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2015/01/04

エリアーデの『シャーマニズム』 1

 エリアーデによれば、シャーマンとは脱魂(エクスタシー)を行使するものだ。したがって、呪医すべてがシャーマンではない。

シャーマンは呪医でもあるけれども、すべての呪医はエクスタシーを行使しないという意味でシャーマンではない。

 また、「脱魂」は「憑霊」に先立つ。

すなわち、一方でシャーマンの魂が、上方の世界もしくは地下界を旅している間に、「もろもろの精霊」がシャーマンの肉体にとりつくことは出来る。が、この逆のプロセスを想像することは困難だからである。

 ぼくたちは霊魂思考と霊力思考における病因とその治療の在り方から推察すれば、「脱魂」はすぐれて霊魂思考であり、「憑霊」は霊魂思考と霊力思考の混融の産物と考えられるが、その当否を確かめたいのはこの本を読む動機にもなっている。

 「脱魂」を本質と捉えるエリアーデにとって、シャーマニズムはすぐれてシベリアと中央アジアの宗教現象である。なぜなら、そこにシャーマンはトランスを得意とし、そのトランスの間に魂は肉体を離れて天上界に昇り、地下界に降りてゆくというシャーマニズムのモチーフが豊かだからだ。

 シャーマンは「憑霊」者とは違う。

シャーマンは人間でありながら、死者や「悪魔」や「自然の精霊」の道具となることなしに、それらの交通することができるということだ(p.44)。

 この記述だけにしたがえば、脱魂は憑霊より高度だ。憑霊者ができるのは、霊に憑くことだが、脱魂者は死霊や精霊と交通できるからだ。

 別の側面から考えてみる。

 ぼくたちは地下他界を持つオセアニアの事例から霊魂思考を抽出したが、それは東南オーストラリアにも見られたように、単純埋葬の狩猟民や牧畜民にも見られる思考だということが分かる。そして、「脱魂」の技術はこの段階で生まれたようにみえる。霊魂思考のもとでは、病気の原因は霊魂の離脱と考えられるが、「脱魂」とは自分の霊魂を抜け出させることであれば、「脱魂」とは意志的に病気を生み出す技術である。

 エリアーデは、「脱魂」には天界への飛翔が伴うとしているが、これは霊魂思考が、天上(他)界を持つ種族によって生み出されたことを示していると思える。天上へ飛翔し、地下へ降りるという場合は、天上界と地下の高いが対置されている種族において見出される。

 だが、「脱魂」にとって飛翔は本質的なのかもしれない。オーストラリアで呪医になる事例として取り上げられているアルンタ族、ワラムンガ族、ビンビンガ族、マラ族は、どれも再生信仰をもつ種族だ。こうしたところでは明瞭な他界観念は見られないが、ビンビンガ族とマラ族では、呪医になるなかで「天空へ連れ去られる」過程を含んでいる。この天空は、「神」とは形容されていないが、マラ族では「星の住人と会話を交わす」とあり、明瞭でないながらも、他界を天とみなす思考があったのかもしれない。ただ、高神が意識されていないところでも、天空への飛翔は思考されているのだ。

 シャーマンのイニシエーション(入巫儀礼)は、成人儀礼や秘密結社への加入礼と同型をなしている。ただ、違いといえば、シャーマンにおいては、「脱魂」の経験を必須としているということだ。この点で、「シベリアと中央アジアには、一つの年齢集団から次の年齢集団への過渡の儀礼はない(p.127)」と、エリアーデがシャーマニズムの本拠とみなした地域に、成人儀礼が存在しないのはとても興味深い。シベリアと中央アジアでは、それだけシャーマンの地位は高く、脱魂の技術が尊重されていたということではないだろうか。

 エスキモーのシャーマン候補者が、イニシエーションをパスしようとすれば、「自身を骸骨として眺める能力」を得なければならない。これは、「脱魂」が、骨を根拠にした霊魂思考であることを物語っていると思える。それはシャーマンの衣裳にも現れていて、しばしば骨を模した鉄製品を身につける。骸骨を模倣することで、シャーマンの衣裳はそれを着ける人の特殊な立場を明確にする。ある意味でそれは、死んで蘇った人ということだ。

