『未開社会の思惟』
レヴィ・ブリュルは『未開社会の思惟』の末尾近くで、クリュイトの説を引いている。
個々の精霊がすべての生物、すべてのもの(動物、植物、玉石、星、武器、道具等)の中に住み、それに命を与えていたとする段階と、その以前に来るも一つの段階、そこでは個別化がまだ行われず、生物や器物の中に働き、それらに命を与えるのは一種の瀰散的な力で、どこにでも纏まりあらゆるものに浸み込めるものとされている段階である。
ブリュルは「その以前に来るも一つの段階」を、マレットの「霊魂説以前」(プレアニミズム)」と認め、この両者の区別を「社会集団の精神能力の相違に一致する」としている。
ただ後日、個々の人間が個人として明らかに自覚するとき、彼がその一員と感ずる集団からはっきりと自己を区別するとき、そのときはじめて彼の周囲の生物も物体もまた個としての精神、或いは精霊を、この世に於てまた死後に於ても備えていると思い始めるのである。
この区別は重要だと思うが、ブリュルはいささか西洋人の思考に引き寄せすぎていると思える。「個としての精神」は、ぼくたちにしてみれば遠く近代になるまで自らのものではなかった。霊魂思考のはじまりは個の分化の始まりだったと言うほうが妥当だ。
ここまでの考えからいえば、クリュイトが前段階と言っているのは、霊力思考のものであり、後と言っているのは、霊力思考と霊魂思考の混融した段階を指している。いまのところぼくは、霊力思考が先にあり、霊魂思考がその後に生まれたと断言することができない。それは、人類初期の思考の分節化であり、分節化の歩みは、それぞれの自然環境のなかでの種族によってさまざまでありえたと考えている。霊魂思考が優位であり、そのなかで脱魂というシャーマンの技術も生まれた北方アジアの種族もあるからだ。
この点を確認して、以降、この書物に備忘のメモを記しておきたい。
存在するものすべてのものが神秘的な作用力を具えて居り、この作用力が我々の五感によって知られる属性よりもその性質上はるかに重要であるので、生物と無生物との区別は原始人の心性にとっては我々の心性ほどの関心性を持ってはいない(上、p.49)。
これはぼくたちからみれば、五感に依らない霊力思考の中身を述べたものだ。
描かれ、彫られ、そしてそのモデルによく似ている象は、生きた存在のも一つの我(alter ego)、その霊魂の住居、いや、それどころかその存在自身である(デ・フロート、上、p.57)。
これは中国人について書かれたものだが、肖像に霊魂が宿るというのは、霊魂思考の系譜から生み出されると思う。
北アメリカのマンダン族。先住民は肖像を作ってもらうのを断る。「作らせでもしたら彼等自身の本体の一部を作りものに預けたようなもので、それを持っている人の心のままにされることになる(上、p.59)」。
これも同様で、霊魂思考と霊力思考の混融形態だ。
先住民たちは、「自分の名を単なる符牒としてではなく、眼や歯と同格に、その個人の明瞭な一部と見做している彼等は、その名が悪意ある使用を受けると、その体の一部に怪我と同じく、必ず苦痛を受けなければならないと信じている(上、p.62)」。
ここには霊力思考が見られるが、今日でいうところの「名誉棄損」の淵源のようにみえる。
特に死者の名は避けられる。普通の音場でも、死者の名を含むものを使用されなくなることがよくある。姓名を口にする、それはその名をもつ人自身、或はその名のものに手を触れることである(上、p.63)。
共同幻想と自己幻想が未分化だというとき、そこに粘着的なまとわりつくものを想定してきたが、それは霊力思考によるものだということに気づく。
フィジ島では、「他人の影の上を歩くことは、致命的な侮辱である(上、p.67)」。影踏みの遊びを思い出す。踏まれると、なんとなく心が痛むのを感じたが、あの感じは歴史的なものだったのだ。影を霊魂と見なすのは、霊魂思考のものだ。
「野蛮人が夢で知ったものは、覚醒時に見るものと同じく本当である(上、p.71)」。
霊魂思考にとって夢は死者との交流の意味を持ち、霊力思考にとっての夢や予知や察知としての意味を持ったと仮説してみる。
