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2015/02/01

マルセル・モースの『贈与論』

 引用だけは頻繁に見てきたマルセル・モースの『増与論』を読んだ。多くの引用が物語るとおり、マオリのインフォーマントが伝えたハウの説明が、この論の核心に控えていると思えた。

 ハウ(hau)についてお話ししましょう・・・。ハウというのは吹く風のことではありません。まったく違います。あなたが、ある特定の品物(タオンガ taonga)をもっているとしましょう。そして、その品物をわたしにくれるとしましょう。あなたはわたしに、あらかじめ値段を取り決めることなどなしに、それをくれるのです。わたしたちはこれに対して取引などしないのです。さて、わたしがこの品物を第三の人物にあげます。この三人目は、ある一定の時間が過ぎたあとで、支払い(ウトゥ utu)として何かを返すことに決め、わたしに何か(タオンガ)を贈り物として寄越すのです。このとき、この人がわたしにくれるこのタオンガは、わたしがあなたから受け取り、次いで彼へとあげたタオンガの霊(ハウ)なのです。後者のタオンガ(あなたがくれたほうのタオンガ)のかわりにわたしが受け取ったタオンガですが、こちらのタオンガを、わたしはあなたに返さなくてはなりません。このようなタオンガを自分のものとしてとっておくのは、それがわたしの欲しいもの(ラウェ rawe)であっても、嫌いなもの(キノ kino)であっても、わたしのふるまいとして正しい(ティカ tika)ことではないのです。わたしはこれをあなたにあげなくてはなりません。なぜならこれは、あなたがわたしにくれたタオンガのハウであるからなのです。もしもわたしが、この二つ目のタオンガを自分のためにとっておいたとするなら、そこからわたしに災厄がふりかかることになるかもしれません。本当です。死ぬことさえあるかもしれないのです。以上がハウです。人の所有財のハウ、タオンガのハウ、森のハウです。カティ・エナ(kati ena)(この話はこれでおしまい)。(『贈与論 他二篇』

 この話は単純ではない。まず、第三者が登場することが引っかかる。それはモースも言及していて、それで自身の解釈を加えた要約をしているのだが、にもかかわらず、ぼくにはよく分からなかった。

 贈り物受け取った人が、その返礼をするという流れではなく、わざわざもう一人が出てきて、その人の返礼を発端にもともと贈った人への返礼まで続く流れになっている。それはモースの反復でも、ぼくには理解及ばずだった。

 なぜ、インフォーマントはこう語ったのだろう。

 ここには意味があるのだとして、考えられるのは、二者の関係ではなく三者の関係として語ることで、贈与と返礼が一対一の関係ではなく、社会的な関係であることを示唆していると解することだ。

 けれどこう考えてもすっきりしないものは残る。このエピソードでは、もともと贈った人にとっては未知の人が返礼を開始するが、その前に、最初にもらった人は、なぜ返礼をせずにいただきものを他の人に間髪いれないかのように渡してしまうのだろう。もちろんそれは、その贈り物が自分には不要だと思ったのだろう。でも、その過程の挿入はハウの説明に不可欠だろうか。そういう疑問がよぎる。

 けれど、このことについてはひとつの見解が出されていたのを思い出した。内田樹は、「これは私宛ての贈り物だ」と思った人から、返礼が始まると『呪いの時代』のなかで書いていた。これは卓抜な着眼ではないだろうか。この契機がある限り、贈られたものが返礼を生まず渡され続けたとしても、どこかで、これは自分への贈り物だと感じた人が生まれれば返礼はもともと最初に贈った人という起源へ向かって遡ることになる。内田はそれを、ありがとうを誰が先に言うかというゲームなのだと見なしている。

 ここまでで、第三者が出てくることについて一定の納得は得られる。

 ここからは、贈られるものであるタオンガとそれに付着するとされる霊であるハウについて整理したいことが残る。

 マオリの霊魂観念には、wairua と hau の二種類がある。wairua は、「影、非実質的な像、鏡などに映る顔のごとき映像」で、hauは人間の「本質ないし生命原理」で、「元来は風を意味した」。死後、存続する霊魂がどれなのか、記録されていないが、ぼくたちは前者が霊魂思考によるもので、後者が霊力思考によるものだと見なすことができる。語彙の同一性からみれば、タオンガについているハウも霊力だと見なせる。(cf.棚瀬襄爾『他界観念の原始形態』

 問題は三人目の人から贈り物をもらったとき、贈った人が、これは、最初に贈られたもののハウだと感じることだ。ハウはそのタオンガに付着していると考えれば、このとき、贈られたタオンガについているのは、三人目の人が贈ったタオンガのハウであって最初に贈られたタオンガのハウではない。これが最初に贈られたタオンガのハウであるためには、三人目の人が贈るタオンガにもともとついているハウと三人目の人に贈られたタオンガのハウが、そこで交換されなければならない。

 下手な厳密性を追求したいわけではなく、ここには霊力が霊魂のようにものを離れ、しかも交替すると考えられなければならない。だから、ハウは霊力だとしても、霊魂思考が関与しているのだ。

 もちろん、マオリでは二種の霊魂を認めているから、そこにも霊力思考と霊魂思考の混融形態の段階にあることが示されている。ということは、贈与と返礼の儀礼は南太平洋に普遍的であったとしても、このマオリのインフォーマントの説明はどこででも得られるものではない。ここでのタオンガとハウに対する理解の仕方は普遍的なものではないのだと思える。吉本隆明はこう指摘している。

