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2015/01/07

『憑霊とシャーマン』

 佐々木宏幹(『憑霊とシャーマン―宗教人類学ノート』)は、沖縄のカミダーリィについて、

 1.神霊・精霊がある人物に事物・情景を見せたり聞かせたり、悟らせたりする「霊的影響=働きかけ」
 2.神霊・精霊が自らある人物に依り憑く「憑霊」
 3.自らの霊魂が他界に赴く「脱魂」

 と整理した上で、3は稀であり、1と2が連続、混合しあっているとしている。これをみると、琉球弧のユタは、憑霊型の巫覡であるように見える。宮古島の男性の例も挙げられているので、琉球弧の巫覡と言ったほうがいいかもしれない。

 カミダーリィの原因について、リーブラは夫婦の不和、家族の確執を挙げ、桜井徳太郎は、加えて医者にかかっても治らない身体的病、そして佐々木は、さらに、事業の失敗や金銭的な不如意を挙げている。どれも外側から、そう見えるということに過ぎないが、対幻想の失敗、共同幻想との関係づけの失敗に端を発している。そのどれも個人的に異常なわけではもちろんない。ただ、彼女らが共同幻想に自己幻想を同調させる憑霊型の巫覡と共同幻想を対幻想の対象に選ぶ巫女と両方の顔を持ちうることは示唆されていると思える。

 佐々木はシャーマンのトランス状態の中身に言及している。

実際には単なる忘我や脱我あるいは無意識の状態ではなくて、通常の意識とは異なる意識の中に、神仏はじめ種々の像や光景がきわめて強烈に表象される状態である。あるいはまた自己自身が神や精霊などに変身して行動するような状態である。換言すれば、それは幻覚や幻視を伴う異常な意識状態である。

 このトランス(神がかり)の状態について、職能者が「夢のような気持ち」と表現することから、佐々木は夢に着目する。

 アンダマン島では、呪術師はオコージュムと呼ばれるが、それは「夢見る人」、「夢から話す人」を意味している。また、メラネシアのニュー・へブリデスでは病人が出ると「夢見る人」に依頼する。ここでは、呪術師の呼称そのものが、夢に関係づけられているのだ。ぼくにはこれは、南太平洋の呪術師の霊魂思考をよく現すものに見えるが、佐々木は、「トランスは覚醒時あるいは昼の夢であり、夢は睡眠時あるいは夜のトランスである」と控えめに指摘しているが、その通りだと思う。シャーマンはトランスを意識的に引き起こすとすれば、夢もシャーマンにとっては意識的なものになりうる。

 タイラーは「霊的存在への信仰」をアニミズムと称した。佐々木はタイラーのアニミズムについて、万象にはそれを成り立たせている「いのち」・「個性」があるとの信仰と、万象には「霊魂」・「精霊」が宿るとの信仰という二つの意味が含まれていた。前者は一つひとつの物や存在がもつ生き生きとした個性あるいは性格であり、これにたいして後者は物や存在に内在するが、時と場合によっては、宿り場から自由に離脱しうる実体であると言える、と整理している。

 エヴェンズ=プリチャードは、「アニミズムには相矛盾する概念が含まれていたので、混乱と誤解を生むにいたった」と指摘しているが、佐々木も「現在にいたっても、この問題は解決されたとは思われない」と書いている。

 何が問題なのかはぼくには分からないが、タイラーが「いのち・個性」と呼んでいるものはアニミズムの霊力思考の側面であり、「霊魂」・「精霊」が宿るというのは霊魂思考の側面であると言えばいい。両者は出所が違うから、二つの側面として生きるのである。

 佐々木は沖縄のユタにも他界飛翔の経験をもつものがあるとして、谷川健一の挙げた例を取り上げている。そのユタは谷川の「あなたは後生(あの世)に行ったことがあるか」という問いかけに答えて「行ったことがある。母の袖につかまって空を飛んだ」と言う。後生にはこの世にある一切のものがあり、各人はこの世で暮らしたのとまったく同じように生活するのだという。このユタは後生から空を飛んで帰ってきた。後生の渚に大勢の人たちが並んで見送った。みな白い衣装を着ていた。後生の神が、あとを振り返ってはならぬと言ったが、途中でいましめを忘れてふと振り返ってみると、大勢の見送り人はすべて骸骨だった。

 このエピソードを、佐々木は脱魂型のシャーマニズムと関連づけているが、本質的ではないと思う。ここには、自己幻想と共同幻想を融合させる苦痛もなければ、神々や精霊との交渉で地上の共同利害を調整するという共同幻想の統御の困難も見られない。流布された後生のイメージに沿った幻視があるだけであり、これはこのユタが巫女に他ならないことを示していると思える。

 堀一郎は、日本人の信仰の基本構造を、氏神型と人神型とに分けるが、佐々木はこれを受けて、氏神型はプリースト的であり、人神型はシャーマン的である、としている。堀の分類は、高神型と来訪神型と見做せるものだが、佐々木の整理ほど単純にはならない。

 琉球弧ではたしかに祝女は司祭として振舞ったが、同時に人神としても振舞った。また、そもそも脱魂型のシャーマンは高神の観念と共存していた。


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