オーストラリアの土族が「死者向け」(Pointing the death bone)と云う呪儀の中には、誰にも気づかれずに行われる複雑な一系の儀式がある。「被害者の血は人にはそれとは見えないが術者の方に流れて来て、そこから、それを溜める容器の方に流れて行く、同時にそれと逆に、魔法の石なり骨なりは、術師から被害者の身体に向い-どこまでも眼に見えないで-体に入って致命的な病を惹き起す(上、p.76)。
ここでは、霊力思考に転移が想定されていることが確認できる。病気では、体に入れられたものを吸い出すことが治療になる。
レヴィ・ブリュルは、「原始」心性特有の原理を、「他により適当な言葉がないので融即律と呼ぶことにしよう(上、p.94)」と書いている。実際、「融即」はこの本のキーワードなのだが、これは霊力の浸透、浸潤、受容を意味していると思える。
タイラーは霊魂説について、「人の五官の明白なる証言に最もよく照応する説である(上、p.101)」とするが、ブリュルは、「霊魂の観念は原始人には見出されない(上、p.111)」と批判している。
緒々の存在及び現象の中には何かしらがあるにはあるが、それは霊魂でも精霊でも意志でもない。もし、どうしても一つの表象を与えなければならねば、一番よいのは、「霊魂説」という代りに、「物力説」ということであろう(上、p.126)。」
ぼくたちの言葉では、これが霊力に該当する。
前論理の心性では、この実質的捕獲と云うものは狩漁の一番重要な要素ではない。真に重要な部分は獲物を出現させ、その捕獲を保証してくれる神秘的作業或は儀式である。もしそれが行われなければ、努力は払うだけ無駄である(下、p.11)。
これは、自然のイメージ的身体化と人間のイメージ的自然化という第零次における自然哲学をよく教えてくれるものだ。
「トレス海峡諸島の土人の踊りは夜行われ、狩猟と漁撈の成功を目的としている。亀の甲で作った途方もない仮面が用いられるのは、このときである。私の考えでは被るマスクの形は、これからやろうとする仕事と関係がある。例えば、漁撈の成功を確かめるためのダンスのときだと、マスクは魚を象っている(下、p.23)」
農耕以前の仮面は、来訪神以前の仮面である、と言えるだろうか。
カンガルーをトーテムとする男たちは、自分の血をある岩の上に注ぐことがある。これは、この岩の上に住むカンガルーの霊を四方に追い払い、生きているカンガルーの数を増やすのが目的(下、p.33)。アルンタ族で、子供が生れるのは、霊がある岩の上から女性をめがけるのだったが、岩が霊の住みかとして思考されているのが分かる。
「劣等社会の人々は彼等を囲繞する生物と生活しているように、死者とも生活しているのである(下、p.98)」。「原始人にはあの世とこの世とは、ただ一つの々存在、同時に表象され感ぜられ経験されるものを造っている」。「西アフリカの黒人は、『死ぬということは、その人が単に、眼に見える身体の厄介払いをし、住居を変えるだけのことと考えている。他のことはすべて、以前のままである(下、p.101)』。これらの記述は、他界が時間性としてしか疎外されていなかった段階を示すものだ。そこではあの世とこの世はひとつづきである。
死者の財物が破却されるにせよ、副葬されるにせよ、生者の所有にならないことについて。
一人の人が用いていたもの、彼が始終身に着けていた衣類、彼の手なれた武器、装身具等は彼の一部であり、彼自身である(融即の法則の下でのあるという動詞の意味)ことは、彼の唾液、爪の切屑、頭髪、排泄物と同様である。程度こそ低けれ、彼から、それらの物には謂わば彼の個人性の継続ともいうべき何ものかが伝えられ、そしてそれらの物は神秘的意味に於て彼と分離し難いものとなっている(下,P.127)。
ぼくたちはこれを家を捨てるという習俗のなかにも見てきた。家とは外延化された死者であり、死者と同一視されたのだが、ここにも霊力思考を見ることができる。
はじめ、翻訳文が旧字体なのに敷居を感じたが、レヴィ・ブリュルの議論は明快で楽しく読み進めることができた。未開社会のよい案内になっていると思う。復刊がありがたい。国会図書館では痛みが激しく複写が禁じられている状態だったので、手元に持てて助かった。
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