しかしこういう理解はすっきりした物と霊の二重化にすぎるような気がする。贈与という概念も、贈与と返礼という行為も、物と霊との分離やずれがないところでは成り立ちそうにもみえない。もうすこしいえは、物と霊のあいだ、人間と霊のあいだに境界のない交換が成り立たなくてはならないようにおもえる(『母型論』)。

 このことに立ち寄るのは、マオリのインフォーマントはあくまでタオンガとハウ、物とその霊力を介して贈与と返礼を説明するのだが、それを受けるモースは必ずしもそれだけで説明するのではない。

 モースは書いている。

物はそれ自体が魂を有しているからであり、それ自体としてすぐれて魂であるからである。そのため、何かを誰かに贈るということは、自分自身の何ものかを贈ることになるわけである。

 けれどこの文章の最初の文とあとの文はつながらない。前の文は物と物の霊についてのことだか、あとは人とその人の何かについてのことだからだ。そして、インフォーマントが語るのも、物とその霊についてであって、人とその人の何かについてではない。

 でも、あとの文についてぼくたちに異存があるわけではなく、その通りだと思うことだ。贈り物には贈った人の人格的な何か、ここでの文脈でいえば、霊力が付着しているの感じるからだ。

 それならそうと、インフォーマントが語らないのはなぜなのだろう。考えられるのは、南太平洋の贈与と返礼の社会にあって、まだ共同体から個人は分離されていない。人は自分の身体を関係のなかでしか想起しない。彼らは贈る人と受け取る人を一対の関係として表象するだろう。だから、物とその霊について語ることは、そのまま贈る人と受け取る人のことを幾分かは含んでいるということではないだろうか。

 このインフォーマントは知的な人物に違いないが、説明がすっきりし過ぎていて、よくあるような、あいまいで不明なところがないだけ、現地の人が聞かれても首をかしげるだけで済ますようなときの何かを削ぎ落としているのではないだろうか。

 インフォーマントの説明は明快だったからこそモースたちの眼に止まったが、明快だけに霊にまつわる含みは削がれることになったのかもしれない。

人が物を与え、物を返すのは、そこにおいて人が互いに「敬意」を与え合い、「敬意」を返し合うからである。今でも言うとおり、「挨拶」を掛け合い、返し合うからである。けれどもそれはまた、何かを与えることにおいて、人が自分自身を与えるのは、人が自分自身を(自分という人を、そしてまた自分の財を)人々に「負っている」からなのである。

 マオリの人たちのようにいえば、自分自身を人々に負っているだけではなく、森に、自然に負っているからだ、ということだ。

 ただ明快なモースの解釈において含みが抜けたところから、すくい上げたいものも出てくる。モースが「敬意」の返し合い、「挨拶」の掛け合いと言うところは、言葉のとおりにぼくたちも感じるが、肝心の贈与と返礼について、「義務」や「強制」とまで言われてしまうと極端に感じる。あるいは、贈与と返礼が含意する意味の幅の一方の極だけを言われている気がしてくる。もう一方の極には、善意や好意も控えているのだ。

 贈り物は義務や強制である場面を持ちうる。けれど、本質的に言うなら、贈らずにはいられないとでも言うような心理がそこにはある。モースは前述のインフォーマントの話を要約するなかで、「この物をあなたにあげるように(ハウにー引用者)仕向けられるのです」という言葉を選んでいるが、そういうより、贈らずにはいられない、と言うほうがしっくりくるのだ。

 モースの『増与論』は、西洋人が未開の未知の世界を開示してくれたと思って読んだだけでは、受け取り損ねるものがあると思える。半分は自分たちが観察されていると思って読む必要があるのではないだろうか。吉本隆明は同じところでこう書いていた。

 抽象度を高めて表現しないかぎり、交換や交易よりも贈与と返礼によって成り立ってきた習慣ののこるこれらの地域で、ポトラッチを「義務」「権利」「強制」といった言葉で解釈しつくすこと、そして「母」系を中心の分節点として網の目のように融着し粘性をもってつながりあった家族や氏族、家族の性質としての個人を分離することは難しいとおもえる。

 モースは、マリノフスキーがクラを「支払いをともなう儀式的な交換」と書いたことについて、読者への配慮であり、ヨーロッパの人々に理解させるための便法である。「支払いということばも交換ということばも、ともにヨーロッパのことばなのだから」と書くくらいだから、用語についてとても自覚的であったことが分かるが、それでもヨーロッパ人ではないぼくたちには違和感を残した。

 西洋人のなかで違和感を表明した人もいる。モーリス・レーナルは、ニューカレドニアの観察のなかで、こう書いている。

 こういう初物や献上物を融通の効かないわれわれの言語で言い表わそうとすると、強制、義務、貢納、貢物などといった窮屈な用語に押しこめることになってしまうが、ニューカレドニア島民はそれを自分たちの言葉でただひとことエヴィウという。これは「好意からの贈り物」と訳せるだろう。この名詞は本質的に重要なものである。人頭税が制定されたときにカナク人はただちにこの名詞をそれに当てた。しかし人頭税にまつわる人口統計上のいざこざは、この言い方にそぐわないものだった。そこで植民地行政府のありとあらゆる強要に面食らってしまったカナク人はこの言葉を使うのをやめて、どうでもいい「アポ」という語に置き換えてしまった。これはフランス語の税金(impot)のなまったものである。それだけ人を行為へと促すことのできたかつてのイメージに代わって、中身のない概念と強制が取って替わったのである(『ド・カモ』)。

 印象的なエピソードであるとともに、島人の極度の人見知りに加えて、お人好しという特徴も思い当る。

『贈与論 他二篇』

『呪いの時代』

『母型論』

『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』


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