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2015/01/16

「シャーマニズムと狂気」(森山公夫) 1

 吉本隆明は「憑人論」のなかで、柳田國男の入眠幻覚にあいやすい資質について触れている。

 絵本をあてがわれて寝ながら読んでいるうちに、神戸にお母さんがいるという考想がとりつかれ、いつの間にか実在しない神戸の叔母のところへゆくつもりで家をとびだしていたという挿話。

 もうひとつ。

 それから又三四年の後、母と弟二人と茸狩に行ったことがある。遠くから常に見て居る小山であったが、山の向ふの谷に暗い淋しい池があって、暫く其岸へ下りて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を元登った方の山の口へ来たと思ったら、どんな風にあるいたものか、又々淋しい池の岸へ戻って来てしまったのである。其時も茫としたやうな気がしたが、えらい声で母親がどなるので忽ち普通の心持になった。此時の私がもし一人であったら、恐らくは亦神隠しの例を残したことと思って居る。(「九 神隠しに遭ひ易き気質あるかと思ふ事」)

 これについて、精神科医の森山公夫は、「奇しくも精神医学上の「解離」(disscociation)の二大症状(両極的症状)である、「遁走」fugue と「憑依」(dissociation(多重人格)の原型に出遭っている」と書いている。

 「いつの間にか実在しない神戸の叔母のところへゆくつもりで家をとびだしていた」というのは「遁走」の原型であり、「どんな風にあるいたものか、又々淋しい池の岸へ戻って来てしまった」というのは憑依体験とみることができる。原母的な存在に満ちた居場所を求めた遁走と憑依(同一性障害)は、解離の症状なのだ。

 解離における遁走と同一性障害の両極が「遁走/同一性障害」とも表される表裏をなし、より本人の積極性が表現される場合が遁走で、消極性が表れる場合は同一性障害と云えることである。従って遁走が一般に男性に多く、同一性障害が女性に多いという事態は不思議ではない(「シャーマニズムと狂気」『精神医療〈2013 no.71〉』 )。

 これは「脱魂」と「憑依」を考えてきたぼくたちに大きな示唆を与えてくれる。ある意味で両者は、能動的解離と受動的解離ということができるわけだ。なぜ積極性は男性に、消極性は女性に現れるのか、分からないが、それでも、憑依が女性に多く、したがって巫女への道も拓きやすいことも見通せる。

 そして森山自身も、シャーマニズムを考察するなかでこれを書いているのだった。フランク・W・オアトナムは、多重人格性障害の原型は、シャーマン的人格変容と憑依状態であり、シャーマニズムは人間の心の根本的なある過程を表現しているという言葉を引いて、「「神隠し/憑依」ないし「遁走/同一性障害」の対的な両極性が、人類の「ヒステリー=解離」の歴史を縦糸のように貫いてきた」として、「解離」を定義している。

 解離とは「母性の喪失とそれへの憧憬」による病いであり、対幻想における障害として、積極(遁走)と消極(多重人格)の両極性をもつ。

 これをシャーマニズムまで敷衍すれば、

 「神隠し-憑く」
 「遁走-多重人格」
 「脱魂-憑依」

 と位置づけることができる。」

 エリアーデは、シャーマニズムが「原初の時への回帰」をモチーフに持っていることを指摘したが、この願望、憧憬を軸として、その「実現」を目指すのが「神隠し・遁走・脱魂」であり、その「欠如」に基づくのが「憑く・多重人格・憑依」であると、森山は書いている。

 これは、ぼくたちが「脱魂」を自己幻想と共同幻想が分化した段階、「憑依」が自己幻想と共同幻想が分化し段階に生まれたと仮説していることに対応すると思える。


『共同幻想論』(吉本隆明)

『精神医療〈2013 no.71〉特集 精神保健福祉法改正』

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