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2015/02/08

「トーテミズムは未開社会における実存哲学」

 中沢新一は、『森のバロック』のなかで、「トーテミズムは未開社会における実存哲学であった」とうまい表現をしている。

自然力の活動と、そこに産出される種の多様性との間に、人間はトーテミズムの組織をとおして、密接な絆をつくった。それは知的であると同時に、感情的、神秘的な絆であり、人間はそれによって、自然の中に生きる人間の位置や、生命の流れや、人生の意味などに、明確な哲学を与えようとしていた。彼らは、おもに狩猟生活に頼っていたから、自然は征服したり、一方的に制覇したり、勝手に利用するものではない、と考えていた。人間と自然の間には、デリケートな配慮と、相互の倫理が必要とされたのだ。こうして、自然が産出する動物や鉱物や気象などの、多様な「種」を分類するための、未開社会の博物学が発達した。自然の「種」と、人間の社会との間を関係づけて、どの動植物を食べてはいけないとか、どの氏族の娘と結婚しなければいけないかを決める、調整機構がつくられた。

 ぼくたちは、トーテミズムを、人間が他の存在と類別する意識まで来た段階での、他の存在との同一化の思考だと考えてきた。この実存哲学の中身をみると、この同一化には「和解」の意味が含まれているのに気づく。

 一方でこれは、霊力思考が結実したものだとも考えているので、この霊力思考の在り方にも厚みを加えたい。

 中沢は、トーテミズムには自然と人間とのあいだに共通して潜在する生命哲学を「宇宙的な生起論」と名づけている。それによれば、生命ある存在とものごとには、創造的連続性のなかにらわれた凝固物にほかならない。神は「流れる」実体であり、「創造的」な産出をおこなう実体でもある。創造は流れの休止点でおこる。月も星も風も、木々も動物と、すべてが休止という仮の形態をとった別種の流れに他ならない。粒子でもあり波動でもあるという捉え方だ。

 古代に個人の概念はない。身体も個体として分離されていない。そのなかでは、対象は関係そのものして意識される。いまの生のぼくたちよりもはるかに察知を効かせた知覚で同じ自然を受容するが、自然の立ち現われ方を、自己と区別することなく、自己がそれと等しいものとして了解され、流動的なものと凝固されたものは、相対的なものとして立ち現われる。雲が生成したり消えたりするように。

 近代以降、霊力思考(自己表出)は、自己問答としてしかできなくなっているが、古代においては自然もろともを含んだ交流のなかにあった。だから、それは宇宙論としての規模を持つことができたのだ。

 以下、備忘のためのメモ。

アニミズムという観念単細胞を考えた学者もいるし、マナとかタブーとかトーテミズムのような現地人のような現地人の用語をもとにしてつくられた観念を、単細胞に選んだ学者もいる。いずれにしてもヴィクトリア朝進化論的人類学にとっては、未開の心性というものは、普遍的な共通性をもっているもの、と考えられた。

 ぼくたちは、進化論的人類学とは別の経路から、霊魂思考と霊力思考を抽出した。それは人類初期の分節化された思考の両極を指している。それを後追いで、霊魂思考はアニミズムとして、霊力思考はマナとかタブーとかトーテミズムとして呼ばれているのを知ることになった。

この著書(レヴィ・ストロース『今日のトーテミズム』-引用者)の出現によって、トーテミズムの概念は根本的に現代化された。これによって、トーテミズム概念の十九世紀的な完全性は解体されたが、かえってそれによってトーテミズムという殻の中に隠されていた生起論的な哲学の本質はむき出しにされるようになった。

 これはデュルケムとレヴィ・ストロースのトーテミズム論を同時期に経た後で感じるもやもやをすっきりさせてくれる。琉球弧のアマムはトーテミズムそのものの発想だが、童名もまたトーテミズム的発想に支えられた思考の産物だ、と言うことができる。

 

『森のバロック』

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