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2015/01/15

「シベリアにおける仮面と狩猟儀礼についての覚え書」

 荻原眞子による北方の仮面考察(1982年)。

仮面は第一に装着者の正体を隠す。このことが第一義的に求められる場合には仮面はどんなものであってもよいはずである。例えば、コリャク族の白鯨送りの儀礼で用いられる草の面は、実際には「仮面」と称するには多少躊躇せざるを得ないような粗雑なものであるが、鯨の霊を恐れて少女が着用する。第二には正体を秘すことだけでなく、仮面の表わす対象に自己を擬すことに一義的な意味のある場合である。例えば、狩猟の際に着用される陸獣や海獣の頭皮がこれである。獲物に接近する最善の策は猟師が獲物の一員と同じ姿になることである。このことは狩猟民で角を表の世界では広く認められる。そして、仮面仮装の第三の意味は仮面着用者が単なる擬装の段階を超えて仮面の表わす対象そのものに化身することである。自己の全存在をどのようにかかわらせるかによって化身の度合にはニュアンスの違いが生ずる。例えば、後述のエヴェンキ族の例に明らかなようにシャマンの仮面仮装には多かれ少なかれこうした化身の要素を看取できるし、また、化身の最高の極地に能舞台を想起することがでる。

 荻原はそこで、「仮面のもっとも原初的な形態はこの擬装にあると思われる」としている。この点については荻原とは別の観点からも言えるかもしれない。来訪神としての仮面は、身体が霊魂の衣裳であるとみなされた段階のものであると見なしてきた。これは言い換えれば衣装が霊魂を規定するということだ。だから、仮面仮装は、人間が仮面を来て仮想しているのではなく、仮面の示す精霊や神そのものであるとみなされた。これは霊魂思考によるもとも考えてきたが、これが成り立つためにはもうひとつ、霊力思考が関与し、衣裳の中身も、神や精霊の霊が充満しているとみなされる必要があった、というように。これが、単なる擬装との相違点だ。

ナナイ族では死者儀礼の一つとして、死者の霊魂を他界に送付する儀式カサでシャマンが仮面を装着する。これはシャマンが自分の正体を隠蔽するためであり、もし、仮面が顔から外れ落ちることがあったりすると、シャマンは冥界から帰還することがきず死ぬことになる。また、死者の霊魂を封じ込めた木偶ムグデに仮面が装着してあったという記述もある。ウデヘ族の大儀式には数十人のシャマンが仮面を装着して参加する。この仮面はシャマンの守護霊であり、病人のテントにいる悪霊を脅かして排除するという。

 シャーマンが天界や冥界へ赴く際に正体を隠すのは消極的な意味づけだが、仮面の者になるという意味では霊魂の衣裳という概念もあったかもしれない。また、悪霊払いの際の守護霊への化身として仮面が用いられたことも分かる。

海岸コリャク族には春から秋までの海岸生活を終えて、冬の村に移動してから行なわれる「仮面装着」儀礼がある。これは「新月の後の最初の冬月」に行なわれ、夏の留守中、家の中に入り込んだ悪霊カラウを追い出すことを目的としている。仮面は「大きなワタリガラスとその家族」を表わすと言われるが、実際には男女の人面である。若者たちが仮面を着けて各家に騒々しく間入し、家内の隅々を点検した後に、熊狩り、橇、橇競走など冬の生活の到来を象徴する様々な場面を演じ、家の主から砂糖、煙草、装飾品を受取る。
 また、ヴァロンコルフ湾のアリュートラヨリャク族には耳に垂げ飾りのついた木面があり、子供たちが装着して無言で各家を訪ねて贈り物を要求する習慣があった。

 これは来訪神儀礼における家払いや十五夜のトゥンガを彷彿とさせる。

 エヴェンギ族の豊猟と獲物獣の増殖を目的とするギルクムキ儀礼では、まずシャーマンが獣の所在を探索する。

 そして、次に重要な場面がはじまる。すなわち、トナカイの群を氏族の狩場へ誘き寄せ、増殖をはかることである。そのためにシャマンは雌トナカイの姿になり、氏族の狩場へ雄のトナカイを導き入れる。他の獣もやって来る。
 その後、参加者はシャマンの指示に従ってカラマツと白樺でオオジカと野生トナカイの像を作る。木偶はシャマンの天幕の傍に一定の順序に、交尾の姿勢で配置される。その脇でシャマンと氏族の成員たちはギルクという呪術的舞踊を繰り広げるが、これは明らさまに(特にシャマンについて)工ロチィックな性格をもっている。

 増殖儀礼において、動物の木像が交尾の姿勢で置かれるということは、交尾が出産につながることへの認識があるということを示している。ということは、彼らにとって再生信仰はトロブリアンドにおけるそれと比べて後退しているはずだ。

 荻原は、動物仮面が人面に変わる過程について、仮説を導いてる。

獣を表わす仮面が、いつしか人面に取り代る過程には獣の存在を現実視することと別に、その霊魂を想定する観念が介在しているように思う。すなわち、獣面から人面への移行にはアニミズムの観念の成立がかかわつているのではないかと思う。狼の仮装儀礼がチェクチ族とトナカイ コリャク族で極めて対照的なのも実はこうした観念のちがいに出来するのではなかろうか。すなわち、一方では狼の頭皮を被って太鼓を打ち歌舞に興じてこれを送るのに対し、トナカイ コリャク族は狼に旅仕度をせず、専ら狼の霊魂の宥和に努める。コリャク族にとつて「狼が危険なのはその可視的な動物の姿においてではなく、不可視の人間的姿においてである。コリャク族の観念では狼は豊かなトナカイ所有者であり、ツンドラの有力な主である」ばかりでなく、「強力なシャマンであり、トナカイに敵意をもつ悪霊であり、地上の到る所を徘徊していると見なされている」。こうした多分に人格的な狼の観念が生れたのはトナカイ コリャク族がトナカイ飼養に携あるようになってからであろうことは容易に想像できる。

 記述のなかだけでは判断ができないが、チュクチ族もコリャク族も脱魂型のシャーマニズムを行ったのであれば、両者ともにアニミズムの観念は持っているだろう。むしろ、コリャク族において、狼は「悪霊」と見なされているのであれば、ここに霊力思考が関与して、悪霊の憑依を恐れたためであると考えることもできる。

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