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2014/12/05

オボツは他界なのか?

 J・クライナーは、「南西諸島における神観念・世界観の再考察」のなかで、シママモリ・シマタテの神を、「あの世」と「この世」の区別を持たない、「この世」の秩序を保つために村落に常在する神と位置づけている。一方、オボツ・カグラは、「あの世」を指し、従ってオボツ神は「あの世」から来訪するものとして捉えている。

 しかし、オボツとは「あの世」を指すだろうか。言い換えれば、オボツとは天上の他界を意味するだろうか。

 福寛美は、「『おもろそうし』の中の女の霊力と他界」のなかで、「おもろそうし」に歌われるニルヤ・カナヤとオボツを詳細に検討している。

 まず、ニライ・カナイの主である「ニライの大主」は、アマニコに化身して地上に豊かな霊力(ニルヤセヂ)をもたらすと謡われることがある。

 巻1-40 (前略)又赤口が 撥ねて/ぜるまゝが 撥ねて/又にるやぎやめ 通ちへ/かなやぎやめ 通ちへ/又あまにこの うらやて/けさにこの 聞ゑて/又にるや吉日 取りよわちへ/かなや吉日 取りよわちへ/又首里杜 うち歩で/真玉杜 うち歩で/又金の御内 真庭に/雲子御内 真庭に/又綾子浜 やびちへ/しつこ浜 やびちへ/又三庫裡 させわちへ/三庭あしやげ させわちへ/又肝が内の 生まれて/御肝内の 勝れて(後略)

(火の神が撥ねて、ニルヤ・カナヤにまでそのことをお伝えすると、祖先神であるアマニコ・ケサニコ様が心を動かして、ニルヤ・カナヤの吉日をお選びになり、首里杜、真玉杜に歩をお進めになり、王城内の蚊が屋敷神庭に、綾子浜に出現し給いて、三庫裡、三庭あしやげで祈願をさせ給う)

 これはアマニコを来訪神になぞらえた記述で、「二ライの大主」は他界の主であることが示されている。

 巻3-97 一地天鳴響む大主/にるやせぢ 知らたる/せぢや 遣り/大和島 治め(ニルヤの大主は、ニルヤセヂを豊かにお持ちである。セジを遣って日本本土をも攻めほろぼし、支配せよ。)

 ニルヤセヂは日本をほろぼすといった強い霊力を持つと考えられている。

 巻3-97 又大和前坊主の/あよなめの厳子/又山城前坊主の/ことなめのおが衆生/又精軍てゝ 発てば/干瀬と 合わちへ つい退け/又ゑそこてゝ 発てば/にるや底 つい退け/又肝が内に 思わば/肝垂りよ しめれ/又肝が内に 思わば/大地に 落ちへ 捨てれ/又天が下 国数/大主す よ治らめ(大和兵が来ても、王府軍が発って、岩礁にぶつけて退けてしまえ。海の底の悪いものをとじこめるニルヤ底に、退けてしまえ。呪詛して気力を失わせ、大地の底へ落とし、捨ててしまえ。天下のすべての国を治めるのは、首里の国王様である)。

 ここで言う「にるや底 つい退け」とは、地下に退けろというよりは、他界へ追いやってしまえという意味だ。

 ニルヤへの祈願には「水乞い」の例があり、またニルヤは訪れる神、神のごとき人の出自として謡われる。また、「ニルヤ、カナヤの名の冠せられた天体は、いずれも、その朝な、夕なに生成する水平線の印象に縛られており、中天高く輝く太陽や月ではない」。

 これらの整理からは、おもろ時代において、ニライ・カナイが他界として見なされていたことを示している。ただ、「二ライの大主」という存在は、他界のなかで高神的な存在を設定した作為が感じられる。

 これに対してオボツはどう記述されているか。

 巻12-732 一聞得大君ぎや/おぼつせぢ 降ろちへ/按司添いよ 見守て/君々や おぼつより 帰ら/又鳴響む精高子が/神座せぢ 降ろちへ(後略)(聞得大君が、オボツセヂ・カグラセヂを降ろし、国王様を見守るため、神女達はオボツより地上へ帰る。)

 オボツ・カグラは霊力に満ちた空間であるのは、ニライ・カナイと変わらないが、この霊力は「王府の高級神女が天上から地上へもたらした」とされている。

 福によれば、オボツ・カグラは「地上の人間がある程度、その有様を想像している」。

 巻12-691 一聞ゑ宣ん君が/首里杜 清らや/神楽の京の内る かに ある/又鳴響む宣ん君が/真玉杜 清らや(せん君が、首里内の杜で祭祀を行うさまのすばらしさよ。カグラの聖域内もかくある、と思われる)。

 「地上の、盛んで美しい祭祀の情景」から、類推が行われている。また、オボツ・カグラは美称辞として用いられている。

 オボツ・カグラはアマミやニルヤに比べ、きわめて具体的な姿をしている。前述したように、オボツの姿はある程度、地上の人間によって想像されており、そこは豊かな霊力の源、日神のいます場、神女が通う場、なのである(p.262)。

 福は加えて、オボツ・カグラとテダ、テルカハという日神との関係を検討している。

 テダ=神話的日神
 1.男性支配者の呼称・呼称の一部となる。
 2.地方、王府、共に信仰される。
 3.神女祭祀との結びつきは比較的うすい。
 4.物質的な太陽、という意味が強い。

 テルカハ
 1.男性支配者の呼称となることはない。
 2.王府のみで信仰される。
 3.神女祭祀と深く結びつく。
 4.霊力豊かな日神、という意味が強い。

 この整理を踏まえた上で、福は、

 『おもろそうし』の事例を分析したところ、地方オモロ時代には素朴なテダ信仰があった、ということがわかる。(テルカハ信仰の用例はない。)やがて王府オモロ時代になると、複雑なテダ信仰、テルカハ信仰がみられるようになる。すなわち、国王は、神話的には“テダの末裔”、宗教的には“テルカハの霊力を占有する者”となっていったわけである。そして、神話的概念である“天”と宗教的概念である“オボツ”を同一視し、その中に二神を位置づけたわけである。

 「おもろそうし」のオボツ・カグラの記述は、ニライ・カナイに比べて、イメージが貧弱というか乏しい印象を受ける。それは神女である人間が想像を試みることが可能な程度でしかない。日神という光も、そのイメージ性の乏しさを示すもので、具象性に欠けている。これらは、日神が高神を示すもので、オボツ・カグラは天上の高いというより、日神という高神のいる天上界を示すものと見なしたほうが妥当だと思える。

 安良城は、「大主」の特徴が、性別がなく、「子どももいなければ、兄弟もいないし、親もいない、勿論夫も妻もいない」存在であることから、この神観念は「未開に近い、マナ・アニミズムの世界に近似的なものを考えなければならない」としている。これを受けて、J・クライナーは賛成できない、として、「むしろこれは唯一神、至上神または創造神、絶対の神に近い要素であると見るべきではないだろうか」(「南西諸島における神観念・世界観の再考察」)と書いている。クライナーは、「大主」は高神ではないかと言いたいわけだ。これはクライナーの言う通りだが、他界のなかに設定された高神という作為なのだと考えることができる。他界に高神は存在しないから、王権に要請された作為だと見なすのだ。

 したがって、冒頭の疑問に戻れば、オボツ神が来訪するという「神迎え、神送り」の祭儀は、高神の儀礼に来訪神儀礼を接合したものだと考えることができる。


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