『エクスタシーの人類学―憑依とシャーマニズム』
ミルチア・エリアーデの『シャーマニズム 古代的エクスタシーの技術』の20年後、この本の対になるように出されたのがI.M.ルイスの『エクスタシーの人類学―憑依とシャーマニズム』だ。エリアーデが、「脱魂」にシャーマニズムの本質を求めたとすれば、ルイスは「憑依」にそれを求めている。
例によって、ぼくたちの関心に引き寄せて通過する。
「憑依(possesion)」という超越的体験に伴う付加的な現象は、「異言、予言、千里眼、死者の伝言をつたえる口寄せ」。
トランスについて、二つの側面が見られる。ひとつは「当事者の霊魂の一時的な不在によって起こるもの(「脱魂」soul-loss)。ふたつめは「超自然的力による憑依」。
第一の解釈は個人の内的活力の喪失、「霊魂離脱」(de-possesion)を強調するものであり、第二の解釈は外因的力の侵入を強調するものである。いくつかの文化ではこの二つの見方が同時に受け入れられており、したがって、「霊魂離脱」の状態にある人間は、精霊あるいは霊的力に「憑依」されているとみなされる。
脱魂現象のなかにも、憑依が見られる。このことが、ルイスにとっては、「憑依」を普遍的とみなす根拠になっている。
憑依の形態は、「多くのケースでは、事実上女性に限って発生している」。
女性のこうした憑依的「災厄」(affliction)は、いつもきまったようにその取り憑いた霊的力を永久に追い払うのではなく、それとの共存をはかるかたちで治療される」。「男たちが悪霊憑きの病気とみなすものを、女たちは密儀的なエクスタシーへと転換している」・。
明確に定められ、安定した政治的地位が存在しない非常に小規模の社会では、シャーマン自身が、人間同士のおよび人間と精霊との交流を司る、全能的な権能者として君臨する。
北極地方のトゥングース族。
人間は各自、二つないし三つの霊魂をもつ。第一の霊魂が身体を去ると人は無意識状態になるが、しかしこれ以上の深刻な事態にはならない。しかし、第二の霊魂の不在が長期にわたると人は死に、死後、その霊魂は死者の世界に赴く。第三の霊魂は、身体が腐敗するまでそこに留まり、それからそこを離れて、死者の縁者たちのなかに入って共に生きる。
これはぼくたちの考察にとって大事な記述だ。言うまでもなく、第二の霊魂は霊魂思考によるもの、第三の霊魂は、霊力思考によるものだ。そして、「死者の縁者たちのなかに入って共に生きる」という再生の在り方は、ごく初期のものだと言える。第一の霊魂が、なぜ第二の霊魂と分けられているのか書かれていないが、これは、シャーマン以外の人も、憑依状態になり、意識を失うことがあるという種族の位相を示しているのではないだろうか。
シャーマンの活動で中心的なのは、巫儀(セアンス seance)。セアンスは、天界もしくは地下界の精霊と接触するために行なわれる。たとえば、「氏族民から、病気発生の原因を明らかにしてくれとか、狩猟が不運続きである理由をみつけてくれといった相談を持ちかけられる」。これに対して、シャーマンは、「精霊を召喚して体内に宿らせて不幸の原因を確かめて、そのうえで適切な行動を取らなければならない。たとえば、地下界の精霊にトナカイを供犠として差し出して、同族がいま直面している困難を取り除くよう、諸精霊を説得するのが必要だといったように」。
ルイスにとっては、エリアーデがトゥングース族を典型例として「脱魂」を抽出したまさにその同じ種族から「憑依」を抽出することが重要だったのだ。
シャーマニズムは、どのような概念的細目がそこに含まれるにせよ、神または神々との特別な関係、つまり憑依者の人格が完全に消失した時に完全な神的顕現が劇的に実現する、という関係を必ず包含している。エクスタシー的霊交はそれゆえ本質的に神秘的合一であり、雅歌(the song of solomon)やその他の神秘詩がこのうえなく豊富に例証しているように、この種の体験は頻繁に性愛的表現を借りてあらわされる。実際、アーネスト・ジョーンズが正確に観察している通り、「人間と超自然的存在との間に性的交わりは起こり得る」という考え方は、「もっとも広く行き渡った信仰のひとつである」。
この性愛のイメージは「馬」によって語られる。憑依された女たちは「神々の雌馬」とあらわされる。憑依は「半死(ハーフ・デス)」とか「小死(リトル・デス)」と呼ばれることがある。
