『未開人の性生活』(マリノフスキー)
性交と妊娠との関係についての認識の積極的な欠如が母系社会の基礎になっていることは、『未開家族の論理と心理』から知ることができたから、『未開人の性生活』では、別の側面に目を向けたい。
まず、子供は生理的には父親とは関係のないものとされ、別の氏族に属している。そして、子の成長に伴って父親の役割を果たすのは、母の兄妹たちだ。兄妹の関係を軸に展開されるのが母系社会だと言ってもいい。
しかし、この兄妹は親密な関係にあるのではなく、厳格なタブーのもとに置かれている。
母系社会では兄は妹の保護者である。妹は兄が近づく時は腰をかがめねばならず、家族の長とみなして彼の命令に服従する。しかし兄は妹の情事や将来の結婚のことには全然関与しない(p.348)。
兄妹は特殊な関係で成長する。一緒に暮しながら、しかも個人的な親しみ深い交際もせずに、親族の規則や共通の利害の規則の下にありながら、しかも個人的なことは常に隠し合って、彼らは顔を眺め合うことさえ許されず、意見を交したり感情や考えを分ちあってはならない。この兄妹間のタブーは、それぞれ年をとって異性と関係をもつ年頃になるといよいよ厳しいものになる。妹は兄にとって性的接触を禁じられたあらゆるものの中心であり象徴そのものである。また兄妹相姦は同世代間の不正な性関係の原型でもある。それは禁じられた族内婚の基礎をなす。もちろん親族関係の程度に応じてタブーは緩和される(p.348)。
これは言い換えれば、兄妹間の強い願望の存在を物語るとともに、このタブーにあってさえ、存続する対幻想の強度が母系社会の礎になっているということだろうか。
一方、父親にとっては自分の子供に対する愛情と母系原理は矛盾することになる。そこで、「男親の息子と女親の娘との間の「いとこ結婚」(p.84)、いわゆる交叉いとこ婚が流行ることになる。
◇◆◇
トロブリアンドの墓は村の中央広場にあったが、マリノフスキーの観察した時点では、村はずれに作られていた。ぼくはこの理由を知りたかったが、この本によれば、「白人の命令」によるものだ。つまり、彼らの他界観念の変化によるものではないことが、これで分かった。
死体は墓場に置き、「浅い空間を残して丸太で覆われる。この丸太の層の上に未亡人が横になって不眠の番をする」。「翌日の宵に死体が掘り出され、魔術の形跡の有無を調べる」。つまり、何の魔術によって、誰の魔術によって死んだのかを探ろうとする。故人の息子たちが肉を削ぎ、いくつかの骨が取りだされる。自分たちの遺品として幾つかの骨を保存し、別の幾つかを一定の親族に分配する。
慣習によって、死者の息子達はその嫌な気持ちを押え隠し、また洗骨のとき若干の腐敗物を口にしなければならない。しかし彼らは高潔な誇りをもって「私は父の橈骨をしゃぶった。私はその場を離れて吐かねばならなかった。もどって来てまた続けた。」というのだ。洗骨は常に海岸で行なわれるが、終って村へ戻ると故人の妻の親族が、帰らに食物を与えて儀式的に「彼らの口を洗い」椰子の油で彼らの手を清める。骨は実用、装飾用など各種の目的に用いる。頭蓋骨は未亡人が用いるライム壺にされ、顎骨は彼女の胸にかける首飾りとなる。橈骨、尺骨、脛骨その他の骨は彫って、檳榔の実をとるへらにする(p.123)。
「私達の心は、自分たちを養育し、食物を与えてくれた男のことで悲しんでいる。だから私達は彼の骨を檳榔のへらにしてしゃぶっているのだ。」(中略)「子供が父の尺骨をしゃぶるのは正しいことだ。なぜなら子の排泄物をその手で処理し、膝に小便をかけられたりしたのは父親だから」。
二、三年たって、骨を親族に手渡すときでも、乾いた葉で注意深くくるんで、おっかなびっくり手渡す。そしえ最後に海が見渡せる岩棚に置く(後略)。もっと遠縁の義理の親戚や友人などは故人の爪や歯や毛髪をもらい、喪の飾りにしたり遺品として身につけたりする(p.124)。
まず、トロブリアンドでは他のメラネシアに頻繁に見られるような頭蓋崇拝はない。頭蓋骨は守護神ではなく、「ライム壺」という実用品にされている。これは、トロブリアンドは地下他界の観念もあるが、それ以上にトゥマ島トいう地上の他界観念が強く、さらに再生信仰まで持っていることに対応している。
息子達が、死体の肉を食べたり、骨をしゃぶったりするのは、食人の名残りを示すもののように見える。また、「橈骨、尺骨、脛骨」は、樹上葬を行なう種族が、葬法のなかで重視する骨の部位と同じである。
