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2014/12/12

喪屋と岩屋

 金久正は『奄美に生きる日本古代文化』のなかで、奄美の葬法について書いている。

 金久は、奄美の葬儀様式を、「喪屋」型と「岩屋(イャンヤ)」型に分けている。それは場所によるもので、「喪屋」型は、「部落内部の平地の草木に覆われた荒地」、「岩屋(イャンヤ)」型は、「部落を離れた山間や海岸の岩窟」である。

 金久は、葬地の違いで分類しているので、「岩屋(イャンヤ)」型から「喪屋」型への移行を想定している。「喪屋」型では、殯の行為が加わっているから、後だと見なすということだ。

 いまこれを後先の問題ではなく、思考の違いとしてみて、象徴的な例を抽出してみる。

 「喪屋」型は、殯の行為が見られるから、台上葬の系譜に属する霊力思考のなかの葬法だと言える。興味深いのは、奄美大島南部の勝浦に見出せるが、ここでは「墓地が部落の中央にある」という。墓地が共同体の外部に疎外されていないのである。墓地を囲むように形成される集落の構造は、トロブリアンド諸島や縄文中期の集落に見出せる。仮に現在は、この場への忌避感が強かったとしても、集落の形成過程を踏まえれば、葬地への忌避感は強くなかったことが想定できる。

 これに対して、「岩屋(イャンヤ)」型については、J・クライナーが加計呂麻島に例を求めたものを元にすると、加計呂麻島の「岩屋(イャンヤ)」は、人骨の出るカミヤマで島人にとても恐れられており、地下の他界への入口とみなされていた。これは、霊魂思考の産物で、山に葬地を求めたのは、霊魂思考と霊力思考の混合による他界が地上化し山中他界の観念を持ったことによるものだと思える。それでも、地下他界への入口と見なしているのは霊魂思考の強さを物語るから、山への忌避感、禁忌感が強く発生することになる。山へ葬った場合は、初期には頭蓋を取り出しただろうし、御嶽(ミャー、イベ)が形成された後には、個別に頭蓋を取り出す習俗も消滅しただろう。だから、「岩屋(イャンヤ)」型は、埋めない埋葬、あるいは埋められない埋葬の形態だと思える。

 明治の三十年代に、当時すでに禁じられていた「喪屋」型の葬法を行ったために罰金を取られた喜界島の古老の話を金久は書きとめている。

 死人があった際は、死体を六尺近くの七分板の長い棺に納め、これを「モヤ」に四つの台石を設け、その上に棺を安置し「タマヤ」(魂屋)と称する畳一枚くらいの大きさの拝殿風の立派な屋を作り、これには貧富の差によって三段または七段の階段を設け、一段ごとに鳥居を建て、この屋を棺の上に飾って葬儀をすますのであった。一年あるいは三年して、死体が全部朽ちて、骨だけ残るようになると、「アョー」と称する石をえぐって作った容器にこの骨を納め、蓋をして「モヤ」の片隅に安置した。また墓石を建てるものもあった。

 金久は、この「モヤ」が洞窟にあるため、「喪屋」型と「岩屋(イャンヤ)」型の折衷型と見なしているが、これは思考の型からいえば、「喪屋」型であり、ぼくたちが風葬と呼んでいるものが台上葬に他ならないことを明瞭に物語っている。

 この島の「はふり」(葬儀)がどうして行われていたか判然しないところが多いが、魏志の記事などから推して、軽い土葬も行われていたものと思われる。私は少年のころ、諸鈍部落の海寄りの金久字のある海寄りの屋敷の庭の作り替えの再、真直ぐに横たわったそのままの人骨がそう深くない所に発見されたのを覚えている。多くの場合は風葬か軽い土葬をなし、一年または三年か七年の後に改葬をなし、合併して、または個別に、塚を作ってその遺骨を埋めたものと思われる。

 この人骨に関与した思考は、「真直ぐに横たわったそのまま」の姿だから典型的な埋葬思考によるものではない。改葬の後もないのであれば、霊力も霊魂も認めない前思考によるものだと思える。

『奄美に生きる日本古代文化』

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