ボルネオ南部のダヤク族の間では、共同体の祭司と女祭司が宇宙を統括する二柱の最高神-天界の犀鳥神と他界の水蛇神-に憑依される公開儀礼において、この憑依は神との交合とあらわされる。この主題は儀式中の聖歌において直接喚起され、また信者間の性的交わりによって再演される。
このダヤク族の例は、ぼくたちにシニグへの視点を提供する。伊波普猷がシニグについて、「正視し得られぬほどのきはどい事」と評したのが、「性的交わり」であったとすれば、それに先立ち、シニグは、あるいはウンジャミにおける憑依は海神との交合を示していたかもしれない。(cf.「人身御供の資料としての『おなり女』伝説」)
「多くの文化において」、妖術(邪術)と邪悪な精霊による憑依は、同時発生している(p.153)」。ルイスとは別の視点だが、これもぼくたちの関心を引き寄せる。悪霊による病気が霊力思考に由来することを教えてくれるからだ。
憑依の三つのコンテクスト。
1.被害者は非自発的に憑依されたと受け止められる。
2.自発的、統御的な憑依
3.敵を攻撃するために邪霊を送り込み、敵対者に思いがけない憑依わずらいを引き起こす。
セイロンのヴェッダ族。母系制で、政治敵権威機構は存在しない。家族主体の各小集団には、精霊召喚能力を持ったシャーマンが少なくともひとりはいる。シャーマンの最も重要な仕事のひとつは葬式。死亡した当の親族の精霊を呼び出す。口寄せして、かすれたしわがれ声で話す。憑依舞踏によってトランスに達する。このシャーマンは男性。
この本を翻訳した平沼孝之はあとがきで書いている。
憑依は、精霊が人に憑くことで、憑霊は人が霊につくこと。英・仏語の possesion は、精霊が人に憑くことを意味する。これは啓蒙された点。
脱魂にしても、憑依から憑霊への転換にしても、どちらも精霊と人間が同等になる。「したがって脱魂の技術と憑霊の技術は、「シャーマニック・テクニックの二面と考えた方が適切である」と書いている。
けれど、エリアーデからルイスを辿って、脱魂と憑霊とではやはり異なると言わなければならない。脱魂では自己幻想を共同幻想に同化させなければならないが、憑霊では自己幻想を共同幻想に同調させればいい。おそらく両者の発生では、共同幻想の位相が異なっているのだ。
「脱魂」とはその名の通り、霊魂思考によるものだ。霊魂が身体を離脱するのが病因や死因と考えられているからこそ、意志的に霊魂離脱を実現することが技術になる。しかし、脱魂の本質は、離魂にあるのではない。そのことによって実現しなければならないことが本質的である。北方の例によれば、脱魂は天界への飛翔の現象を伴う。これが意味するのは、「脱魂」が生まれた段階では、他界はまだ時間制として発生していない。共同幻想と自己幻想の分離の度合いは低い。そこで、自己幻想を共同幻想を融合させ、そのうえで共同幻想を統御することが求められる脱魂の技術だ。
これに対して、「憑霊」は、霊魂思考と霊力思考が混融したところで発生する。そしてこの段階の霊魂思考は他界が生み出されている。つまり、自己幻想と共同幻想は分離の度合いを高め始めている。ここではもう自己幻想を共同幻想に融合させることはできず、共同幻想に同調することができるだけになる。そこで憑霊者は神や精霊の言うところを語るということが中心的になる。「脱魂」と「憑霊」とでは、段階が違うのだ。
またルイスの考察からは、女性憑霊者から巫女が発生する動態が分かる。女性憑霊者のうち、憑霊に比重を置くのがユタであり、巫女に比重を置くのが祝女だ。宮古島ではこの区分を設けず、憑霊者はカンカカリヤァ(神懸り人)と呼ばれた。
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コメント
おはようございます。
久しぶり、これまでのは
ちょっと難し過ぎて 読み過ごしていました。
憑依にはとて興味があったので
ちょっとコメントしてみました。
御嶽めぐりで 憑依する女性といっしょに居たので
とても面白かった。
私も憑りつかれてしまって 現在進行形です。
面白いです。
投稿: バンブー・竹 | 2015/01/13 06:13
竹さん
コメント、ありがとうございます。ぼくも今、琉球弧の思考に取り憑かれています。^^
学習ノートになってしまっているので、分かりにくくて済みません。長旅ですが、世界ではどう考えられているのか、それを踏まえたうえで、島のことに戻るつもりです。
投稿: 喜山 | 2015/01/13 10:12