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2015/01/19

沖永良部島の呪詞「アカトゥキヌタチラ」

 沖永良部島の先田光演は、知名町屋子母のユタから多くの呪詞を採集している。このユタの家系は沖縄渡来のノロ神であり、巫病を経ずに先祖伝来でユタを継承してきたという特異な点を持つ。採集された呪詞のひとつである「アカトゥキヌタチラ」は、瀕死の重病人を前に、ユタが唱えるものだ。

 「アカトゥキヌタチラ」について、山下欣一は『奄美説話の研究』のなかで取り上げている。先田が採集した原文と山下の要約(p.391)をもとに呪詞の内容を挙げてみよう。

 暁の寅の刻に、ムクジュのヤス鳥が羽を合わせて歌えば、東に立つ竜雲と西に立つ鬼雲が、ナカビ島で一緒になって生んだ子だが、生みの親は鬼になり、吾を生んだ親は竜になり、行き散って、飛び散った。
 生んだ子に聖名を与えなかったので、聖名を付けなかったので、聖名をほしがり、天に昇り、照る太陽の門口に隠れて太陽ガナシに恨み言を言った。
 照る太陽は病気になった。
 弟の子のユヌカニが、天の庭にユタを頼まれる。天にのぼるにはただでは昇れない。「ビンヌユヌ手箱」「太陽の呪文の双紙」を脇に挟んで天にのぼる。
 照る太陽ガナシは、入口に迎える。「太陽の呪文の双紙」を手の裏に受けて、一枚あけて七枚あけて占い明かしてみると、門口の北脇に悪霊がいる。外に三人、内に五人、棒くさり、鉄くさりを持って打ち出した。
 (悪霊が言う)弟の子のユヌカニは、生き神、サヤ神ではないか。
 (ユヌカニが言う)生まれと親を聞かせてください。
 (悪霊が言う)東の竜雲、西の鬼雲がナカビ島で一緒になって生んだ子だが、生みの親は鬼になり、吾を生んだ親は竜になり、行き散って、飛び散った。聖名を与えなかったので、聖名を付けなかったので、聖名がほしくて、天の庭に昇ってきたのです。
 (ユヌカニが言う)生まれと親をを聞いてみると、鬼の子、竜の子ではないか、暁の夜明け雲と一緒に、雲の行くところを見て一緒に行くのだ。行けよ、去れよ。十二方の神は、十二方に戻すぞ。

 呪詞はすでに意味不明な言葉を含むが大意は損なわれないとみていい。それより、呪詞には主語が省かれているので、語る主体を受取り損ねると意味が違ってきてしまう。現に、山下は別の個所では、後半の問答は太陽とユヌカニの間でなされたものと解して、太陽が悪霊を払う流れにしており(p.319)、谷川健一は、『南島文学発生論』のなかで、悪霊とユヌカニを同一視していると取れる要約をしている。しかし、太陽は患っているのであり、悪霊を払うのは呪術師の役割であれば、ユタと悪霊が問答をし、ユタが悪霊を払う文脈として理解するのが妥当だと思える。

 山下によれば、ユタは夕方、病人の家に出かけ、ウチドナミという呪詞を唱え、翌早朝に「アカトゥキヌタチラ」(暁の竜?)を唱えるという。瀕死の病人を前にしたこの呪詞は、太陽の病の原因である悪霊を払うというストーリーを病人の病の原因である悪霊を払うという呪力として用いているものだが、呪詞の内容自体は病の内容とは関係のない比喩になっている。

 たとえば、レヴィ・ストロースは、南アメリカのクナ族において、難産の際、産婆の要請を受けてシャーマンが唱える長い歌謡について考察している。難産は胎児をつくるムウという霊の力の過剰性によって母親の霊プルバが捕えられることによって引き起こされると解されている。そこで、シャーマンは歌謡のなかで「ムウの道」を通り、「ムウの住みか」、「濁った泉」に辿りつくが、文脈からみればこれは明らかに、膣と子宮のことを指している。

歌の主旨はまったく捜索、失われたプルバの捜索にあり、これは障碍物お破壊、猛獣の征服、果てはシャーマンとその守護霊たちがムウとその娘たちに向って、彼らがその重さに耐えることのできない呪術の帽子を武器として大勝負を交えるといった有為転変の末に取り戻される。征服されたムウは、患者のプルバを発見され、解放されるままに委せる。分娩は起り、歌は最後に、ムウが彼を訪れた人たちのあとについて逃げてしまわないために守らねばならぬ注意事項を述べることによって終る。(『構造人類学』

 シャーマンの歌謡は、分娩に寄りそう意味内容で辿られる。有為転変の過程に登場する「空想的怪物や猛獣たち」は、「擬人化された苦痛そのもの」なのだ。歌謡は、比喩であることは「アカトゥキヌタチラ」と同じでも、この場合、患者である者にとっての切実度はまるで違うだろう。レヴィ・ストロースは、「歌謡は病める器官に対して施される心理的触診であり、治癒はこの触診によって達せられるのである」と書いているが、そういう言い方をすれば、「アカトゥキヌタチラ」の心理的触診の力は微弱なものにとどまらざるを得ないだろう。

 もちろん、難産と瀕死とでは症状に対する理解も手だての可能性もまるで違うから、それだけで両者の呪力を比較するのは意味がない。けれど、クム族の場合は、レヴィ・ストロースがそうしているように、精神分析と比較しうる意味内容を持つのに対して、ユタの「アカトゥキヌタチラ」は象徴的な意味を持つに留まることは言える。

 もうひとつ、「アカトゥキヌタチラ」の呪詞内容は、「脱魂」におけるシャーマンの病気治療に似ていることだ。しかし、ユタはここで実際に脱魂を行うわけではないから、脱魂型のシャーマニズムの例になるわけではない。これまでのところでは、ユタは憑依型のシャーマンであり、脱魂型ではないのだが、呪詞の内容には脱魂における天空飛翔の道程が辿られていることに興味は惹かれる。高神の観念を生んだ琉球弧であってみれば、これは脱魂型シャーマニズムの痕跡を示すと言えるのかもしれない。しかし、それが不可能になった段階では、呪詞のなかに、脱魂の形式だけが残存しているのは確かだ。


『奄美説話の研究』

『構造人類学』

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