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2015/01/30

「トーテムとタブー」

 フロイトは、死者に対するタブーを、残された者が無意識に感じている敵愾心が投射されたものと説明している。

 今や我々には、新たに逝去した魂が魔物になるという信仰と、タブーの規定によって魂の敵意から身を守る必然性とを説明しうる契機が何であるかがわかる。我々が精神分析の結果によって強迫[神経症]者に認められるのと同じ強度の両価性が原始人の感情生活に帰着すると仮定した場合、つらい死別の後に、強迫呵責により患者においてみられたのと同じ反応が、[原始人においても]無意識に潜伏している敵愾心に必然的に向けられたものだということが明らかとなる。

 この敵愾心は、その対象である死者に遷移され、そのことによって敵愾心からの防衛がなされる。この防衛過程が投射だ。

 フロイトによれば、「死者のタブーも、死去についての意識された苦痛と無意識の満足とのあいだの対立に由っているのである」。この無意識の敵愾心により、生者は死者を恐れ、死霊を恐れることになる。

 ただ、吉本隆明が『共同幻想論』で指摘したように、心理劇のリアリティとは別に、これを死者のタブー全体に拡張するのには疑問が残る。たとえば、オーストラリアにおいて、死者の名がタブーになることと、原始農耕を行うメラネシアで死霊を恐れることとの間には同一性もあれば、違いもあるからだ。

 なぜ、樹上葬や台上葬を行うところでは、死体は聖なるものとして、近親者によって食べられたり、死汁を身に受けたりするのに、埋葬を行うところでは、死体に触れることは不浄となり、汚穢となるのか。両者の態度はまったく対照的なのだ。

 とても大きな問題だからきっとどこかで解かれているに違いないのだが、それに出会うまでの仮説として自分の考えを書いておく。

 樹上葬や台上葬においても埋葬においても、死者の家を捨てるという行為は続く。前者は狩猟採集民だからという説明もできるが、共通するのは、共同幻想と自己幻想、対幻想が未分化な段階から分化する段階において、死者の出現は対幻想にのみ影響するのではなく、共同幻想にも及ぶから、それらは再編されなければならない。特に霊力思考のあるところでは、それは共同幻想全体に浸潤しているから、名は呼ばないこと、家は捨てることによってしか共同幻想の再編は行えなかった。

 そしてこのことは、死霊を恐れることとイコールではなく、この過程のなかで、死霊を恐れる段階が出現したのだ。埋葬は霊魂思考に伴うが、初期の段階(おそらく農耕以前の)では、死者霊魂は恐れられていなかった。

 その契機となったのは何だろう。さまざまにありえたと思えるが、ぼくたちの環境からいえば、女性の殺害を持って始まった農耕とつながりがあるのではないだろうか。穀物神としての女性の殺害によって原始農耕は開始された。それは神話というだけではなく、祭儀のなかで再現されたものだった。この起点における殺害が死者をタブー化させた契機なのではないだろうか。

 『古事記』において、オオゲツヒメは、「鼻や口や尻から種々の味物をとりだして料理」する。これは、生と死がひとつながりの段階での霊力思考の系譜に属している。しかし、様子を覗いたスサノオは、これを「穢い」行為だと見なす。人体からの分泌物は聖なるものではなく、不浄なものと見なされている。ここで聖と不浄の視線の転換が行われている。「穢い」ことを理由にオオゲツヒメを殺害するスサノオが農耕社会の始祖に借定されるのは示唆的である。原始農耕は、身体の分泌物から価値を生み出しながら、それを穢いものとして殺害する。死者のタブーが、不浄として死霊への恐れとして、ぼくたちの社会に到来したのは、このことが契機となっているのではないだろうか。

 生と死のつながりからいえば、穀母神の死による有用食物としての再生は、トーテミズムの崩壊のはじまりに当たっている。異類への転生はトーテミズムに霊魂思考が関与して生まれるが、そこでは人間としての再生は断念される。植物との同一化という視線は残るが、これは植物と人間の生成について異なることが認識されれば、象徴化の機能を果たさなくなってしまう。そこで、生と死には断絶が持ち込まれる。これは死や死者をタブー化せずにはおかなかったと思える。穀母神として少女を殺害する祭儀を行ったマリンド・アニム族のあるところでは、死者の霊について知るところがないのに、死霊を恐れて夜間の外出を控えたという(p.341.棚瀬襄爾『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)。

 話を戻せば、フロイトの「トーテムとタブー」で驚いたのは、トーテミズムの思考において、トーテム動物に父親が代入できるということだった。

 トーテムを父親に代替することの第一の成果は、きわめて注目すべきものである。トーテム動物が父親である場合、トーテミズムの主要な命令、すなわち「トーテムを殺してはならぬ」と「同じトーテムに属する女性を性的に用いてはならぬ」というトーテミズムの核心を形成する規定が、父を殺し母を妻としたエディプスの二つの犯罪と内容的に合致し、さらに幼児の二つの根源的欲望と合致するのである。

 学説としてはもう退けられているだろうけど、この精神分析はとても説得的だ。トーテミズムには男子結社による成人儀礼が伴走することにも理解の触手が伸ばせそうに思えてくる。ただ、それでもやはり、エディプス・コンプレックスに対する疎遠感とともに空隙が残る感じを禁じえない。

 精神の考古学として考えようとしている者にとっては、トーテミズムとは、動植物との区別の意識を持った人類の、それでも同じでありたいと願う同一化の思考だったと思える。

 

『フロイト全集〈12〉1912‐1913年―トーテムとタブー』

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