« 離魂病(かげのわづらひ)の治療は当人の霊魂を探す | トップページ | オオゲツ姫とハイヌウェレ »

2015/02/15

聖なるものから穢れたものへの反転

 ニューカレドニアは「祖先祭祀」の盛んな島だ。だが、と『ド・カモ』の著者、モーリス・レーナルトは言う。ここには三つの文化層が存在する。

 第一には、地下他界の神であるビジュヴァが登場するような神話に関わるものだが、これは地域によって退化している。第二には、「祖先祭祀」。著者によればこのふたつは、「多少とも発達した緒観念」、「ある程度の拡がりを持った空間」、「死体の特異化」を必要としている。この下には、死体を特別扱いせず、山を含めた居住地のなかに死者も住んでいた層が存在している。

 この文化層について考えたことがあるが(cf.『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』)、もう一度、見てみたい。まず、ニューカレドニアにはトーテミズムがわずかに残っているから、これが基層にあり、その後に農を基盤にした霊魂思考が混融してきたと仮定する。

 レーナルトは、埋葬式で、カナク人が「バオ(神を意味する-引用者)を連れてこい」とうのを聞いて、葬儀にいきなり「神」が登場したのに驚いていると、故人がござにくるまれて出てきただけだった。そこで、「死んだ人間の体と死んだ人間とが」、ともにバオと呼ばれているのを知る。それどころか、生前でも不思議な力を持った人々や見慣れない人々、そして老人もバオと呼ばれる。

 故人であるバオは、生者の住居の近くに住む。この段階では、死体の観念と神の観念の区別もあいまいであり、神は屍臭すら放っている。

 レーナルトに倣って、これは三つの文化層のなかでは最古に属するものと捉えてみる。だが、その基層にはトーテミズムがあるから、霊力思考に霊魂思考が混融した初期に当たるものだ。メラネシア南部には、転生信仰も見られないから、再生信仰も存在しなかったか、はやい段階に崩壊したと捉えることができる。霊魂思考は、そこでは、死を生からの移行とみなすだろう。しかし、霊力思考のもとでは、身体はそれ自体聖性を帯びていたが、その思考の動きは、老人や不思議な力を持った人々もバオと呼ぶことに現われている。身体が聖なるものであるとする霊力思考に、霊魂思考が関与すると、死は生からの移行となり、聖性を帯びた故人は神となる。神とは、再生することのなくなった死者が残した聖性から生まれたと捉えることができる。

 ここでいう神は、高神や来訪神でいう神とは違う、カミと表記した方が妥当かもしれない、等身大の精霊的な存在だ。この、等身大の死者という観念は、トロブリアンド諸島の死者の扱いにも通じている。

死体と神との区別がはっきりしているほど、故人が冥界でおくっている生活の様子の観念も明確になり、身体と存在の二元論が現われてくる。

 死体と神化された存在が区別されると、例の「あまりぱっとしない冥界」の世界になる。ニューカレドニアでいえば、地下他界のことだ。レーナルトによれば、それは「もはや知的な空想にすぎなくなっている」。「死体-神」の一体性に変わって「霊魂」というものにしてしまう。

 祖先の祭祀は故人と生者の世界とがもっとはっきり区別されていることを必要とする。そのためには死体を特異なものとなし、それによって一気に人間と死者のあいだの距離を確立する必要があるのである(p.96)。

 死体が特異なものであるということはどういうことか。今のぼくたちの理解では、聖なるものから穢れたものへの反転である。身体には聖なる力(霊力)が宿っていて、それは再生することもできた。だから、死体を食らうこと、死汁を浴びることは聖なる力を授かろうとする行為だった。それが聖なる力を持たなくなってしまうと、価値は反転し穢れたものになる。これが、死体や死者の空間を遠ざけ、死穢の観念を発生させ、他界を生んだ。レーナルに添えば、そういうことになる。

 トロブリアンド諸島では、環状に集落が構成され、その中央に埋葬地が配置されていた。おそらくこの段階では、死穢の観念は強くないはずである。現に、トロブリアンドでは人間は再生する。しかし、ここでも観念は錯綜して現われるのは、トロブリアンド諸島は地下の他界観念を持ってることだ。トロブリアンド諸島では、農耕が始まり地下の他界観念を持つに至っても再生信仰を残存させていた。農は地下の他界に対応し、埋葬地を中心にした環状集落は再生信仰に対応し、両者の混融がトゥマ島という実在の島の他界観念に対応している。

 こうしてみると、身体と存在が未分化な状態とは、棚瀬らの議論のなかでは「身体魂」に該当すると思える。そして、死者がどこにでもいるというバイニング族などの観念にも対応させることができる。また、この文脈に添えば、来訪神とは、人間としての再生信仰が崩壊した後の再生の姿なのだ。

 モーリス・レーナルトの観察は、霊力思考を基盤においたときの、霊魂思考の進展に当たるのではないだろうか。


『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』


|

« 離魂病(かげのわづらひ)の治療は当人の霊魂を探す | トップページ | オオゲツ姫とハイヌウェレ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/60583888

この記事へのトラックバック一覧です: 聖なるものから穢れたものへの反転:

« 離魂病(かげのわづらひ)の治療は当人の霊魂を探す | トップページ | オオゲツ姫とハイヌウェレ »