さて狩猟民族の間では、骨は人間、動物ともに、生命の究極の源泉とされ、その源泉がその種族が随意に再形成されると見做される。それからこそ、狩りの獲物の骨は破壊されず、注意して集められ、慣習に則って処置-埋葬されたり、台上に安置されたり、樹上に置いたり、海に投げたり-されるのである。このような観点からして、動物の埋葬は正確に人間の遺骸処理方法に従うのである。なぜなら、このいずれの場合も同様に、「霊魂」は骨のなかに宿っていると考えられ、したがってその骨から個体の復活が期待され得るからである(p.273)。

 しかし、南太平洋で見た限りでは、埋葬か台上葬、樹上葬とでは考え方は異なる。単純埋葬は、骨を根拠に霊魂を思考し、高神の観念を生むが再生信仰はない。台上葬、樹上葬では、全身の骨を処理するが、ここには再生信仰がある。だから、骨を再生の根拠にするのは、台上葬、樹上葬の種族であるはずだ。両者がともに現れているとしたら、それは両思考の混融の結果だと思える。

 中央アジアと北アジアにおけるシャーマンの主要な機能は呪術的治療だ。そこでは病気の原因は「魂の誘拐」という考え方がもっとも広くゆきわたっている。

治療法はまず魂を見つけ出して捕え、患者の体内に戻してやるのが原則である。アジアのある地方では、病気の原因は患者の体内に何か呪物を入れ込んだり、悪霊に「憑」かれたりするためだと考えるから、その治療は、有害な物を体内から取り除くか、悪霊を追い出してしまえばよい。病気の原因が二重になること-魂が誘拐されて、かつ悪霊に憑かれたような場合-もあるが、こんなときには、シャーマンは魂を探すと同時に悪霊を追い出すという二つの治療法を行うのである(p.368)。

 これを整理してみる。

・「魂を見つけ出して捕え、患者の体内に戻してやる」 霊魂思考
・「患者の体内に何か呪物を入れ込んだり」 霊力思考
・「悪霊に「憑」かれたり」 霊魂思考と霊力思考の混融
・「魂が誘拐されて、かつ悪霊に憑かれた」 霊魂思考と霊力思考の混融

 治療を「脱魂」状態に入り行うのが本来。しかし、毒物を食べてトランス状態に陥るのがその頽落形態として現れる。次には、補助霊による脱魂の旅や神話的原型の知られている冒険物語からなるようになる。これはぼくの想定で並べてみたものだが、共同幻想に憑くことが難しくなると、換喩の力に依るようになったことを示すと思える。

 エリアーデは、霊魂思考と霊力思考を区別しているわけではないから、あいまいにしか分からないことも多いが、「脱魂」は霊魂思考の産物であり、脱魂時における飛翔の観念を伴う。霊魂思考においては高神の観念を発生させるから、飛翔は高神のもとへ赴くと考えられやすい。

 「脱魂」が霊魂思考の産物なら、「憑霊」は、霊魂思考と霊力思考の混融の産物だと考えてきた。「脱魂」が起こるのは高神のもとでだが、天上界は実際には他界観念とは言い切れない。つまり、共同幻想と自己幻想の分化し始めた頃を指し示すと思う。そこで、シャーマンは未分化の状態を心的に再現して、共同幻想に自己幻想を融合させる。「憑霊」は、地下の他界が発生した後の行為だ。ということは、共同幻想と自己幻想が分離しているので、シャーマンは自己幻想を共同幻想に同調させればいい。こう考えると、エリアーデとは別の側面から、段階として「脱魂」は「憑霊」に先行していると言うことができる。

 「脱魂」では、神話時代に遡行できると考えられている。アボリジニのドリームタイムを幻視できるということだ。この行為は「憑霊」ではできないのではないだろうか。

 そして、対幻想が共同幻想から分離すれば、対幻想の対象に共同幻想を選ぶことができるようになる。これが巫女だ。本には「脱魂」はほとんどの場合、エクスタシーと翻訳されている。しかし、このエクスタシーに性的な意味は伴っていない。だから、巫女が共同幻想を対幻想の対象として選ぶのとは、脱魂的ではあっても、やはり違うのではないだろうか。そこには性的な恍惚が伴うはずだ。


『シャーマニズム 上』

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