次に面白いのは、死体を彫り出すタイミングで、骨化を待つまでもなく、最初に埋めない埋葬を行なった翌日には行なっていることだ。肉を削いだり、骨や爪、毛髪が親族に分配されるのは、身体が聖なるものという霊力思考が強いことを示している。
死者の霊魂は、トゥマ島に辿りつく前に、トゥマの守衛に財宝を贈るが、これは死者とともに滅却されたものではないし、かといって、死者とともに葬られたものでもない。「死の寸前に体におしつけたりこすったりしたもので、ちょっとの間死体に置いただけのものなのである(p.315)」。ここにも霊力思考の関与が生き生きとしているのが分かる。(cf.『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』)
「トウマではわれわれはみんな酋長のようになり、みんな美しくなる、われわれには豊かな栽園があり仕事がない--女がみんな働く。われわれは山のように飾りをもち、美しい妻を沢山もつ。」この言葉は原住民が霊魂の世界に対して抱く理想と希望を集約している。
原住民たちの話によると、トウマの島には美女が群がっている。女は昼は一生懸命働き夜は舞踏をする。霊魂は広い村の空地とか海岸のやわらかな砂の上で歌のおどりでつきざる酒盛りを楽しむ。彼らは沢山の檳榔の実、青いココ椰子の実の飲物、香り高い葉、呪文のかかった装飾、富と名誉の勲章にとりかこまれて楽しい生活をする。トウマ島では誰もが美や威厳や独特のわざに恵まれて尊敬されている。誰もが尽きることのない祭りの我まま勝手な主役になる。ある並はずれた社会学的からくりで、一般人がみんな酋長になる(p.315)。
この他界観も特徴的で、昼夜が逆転してもいないし、メラネシアを観察した人類学者がこぞっていうように、「あまりぱっとしない」世界でもない。現世の延長であるのは同じだが、トロブリアンドの来世の色彩は明るい。
高神が存在しないことも他のメラネシアと同じだ。だが、トロブリアンドには秘密結社が存在せず、そこで培われた儀礼的な同性愛もない。むしろ、タブーや黙契の外での奔放な異性愛が旺盛で、同じメラネシアといっても大きな違いがある。また、再生信仰が強いので、来訪神も登場しない。
◇◆◇
トロブリアンドの母系社会において、妻の実家は新しい家庭の維持に対して「永続的な経済的義務(p.65)」が課される。その「贈物の高はそれぞれの身分によって異るが、普通の家庭が一年に消費する量の約半分にあたる(p.98)」というのだから、大きい。これは酋長も例外ではない。
自分の権力を生み出し、自分の地位に伴う義務を施すためには富をもたねばならず、これはトロブリアンドの社会的条件では複数の妻を持つことによってのみ可能なのだ(p.104)。
一夫多妻婚は、「身分の高い人かあるいは有名な魔術師といたような重要人物にのみ許されている」。彼らは、複数の妻の実家からの永続的な経済的贈答により、富を持つ。しかし、戦争や遠征や祭りでは高価な支払いをしなければならないし、多額の出資をして、盛大な宴をはりご馳走しなければならない。マリノフスキーは「予想外」と書いているが、「酋長は多額の収入を必要とするにもかかわらず、直接酋長食から得る収入はなにもない(p.106)」。
吉本隆明は、『母型論』のなかで、妻の実家からの永続的贈与が、一夫多妻によって、アジア的な貢納制に転化するさまを描いて見せたが、トロブリアンドの社会のなかでは、酋長の権力は、突出しないように、社会のなかにすっぽりと収められている。
◇◆◇
「愛する者の心を動かせて彼に首ったけにさせてしまう」スルモヤ呪術の一部。
私が先に行き、お前がそれに従うと、私は興奮し気絶させられる。
私が待ち、お前が待てば、私は興奮し、気絶させられる。
そして最後に、
お前はわが家に入り、私にほほえむ。
お前が私の床を歩く時、家はよろこびでゆれる。
私の髪をすきなさい。
私の血をのみなさい。
私はうれしいのだから。
この呪文はココ椰子油でにたハッカにかける。「まだなびいていない」彼女にこの呪術をかけるには、「夜彼女の小屋に入っていって、彼女の鼻の下にその油をこぼして、彼女が呪術者の夢を見るようにさせる」。「これが実行できれば、もうこの呪文にさからえない(p.275)」。
呪術には、やはりモノが伴う。ぼくたちは、もっと霊魂思考が強化されたところで、この先に、相聞歌などの系列を見出すことになるだろう。
マリノフスキーの穏やかで公平で等身大な記述は、読んでいて愉しい。マリノフスキーはトロブリアンド諸島と相性がよかったのだと思う。
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