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2015/01/26

『宗教生活の原初形態〈下〉』

 デュルケムは、トーテミズムを起点に霊魂概念を抽出している。

霊魂は、無限に稀薄で鋭敏な物質で作られているもの、エーテル化され、影や息にも較べられるあるもの、として表象されている。(中略)霊魂が息のうちにあるのではない。霊魂は息である(p.12~13)。

 ぼくたちの観点からは、「影」は初源の霊魂である、「息」は霊力だ。「霊魂が息のうちにあるのではない。霊魂は息である」というのは「霊力」と置きなおせば敷衍できる。霊力は息である。身体である。体液である。

きわめてしばしば行なわれる葬式上の食人の儀礼はここから発している。人が死者の肉を食うのは、霊魂そのものである聖原理がそれに宿っている、と考えるからである。霊魂を決定的に放逐してしまうのに、人は、肉を、太陽熱にあるいは人工的な火の活動に委ねて、溶かしてしまう。霊魂は流れ出る液体とともに立ち去っていく。けれれども乾いた骸骨はなお霊魂のいくらかを保有している。したがって、骸骨は神聖な物品または呪術的な器具として用いられている。あるいは、また、骸骨が隠している原理を完全に放免しようと思うときには、骸骨を砕くのである(p.14)。

 食人は、身体に聖原理である「霊魂」が宿っているとするより、「霊力」が宿っていると見るほうが理解しやすいと思える。また、頭蓋骨を打ち砕くのはマラ族、ワラムンガ族では腕の橈骨(とうこつ)が砕かれた。トーテム・センターへの移行の所作だ。

 祖先は、老人や呪術師よりも無限にひいでた能力を付与されている。祖先は動物か植物である。たとえば、カンガルーのトーテムに属している一人物は、神話では、人-カンガルー、あるいはカンガルー-人と表象されている。

 「人-カンガルー、あるいはカンガルー-人」という表象はトーテミズムをよく説明してくれる。アマムの子であるぼくたちは、先祖を「人-アマム」、「アマム-人」と見做していたわけだ。

したがって、これらの霊魂はトーテム原理と同じ実体からなっている。というのは、われわれは、これらの両界を自らの内に綜合し混淆するという二重の形相を提示するのがトーテム原理の特性であることを知っているからである。
 霊魂には、それら以外のものは存在しないのであるから、われわれは、霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのものである、という結論に達した(p.25)。

 ここでぼくたちは、『アフリカ的段階について―史観の拡張』の吉本隆明の言葉に立ち戻ってみる(cf.『アフリカ的段階について』Ⅲ-1)。

天然の物象尊崇と霊魂尊崇とを接続する原点は、じぶんの先祖をさかのぼることで、ひとりでに人間が神に変身するという概念と、先祖としてトーテム動物や植物や生物を設定する概念とが一致するところにあるといってよい。デュルケム的な言い方をすれば「霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのもの」(『宗教生活の原初形態』下 岩波文庫)だということだ。

 吉本は、「天然の物象尊崇と霊魂尊崇とを接続する原点」に霊魂と霊力の二重性を見ている。「じぶんの先祖をさかのぼることで、ひとりでに人間が神に変身するという概念」は、霊魂思考の産物であり、「先祖としてトーテム動物や植物や生物を設定する概念」は、霊力思考である。両概念は不可視のものに対する思考の分節化の初源に当たるものだった。

 デュルケムの議論との混同を避けるために、「霊魂」と「霊力」という用語は、「霊体」と「霊力」とでも改めたほうがいいのかもしれない。けれどそれでも、ぼくたちが「霊力」と呼んでいるものを、デュルケムが「霊魂」と呼んでいることに変わりはない。より正確にいえば、「霊魂」と「霊力」が合成されたものをデュルケムは霊魂としている。

