『宗教生活の原初形態〈上〉』
夢だけでは霊魂観念を説明できない。死による霊魂の精霊化も説明できない。精霊崇拝が自然崇拝につながるわけではない。従って、アニミズムは根本的ではない。
原始人は自然を前に卑小さを感じていない。むしろ、自然を動かしうると考えている。また、偉大にみえる太陽、月、海、風などが神格化されたのは後のことであり、最初に礼拝が向けられたのは「つまらぬ野菜や動物」だった。したがってナチュリズムも根本的ではない。
としてデュルケムが言挙げするのはトーテミズムだ。
氏族を集合的に呼称するのに役立つ事物の種類をそのトーテムと呼んでいる。氏族のトーテムはまたその各構成員のトーテムである。(P.179)トーテムとして役立つものは、大部分の場合、あるいは植物界にあるいは動物界に属するが、主として後者に属する。無生物はずっとまれにしか用いられない。(P.180)
食物上の禁忌はトーテミズムの特色ある徴表ではない。(P.194)
トーテムは所有物、肉体に記される。動物の身体を表現している衣服をまとう。この目的のために特別の仮面が用いられる。鳥の場合はその羽毛を頭上に被ぐ。西北部インディアンでは、トーテムを入墨する習俗は非常に一般的である。(P.204〜206)
起源においては、トーテムは母系によって伝えられたと信じられる十分な理由がある。(P.232)
人間が神聖である理由は、人間が普通いわれている意味での人間であると同時に、トーテム種の動物または植物だと信じられているからである。(P.239)
オーストラリアのいくつかの部族および北米の大部分のインディアンの社会において、各個人は個人として、各氏族がそのトーテムと保持しているのに匹敵する関係を、一定の事物との間に保っている。この事物は、無生物または人工物であることもあるが、きわめて一般には動物である。若干の場合には、頭・足・肝臓のような組織体の限られた部分が同じ役目を果す。(P.283)
事物と人間との間には生命的な紐帯があり、かつ動物にはその連盟者の人間が利用する特別な威力が賦与されている。トーテムは氏族のパトロンである。(P.286)
人間の霊魂が動物や植物の霊魂であると想像できるためには、人間は自己にもっとも本質的なものを動物界あるいは植物界から借りうることをあらかじめ信じていなければならなかった。(P.329)
フレッチャー女史は「インディアンのトーテム効力に対する信仰は彼らの自然と生命とにかんする信念に立脚している。その信念は、複雑で、二つの本質的概念を含んでいる。第一は、あらゆる事物が有生物でも無生物でも共通の生命原理で一貫されていること、第二は、この生命が破壊されえず永続すること、である」といっている。さて、この共通の生命原理こそがワカンである。トーテムは個人がこのエネルギーの源泉と関係をむすぶ手段である(p.351)。
マレットは、いつも、そしてどのような場合にも、精霊の観念は、マナの観念よりも論理的または年代的に遅れていて、マナの観念から派生したものであることを支持するまでには至らなかった(p.363)。
トーテムとして用いられる事物が人々の意識内によび起されたのは、明らかに感覚からではない(p.371)。
(トーテムは-引用者)氏族の人々がもっとも直接に、またもっとも親しく関係していたものでなければならなかった。動物はこの条件を最高度でみたした。これらの狩猟者や漁撈者の民族にとっては、動物は、じっさいに、経済的環境の本質的要素を構成した。この関連では、植物は次にしか出てこない。植物は、栽培されないかぎりは、食料のうちで二次的な地位しか占めないからである(p.421)。
感覚が知覚するままの世界に、異なった世界を置き換えたのは、それは宗教的信念である。トーテミズムの場合が示しているのはこれである。この宗教で基本的なのは、氏族の人々ならびにトーテム的記号がその形態を再現する諸種の存在はともに同じ精髄から作られた、とみなされているところにある。ところが、ひとたびこの信念が認められたからには、異なった緒界の間に橋が架けられたのである。人間は一種の動物か植物として表象された、植物と動物とは人間の縁者として、あるいは、むしろ感官にはきわめて異なったこれらすべての存在は、同一の性質に参与しているもの、として考えられた(p.425)。
デュルケムは、マナの観念と同期を取りながら、トーテミズムを初源に据える。そうして、「夢」を根拠にした霊魂観念を退けて、トーテミズムにその根拠を求めるのだ。ここへ来てデュルケムのいう「霊魂」とは、ぼくたちが言う「霊力」のことだと理解できる。それは、デュルケムが「トーテムとして用いられる事物が人々の意識内によび起されたのは、明らかに感覚からではない」と言っていることからも分かる。ぼくたちの言う霊魂とは、感覚由来のものだからだ。
