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2014/11/26

「肉の霊」と「骨の霊」

 「肉の霊魂」に対する関心が強い段階では、身体に霊力が備わると見なされる。ビンビンガ族やワラムンガ族では近親者が食人を行い、ヌラモ族では死汁を飲むのは、死者の霊力を自身に取り込もうとするその最も直接的な表現だ。また、アボリジニのなかには埋葬を行った後、掘り起こした骨を身体にこすりつける部族がいるが、これも同様の行為であり、食人の間接化と象徴化であると言える。

 例1.ビンガビンガ族(北部オーストラリア)。死体は死の直後、異半族の者が、頭を切り取り、肝臓を取り出し、全関節を切断する。地面に穴を掘って、火を焚き、石を熱し、切断した死体を置き、緑の小枝で覆い、その上に、土を積んで焼く。異半族の者が食べる。女は食べてはならない。

 例2.北部オーストラリアヨーク岬半島東岸の諸族。死体の各部は親族に分配される。心臓、肝臓は、最近親が食べる。食肉を与えるのは、同一氏族、同一半族に属するもの。死者の特別な徳や能力(たとえば、ヤム芋の採集に巧みであったらその能力)を獲得するため。

 例3.マラ族。死体は蒸し焼きのようにして焼く。死んだ人によって近親者の誰が食べるか決まっている。

 例4.ヌラモ族。老人や老婦人は、死汁を下に置いた石のうえに集めて飲む。昔は食人を行い、これが樹上葬に変わったという。

 例5.ワラムンガ族。森林のなかで低いゴムの木に木の枝で台をつくり、死体をその上に乗せる。死体が腐る前に死者の母は樹の下に座って死体の汁液を身体に塗る。これは本人も嫌なことだが、これが習慣なのだと言う。

 例6.「埋葬団一行は、大声で泣き叫びながら、死者の骨を掘り起こす。墓から取り出された骨は、きれいに拭かれ、埋葬者たちの身体に擦り付けられる。こうすることで、遺骸に宿る最後の「エッセンス」が埋葬者一人一人の身体に染み込まれてゆくのだ。死者の連れ合いは、頭蓋骨を使って同じようなことをする(P.475、『アボリジニの世界』)。

 ヌラモ族で、「昔は食人を行い、これが樹上葬に変わったという」と証言からだけでは、樹上葬は食人から移行したと断言することはできないが、少なくとも食人と樹上葬が、「肉の霊魂」の思考のなかにあることを示している。

 ワラムンガ族において、死者の死汁を身に浴びるのが母だということは、子の再生への呪術行為であると考えられる。


 骨も身体の一部だから、骨にも霊力は宿っている。しかしそれは、それに対応する霊魂が祖霊となり、人々の守護神となるという「骨の霊魂」主体の考え方ではなく、身体が持ちうる呪力の範囲を超えるものではない。その最たる現れは、ボーン・ポインティングに見られるように、呪具として用いられることだ。

 例1.ムクジャラワイント族。死体はブル・オークの樹に作った台上に葬る。死体が乾燥すると、頭と腕を切り取り、妻が持ち運ぶ。彼女の死去のときに共に葬るためである。彼の部族父と実の父は、脚の腓骨で呪具をつくる。

 例2.グナンジ族。樹上葬の場合、肉の大部分が消えると、樹皮紙に包み、長い間台上に残しておく。さらに乾燥して骨が容易に分離するようになると、木器に入れ、白くなるまで樹に残しておく。腓骨は取り、岱赭(たいしゃ)を塗って革紐でくるんで呪術のために保存する。これは呪術用尖棒(ポインティング・ボーン)として高く評価される。


 骨に岱赭(たいしゃ)を塗り赤くするのは骨に対する呪術行為を意味するが、ポインティング・ボーンとは違う目的の場合もある。ビンビンガ族においては人間としての再生に対する呪術行為であり、琉球弧においても同様だった。というより、琉球弧では血で染めるのではあれば、より古層を指すと考えられる。また、グナンジ族においては、生者が働きかけを行わないが、雨が骨を洗ってきれいになった時が再生のときとされていた。ここには骨に対する加工や洗浄が、肉としての再生につながるという思考が認められる。


 さらに、しばしば骨は砕かれる。マラ族においては、頭蓋が砕かれ、腕骨以外は埋葬されるが、腕骨はトーテム模様の棺に入れて岩穴に納められる。ワラムンガ族においては、腕骨の他は蟻塚の穴の中に落とし、腕骨は告別の後、砕いて埋める。マラ族とワラムンガ族の骨の処理は、最終的にはトーテムへの化身が目指されているが、ここでは骨が砕かれることが重視されている。アルンタ族は埋葬を行うが、「骨がまったく粉々になってしまうまでは、再化身は行われない」と考えられている。骨が粉々になることが、トーテムであれ人間としての再生であれ、必要とされている。それは、肉と骨が分解されることが、次の段階に進むための条件として考えられていることを意味している。

 例1.ワラムンガ族では、儀礼の中心になるのは、腕の骨のひとつである橈骨(とうこつ)だ。橈骨はていねいに包んでおかれているが、トーテムの儀礼のなかで、「先祖が土からでて、最後に姿を隠すまで、そのおもなしぐさが再現され、繰り返される」。最後のしぐさが終わると、橈骨を儀式の場所まで持ってきて、突然、引き裂かれる。ひとりの男が、それを斧で粉々に砕いてしまう。

男は、その破片を、かれの掘っておいた小さな穴に入れる。穴の近くには、絵がかかれていて、蛇がその子孫の魂を残して、地中に入ろうとするところを象徴している。それから穴は、石の蓋で閉じられる。この儀礼は《喪が終わって、死者はトーテムと一緒になった》ことを示している(p.104、『右手の優越―宗教的両極性の研究』)。

 例.マラ族。3、4ヶ月して骨がきれいになると、骨の包みを解いて、地上に落とし、骨を全部バラバラにして頭蓋を砕いて、膊骨の外は埋葬する。この後、母は骨を2、3年保存する。最終儀礼で、骨をトーテム模様をつけた丸太の棺に入れ、山腹の岩穴に隠すか、百合の生える流れの岸の木の枝に置く。

 そこで、骨への塗布や雨による洗浄、部分的な砕骨は、トーテムへの化身や人間への再生に進むための行為としては等価なのだと思える。

 なぜ、全骨なのか。樹上葬を行うところでは、しばしば長骨が重視されるが、それは「骨の霊魂」の思考のように、頭蓋が霊魂の座と見なされるように、長骨に霊魂の座を見ているからではないだろう。「肉の霊魂」の思考のなかでは、霊力は全身に宿っているとみなされるからだ。長骨が選択されるのは、霊力が濃密であるという理由によってではないだろうか。霊力は身体が担う。そこで、骨も身体全部を処置することになるのだ。棚瀬は埋葬思考と樹上葬・台上葬を比較した際、「頭蓋保存」と「全骨保存」としたが、事態を正確に捉えるためには、「頭蓋保存」と「全骨処理」としたほうがよいうように思える。


 ここでぼくたちは、樹上葬・台上葬と埋葬について、「肉の霊」と「骨の霊」をx軸、y軸とした図のなかに描くことができる。

Photo_2


 「肉の霊」思考が優位なところでは、霊は「霊力」として表出される。「骨の霊」思考が優位なところでは、霊は「霊魂」として表出される。(cf.「ロベール・エルツの「死の集合表象」」



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