ユタの職能
喜界島、奄美大島、徳之島のオモイマツガネ系の呪詞を唱えるユタの神は、「天ザシシ」の神、沖永良部島のシマダテシンゴ系の呪詞を唱えるユタの神は「天の庭のウヤナダガナシ」。どちらも太陽神。「天ザシシ」とは太陽がさすという意味。
琉球弧における高神の物象化のはじまり太陽神であったのかもしれない。
テンゴの神を拝むユタもいる。テンゴとは天狗のことで、大和のそれとは性格を違えるが、同類型と考えられる。テゴの神は、グショ(後生)の入口にして、グショに行ける者とそうでない者を区分する。善悪二元の区分をするというのは、新しい観念だ。
ユタの重要な職能は、「人の霊魂すなわちマブリを管理する」こと。
マブリには生きマブリと死にマブリがあり、生きている人間から抜け出たものを生きマブリという。
沖永良部島では、マブリは、幼児にはよく抜け出ると信じられており、それは背中から首筋へと脱出するといい、このため、子どもの着物は背中にほころびがないようにして、背守りをつけ、大人になった場合は、背縫にほころびのきている着物の着用をきらった。特に、子どもの頭髪を刈るときには、必ず前頭部と首の後に髪の毛を少し残しておいた。マブリが抜けて気絶した場合、これらの髪の毛を引張って蘇生させるためだという(山下欣一『奄美のシャーマニズム』)。
徳之島では、死にマブリが生きた人のマブリを取る場合、鼻の穴から取ると信じられていた。
生きマブリを人に見られた場合、ユタを頼むが、徳之島では、「水を入れた茶碗に白紙をかぶせ、糸でしばり、母屋と炊事場の表入口に置いてユタが呪詞を唱えておき、しばらくしてこれを開いてみて、砂が入っているとマブリはすでに墓に行ってしまっているとして、助からないと判断したという。
これらは全て霊魂思考によるものだ。死にマブリが人のマブリを取る場合、「鼻から」という徳之島の例は、霊力思考を感じさせる。
マブリが一個の人は危険。「与論島ではマブリは個人的にその数が違うといい、最高九個のマブリを持つ人がいるという」。なんて贅沢な。
霊魂が複数あるというのは、霊魂思考と霊力思考の混融を示している。霊力が霊魂的に考えられると、死後、他界へ旅立つ霊魂としばらくして再生する霊魂との二つの霊魂観を持つ。他界へ行く際に、肉体が滅びるまでの肉の霊魂と骨化した後の骨の霊魂を区別すれば、三個の霊魂になる。ただ、複数化はこの道程を必ず辿るとは言えない。それぞれの種族の自然環境のなかで、霊魂思考と霊力思考の混融は、それぞれに思想化されてゆく。
琉球弧では、グショ(後生)に行く霊魂は、霊魂思考によるものであり、ニライカナイに行く霊魂は霊力を指したかもしれない。
死は肉体からマブリが遊離することが原因であると考えられた。瀕死の重病人が死のうとするときに屋根の上にのぼりマブリを呼び返す習俗(魂呼ばい)は、この考え方が基盤になっている。
ユタの成巫式では、ユタが神がかり状態になるが、沖永良部島ではこれを「スジをかぶる」と言う。スジとはセイジ(霊力)であり、霊力がつくことを意味するだろう。
ユタの巫儀。
卜占。ハブや小鳥が家の中へ入ってくる、家畜の病気、原因不明の災難、病人の続出などの場合。神々を称える呪詞を唱える。神がかりになる。
口寄せ。マブリを病人につけることをマブリムケという。
ユタは呪詞を唱えつつ、ススキで病人の体を撫でる。海岸から石とヒザラ貝を拾ってきて、石にヒザラ貝をはわせ、竹かごで覆いをしておく。儀礼後、竹かごを開いてみて、ヒザラ貝が石から落ちている場合は、この病人の死は確定的で、石にヒザラ貝がはっている場合は、望みがあると判断する。
死後四十九日までに、死者の霊を呼び出しグショに送るのがマブリワアシ。ユタが死者の霊を呼び出すと、憑依したユタに向かって参会者は質問をする。ユタは応答するが、優秀なユタは言い当てるし、応答できないユタは嘲笑されてしまう。
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