だが、デュルケムが退けるほどにタイラーのアニミズム、霊魂は根拠薄弱なものではない。アニミズムの霊魂は、夢だけではなく、影、水に映った映像、そしておそらく臨死体験から得られた像であり、霊力とは別の思考の系譜をなすと思う。霊力思考は霊魂思考に先立つものか、まだ確かめなければならないことはあるが、ぼくたちはこの両思考を人類初期の分節化だと見なしている。霊力思考は、内臓を根拠にした植物的な思考であり、霊魂思考は、感覚を根拠にした動物的な思考だ。
デュルケムの文脈を少し離れると、ぼくたちに示唆的だったのは、転生に関することだ。タイラーにとっては、トーテミズムは祖先崇拝の特殊な形態であり、「下級な人種の心理は、人間の霊魂と禽獣の霊魂との間に、はっきり系っていされた分岐線を画していないから、さしたる困難なしに人間の霊魂の動物の肉体内への輪廻を認める」ものとして考えられた。
デュルケムはそこで、転生(輪廻)のみられるマレー半島は、「かなり高い文化」に達していて、純然たるトーテミズムの形相をしのいでいる。「そこにはトーテム氏族ではなくて、家族が存在している(p.305)」と指摘し、トーテミズムの発生を見るには、オーストラリアを参照しなければならないとしている。
ここで示唆を受けるのは、転生信仰は、トーテミズムに霊魂思考を関与したときに生まれるのではないか、ということだ。このことは、棚瀬襄爾(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)も指摘していた。
再生信仰が直ちに転生信仰でないことは明白で、これらの民族(樹上葬-引用者)では、転生思想は発達していない、しかし、ワラムンガ族で、悪呪術によって死をもたらす者の精霊が何らかの動物の姿で現われるとの観念があり、この動物をthunalgi と呼んでいるから、死者の霊魂の転生ではないが、異生に霊魂が入るとの観念と再生信仰が結合すれば、転生信仰の生れうる可能性はあると見なければならない(p.853)。
棚瀬のこの本によれば、オーストラリアでは、東南部のカミラロイ族において、死者の霊魂はマジェラン雲の黒い所、あるいは、善人は至上神、悪人は滅ぶ、あるいは善悪人とも天に行くが、他の者は「美しい啼き声をする小鳥に転生する」と、一部に転生信仰が見られた。ただし、カミラロイ族は、ワラムンガ族とは違い、再生信仰を持っていない。
死霊の異生への転生の信仰は、ニューギニアに報告があり、メラネシア、ポリネシア、インドネシアにも見られる。この信仰がトテミズム文化に関係があるか否かは相当議論を要するであろうが、ニューギニアは地下信仰をもつが純粋でなく、大上葬の影響がおよんでいること、メラネシアの動物への転生の信仰はサンクリストヴァル以北の地下信仰を持たぬ民族に存在すること、インドネシアは地上の他界信仰を有し、乾燥葬がつよく行われること、ポリネシアについては、ウイリアムソンが『私は死者の霊魂は動物になる、ないしは動物に入るという信仰はおそらくはその起源をトテミズムのある形態またはトテミズムの発達の中に持ったろうと推測する』と述べていることなどによって関係があると考えてよかろうと思う。ただし、オースト(ラ-引用者)リアの典型的なトテミズム民族には乏しいから、トテミズム文化の発展過程に現れたと見なければならない。これに類似する意見として紹介すべきはアフリカについてのアンカーマンの言で、氏は死者の転生の信仰はトテミズム文化の存在する大陸東部とスーダンに発見され、再生転生する霊魂は生命霊であろうとし、再生観念とトテミズムの表象が結合して輪廻転生の信仰が発生したとしているのである。単に墓に出没する動物が死霊に結合されることも皆無ではなかろうが、一つの思想が成立する根拠としては薄弱であるように思われる。
再生信仰とトーテミズムは表裏の関係にあるようなものだから、アンカーマンの言うとおりであれば、オーストラリアにも転生信仰は頻出しなければならないが、そうではないから、(再生信仰+トーテミズム=転生信仰)はいかにもありそうだが、そうではないのだ。
むしろ、(トーテミズム+霊魂思考=転生信仰)であると捉えることができる。ウィリアムソンが言うように、「死者の霊魂が動物に入る」という表現が霊魂思考のものになっていることにも、それは表れている。
ここでぼくたちは以前、「霊魂論 メモ」のなかでは、人間が動植物と自己を同一視するところから区別し分離する段階になぞらえて、転生信仰から再生信仰に至ると漠然と考えていたが、修正しなければならない。
ここで霊力思考の流れとして、再生信仰(トーテミズム)-転生信仰-来訪神という系譜を抽出することができるように思える。つまり、再生する人間、排泄から有用物を生み出し、死体から有用植物を生んだハイヌウェレ、来訪神は、霊力思考の展開の産物だ。そしてそれぞれは、霊魂思考の関与が増大する過程であり、生と死の未分離、分離、そして隔離に対応すると思える。言い換えれば、トーテム原理の崩壊過程だ。つまり、来訪神とは神として人間から分離したハイヌウェレであり、マリンド・アニム族で言えば、殺害されるマヨ娘の象徴化だ。
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