 だから、トーテミズムのあるところでは、「霊魂、精霊、神話的人物の観念がまったく欠けている」としながらも、その欠けた諸族のなかに、「霊魂」を見出すことから始めている。これを解くには、「霊魂」と「霊力」という二重性を見るのがいいのではないだろうか。けれど、用語の変換の手間を惜しまなければ、デュルケムの問題意識はぼくたちのそれに近似している。

 トーテミズムが衰え、消失したところでは、「霊力」は動物の形態のもとで考えられている。子供が母の身体に入る時、それが娘であればシギの一種であり、息子であれば蛇である、と。「人間の形をとるのはその後に過ぎない(p.49)」。ブラジルのボロロ族では自分たちの霊魂を鳥の形で想像する。この動物的性質が顕れるのはことに死後である。

 この思考の形をみると、海神であるトヨタマヒメが子供を産むときに見ないでほしいというのに、覗いてみてしまうと八尋鰐(やひろわに)の姿に化身していたという日本の神話は、トーテム原理の崩壊した形だということがよく分かる。また、もうひとつには、トーテミズムの思考法は、人間が受精卵の後に「個体発生は系統発生を繰り返す」という、その進化の過程に根拠を置いているのではないだろうか。

 (霊魂とは-引用者)個別化したマナである。夢は観念の二次的特色のあるものを確定するのに寄与した。睡眠中にわれわれの精神を占めている心象が定着せずに動揺していること、心象が著しく互いに変形しがちであること、これが、おそらく、この透明で変形し易い微妙な物質-霊魂はこれで作られたとされている-のモデルを提供したのである。他方、仮死や強硬症などは、霊魂は動き易く、また、この世を終ると一時的に身体を去る、という観念を示唆することができた。それが、逆に、若干の夢を説明するのに役立ったのである。しかし、これらの経験や観察は、従属的で補足的な影響しか及ぼしえなかった。そして、このような影響が存在していることを確かめるのは困難でさえある。この観念の本質的なものは、それ以外から来ているのである(p.56)。

 夢や仮死が霊魂観念の根拠になっていることはデュルケムによって正しく捉えられている。ただ、デュルケムには、それらは二次的、補足的な概念に過ぎないと、再三強調されている。でも、ぼくたちは、これが霊力とは別の視点から構想された独立した霊魂概念であると捉える。

 個人的トーテムの特徴。
 1.一個人の保護をその機能とし、動物または植物の形態を取る。
 2.この個人の運命とそのパトロンとの運命とは密接に連結されている(p.81)。

 ついに、われわれは、個人的霊魂が祖先の精霊のもう一つの形相にすぎないことをみた。これはストレロウの語によれば、いわば第二の自我に役立つ。同じく、パーカー夫人の表現によれば、ユーアライ族のユンベアイ(Yunbeai)と呼ばれている個人的トーテムは、個人の他我(alter ego)である。「人の霊魂はそのユンベアイの中に、また、そのユンベアイの霊魂は彼の中にある」。要するに、それは、同じ霊魂が二つの身体をもっているということである。これらの二つの観念は、ときとして、同一の語で表明されているほど大きな親縁関係をもっている。メラネシアやポリネシアにおける場合がこれである。すなわち、モタ島ではアタイ(atai)、オーロラ島でえのタマニウ(tamaniu)、モトロオ(Motlaw)でのタレギア(talegia)は、個人の霊魂とその個人的トーテムを同時に指している。サモアのアイトゥ(aitu)もこれらと同様である。これは、個人的トーテムが自我または人格-霊魂はその不可見な内的な形態である-の外的な可見的な形態にすぎないからである(P.82)。

 デュルケムの筆致の高揚とは、また別の高揚にぼくたちは誘われる。ぼくたちが童名(ヤーナー)と呼び習わしているものは、個人的トーテムのことではないかということだ(cf.「56.家名・童名」)。そしてそれは、個人のアルター・エゴの役割を持つ。鏡がなかった時代の鏡像段階とは、個人的トーテムによってなされたのだ。


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