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2015/01/03

祝女とユタ

 吉本隆明は、『共同幻想論』のなかで、口寄せ巫女とシャーマンとの違いについて言及している。

 福島県の「わか」が、神々の名を呼び死者の名を呼んだあと、それらが乗り移って身体を振動させ、託宣をなす事例を挙げ、書いている。

 わたしの推量では、ここで記述された「わか」と呼ばれる巫女の神憑りの方法は〈性〉的な行為の象徴であり、「わか」が措定する対幻想の対象は「八百万の神」に象徴される共同幻想である。
 おなじように「わか」の神つけの技術は、粥一食の飢餓状態で心的な〈異常〉状態を統覚する修練にある。そして一方では師匠からの伝習によって呪詞を暗誦するのである。
 この「わか」に象徴される日本の口寄せ巫女がシャーマン一般とちがうのは、巫女がもっている能力が、共同幻想をじぶんの〈性〉的な対幻想の対象にできる能力なのに、シャーマンの能力は自己幻想を共同幻想と同化させる力だということだ。巫女はしばしば修行中にも〈性〉的な恍惚を感じられるだろうが、シャーマンでは心的に禁圧された苦痛がしばしば重要な意味をもつだろう。なぜなら本来的には超えがたい自己幻想と共同幻想との逆立した構造をとびこえる能力を意味するからである。

 共同幻想を対幻想の対象に選ぶという意味では、制度化された祝女の存在をよく説明するし、祝女が多く結婚をしなかったということとも合致する。けれど、一方、巫女が「村落共同体の共同体と〈家〉の共同体の利害の関係」を扱うという点では、ユタ的である。強いていえば、制度巫女か家巫女のちがいに過ぎなくなる。

 けれどユタは人を選び、時間を遡れば男ユタ(呼称はともかく)も存在したことを踏まえれば、自己幻想を共同幻想に同致させた段階を想定することはできるはずだ。そこへ向かってカンカカリヤがどこまで遡及できるか、確かめていきたい。

 メモ。いわゆる脱魂型とは霊魂思考のものであり、憑依型は霊魂思考と霊力思考の混融のものであるように直観的には思えるが、それも確かめなければならない点だ。


『共同幻想論』

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