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2015/01/22

「霊の心」と「からだの心」

 吉本隆明は、フォレスト・カーターの『リトル・トリー』に出てくる「霊の心(スピリチュアル・マインド)」と「からだの心(ボディ・マインド)」について書いている。

このお祖母さんの伝習するインディアンの心観によれば、「からだの心」は肉体の死と一緒に死んでしまうが、「霊の心」はいつまでも生きつづけ、また赤ん坊を見つけて生まれ変わる。これは肉体が死ぬと「霊の心」が肉体を抜けだして転生をつづけるといったバリエーションはあっても、インディアンに特有なものというより、アジアやオセアニアにもあるから未開、原始心性に特有なものと位置づけた方がいいくらい普遍的だ。「霊のこころ」は使えば使うほど大きく強くなるというのも、「からだの心」を卑俗に使いすぎると「霊のこころ」が縮まってしまうというかんがえも、未開、原始の心性として普遍的な倫理だといっていいのかもしれない。(『心的現象論本論』

 ぼくたちがここで立ち止まるのは、「霊の心」と「からだの心」が、そのまま霊魂思考と霊力思考に対応していないように見えるからだ。

 「霊の心」がいつまでも生きつづけるというのは、霊魂思考によるものだが、その他の、生まれ変わったり、大きくなったり強くなったりするという側面は、もともと霊力思考によるものだ。

 「霊の心」という考え方は、自然の鳥や獣や樹木にも「霊の心」があるというかんがえに結びつけられる。逆な言い方をすれば鳥や獣や樹木は擬人化されて理解し、コミュニケートし合える存在だということにつながっている。

 この個所も同様に、動植物にも「霊の心」が宿り、コミュニケートできるというのも、霊魂思考と霊力思考がまじりあったものとみなせる。

 ぼくたちは初源の分節化としての霊魂思考と霊力思考を捉えた場合、霊魂思考は動物的、感覚的な心の動きから生まれたもので、霊力思考は植物的、内臓的な心の動きから生まれたと見なしてきた。だから、霊魂思考は指示表出的であり、霊力思考は自己表出的なのだ。

 ところで、『リトル・トリー』における心観では、すでに両者は混合している。この混合の仕方は、永続する霊魂という考えに、生まれ変わることもあるという霊力の思考が混じっており、身体を生かしめているところに霊魂思考には、その使い方次第で強くなったり大きくなったりするという点で霊力思考が混じっている。この混合の仕方にそれぞれの種族の特徴やメタフィジックスが現れると見なすことができる。


『心的現象論本論』

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