への転生信仰に転化したものだ。『他界観念の原始形態』では、リフ島の葬法について、「死が近いと、瀕死者に獣鳥、昆虫の名を附し、これを死後の代表者と見て、家族はこれを神聖視する」とあるところに示されている。
ここでレヴィ・ストロースは、フレイザーがモタ島で、母が妊娠中にみつけた動植物につながりを見つけることについて、妊娠中の異常嗜好との関連を見るのは根拠薄弱だとし、死に瀕した老人より妊婦の察知を優先させた理由も分からないとして、もしウラワ島、マライタ島、リフ島の体系が、モトラヴ、モタ島、アウロラ島の体系から派生したとしたら、後者の痕跡が前者に残るはずだが、そうはなっていないと指摘している。
ところが反対に、目につくのは、この両体系が正確に対をなすことである。一方が他方より時間的に先行することを示す物は何もない。それらの関係は、原形と派生形のそれではなく、むしろ、互いに逆対称をなす形の間に見出される関係であって、あたかも、それらの体系をそれぞれ同一群の一つの変換をあらわすもののようである。
レヴィ・ストロースは、この関係を表で示している。
有意の対立 モトラヴ、モタ、アウロラ リフ、ウラワ、マライタ
誕生/死・・・ + -
個人/集団(診断) - +
個人/集団(禁忌) + -
いま私が提出した諸事実から、この群のレベルでの共通性が明らかになる。その共通性によってこの一群は、同じ集合、すなわち自然的差異の間に相同性を立てる緒分類体系(トーテム制というよりこの言い方の方が好ましい)の集合に属する他の群のすべてから区別されるのである。いま私が論じた両体系の共通点は、それらの統計論的、非普遍的性質である。どちらの体系も社会の全構成員に無差別に適用されるものではない。子供たちのうちのいくらかだけが動物や植物の働きで懐妊されるのであり、また死んでゆく人の一部だけが動植物に生れかわるのである。それゆえ、これらの体系のおのおのによって支配される領域はサンプルであり、その選択は、少なくとも理論的には、偶然に委ねられている。この二重の資格で、これら両体系は、オーストラリアのアランダ型の諸体系のすぐ横に並べられるべきものである。フレイザーはそれに気づいていたが、それらの関係については誤解をしていた。それは発生論的な関係〔共通の起源をもつ関係〕ではなく論理的な関係であって、両者それぞれの特殊性を尊重しながらそれらを結びつけているのである。たしかにアランダ型の緒体系もまた統計論的な性格をもっているが、その適用規則は普遍的である。それらの体系が支配する領域は、当該社会全体と外延を等しくするから。
ぼくたちはレヴィ・ストロースの構造人類学の考え方を学びながらも、三者を発生論的な視点で見ようとする者だ。この記述によれば、フレイザーは、モトラヴ=モタ=アウロラの体系→ウラワ=マライタ=リフ島の体系、懐妊トーテミズムと見なしているが、ぼくたちは、懐妊トーテミズム→モトラヴ=モタ=アウロラの体系、ウラワ=マライタ=リフの体系と見なす。懐妊トーテミズムには明瞭な他界観念はなく、メラネシアには他界が地下としてあるから、そこに段階の前後を見る。また、メラネシアの両系には、モトラヴ=モタ=アウロラの体系にはトーテミズムの残存、ウラワ=マライタ=リフの体系には転生信仰への転化と見なす。ぼくははじめはフレイザーの根拠とは別に、転生信仰は再生信仰に先立つと見なしてきたが、『他界観念の原始形態』でその分布を参照したり、異類への転生が、植物との結びつき、なかでもハイヌウェレ神話のように、直接的な転生まで考えられたりしているのをみると、トーテミズムに霊魂思考が混融したところで発生したと考えるようになった。メラネシアの両体系間の前後については、レヴィ・ストロースの考察にならい、必然的なものではなく、転化であると捉える。
レヴィ・ストロースの筆法にならえば、こうなる。
他界観念 人間としての再生 異類への転生
アルンダ族 - + -
モトラヴ=モタ=アウロラの体系 + - -
ウラワ=マライタ=リフ島の体系 + - +
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