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2014/11/25

ロベール・エルツの「死の集合表象」

 ロベール・エルツの「死の集合表象」(『右手の優越―宗教的両極性の研究』)の研究を通じて、琉球弧の葬法理解を進めてみる。

 エルツが取り上げているのは、インドネシアのカリマンタン(ボルネオ)のダヤク族を素材にした二重葬儀についてだ。

1.あいだの期間

 遺体はすぐ最終の墓場に運ばれるわけではなく、棺に入れられて一時的に家屋のなかや家とは別の場所の仮小屋に安置される。

 「死体の分解がすっかり済んで、骨だけになるまで待たなければならない」。「死と最終の儀式とのあいだの期間は、通常、死体が骸骨の状態になるのに必要な期間に相応する(p.47)」。「この期間は、死者はまだ地上の暮らしをすっかり終わっていないものと看なされる」。

 魂にとっては、生前の状態を延長させることになるが、これは危険で不吉な状態である。魂はふたつの世界の境目で暮らしている。あえて他界に入ろうとすれば、侵入者のように見なされる。現世では厄介なお客さまなので、近所では恐れられる。憩える場所がないので、魂はたえずうろつき歩く。お祭りが終わって、不安な状態にけをつけてもらうのを心配そうに待っている。だから、この期間、魂が悪さをするとみられても、べつに驚くことではない。ひとりぼっちなので、魂は生者たちを道連れにしようとする。魂にはこれといって生きる手立てはないので、生者のところから略奪してくるほかない。魂は近親者の服喪を厳しく監視して、ちょっとでも手抜かりがあったり、熱意がなかったりすると、苛立って近親者を病気にしてしまう。そこで、生者は同情と畏怖を感じる。「喪は、死者の状態の生者の側における投影にほかならない(p.78)」。

2.最終の儀式

 まず祭りの対象となる死者または死者たちの遺体の残部は、注意深く洗骨される。そして仮の墓場から引き取って、ぜいたくに飾った「男子集会所」に持っていく。そして葬儀を行う。

 これらの儀式がすむと、生者たちが骨にいだく感情も、これにさきだつ期間遺体がよびおこしていたそれとはちがったものになる。「もう排斥と嫌悪の情ではない。むしろ畏敬的な信頼の念となってくる。骨の山は、好意的な力を発して、村を不幸から守ってくれる、とともに生者たちの営みを助けてくれる(p.88)」。

 生者の家にも安置所を設けようとする。マライ半島ではこの特権を享けるのはたいてい首だけだが、それは「首がからだの本質的な部分であり、死者の能力の在り場所だからである」。「肉体から離れた魂にとって、その物的な支えになっているのは、骨であることが多い(p.73)」。

 すべてのダヤク諸族には根底に魂が肉体の残部(骨)と結びついて、サンドンやその周辺に住む、という考え方が認められる。

 魂は、七世のあいだ天界にとどまる。けれども一世を終わるごとに、次の再生のために死ななくてはならない。そして七度目の死を済ますと地上に戻る。魂は好んで村の近くに生えている茸や果実のなかに入る。そして女性がこれを食べると、その胎内に入って、やがて人間として再生する。ところが、果実が鹿とか猿とか動物に食べられると、魂は動物の胎内で化身する。しまいに、この動物を人間が食べると、魂はこの廻り道をして人間界に戻ってくる。反対に果実のまま腐ったり死んだりしてしまうと、魂は永久に消えてしまう。


 たくさんのことを端折って引用したが、ここで取り上げたいのは、レヴィ・ストロースがエルツの研究について、「肉の霊魂」と「骨の霊魂」(『パロール・ドネ』)という区別をしていることだ。

 この言い方になぞらえれば、「肉の霊魂」はこの世とあの世のあわいにあるもので、「骨の霊魂」は常にあるもので守るものだ。これは、来訪神と高神の関係と相似形をなしている。二重葬儀というのはつまり、来訪神と高神の観念を生むポテンシャルを持ったということを意味するように思える。

 また、エルツより一世紀後にいるぼくたちは、このダヤク族の葬法が台上葬に属し、そもそもは明瞭な他界観念や死者儀礼を持たないことを知っている。しかしダヤク族でも、台上葬は純粋な形では現れず、頭骨が尊重され、霊魂が他界へ向かうから、埋葬の思考が混入しているのを認めることができる。

 ここでは「肉の霊魂」と「骨の霊魂」は、最初の葬儀と最終葬儀という時間軸で現わされるが、これをそれぞれ独立した思考だと捉えてみる。

 エルツが挙げている例でいえば、近親食人慣行(エンド・カニバリズム)は、「肉の霊魂」に対しての典型的な思考が現れている。

それは「聖なる食事」であって、これには部族の成員のうち、きまったグループだけに参加が認められる。少なくともビンビンガ族では、女性はきびしくこれから閉めだされる。この儀式によって、生者たちは、死者がその肉に保っていた活力と特性とを自分の胎内に取り入れることができる(p.67)。

 「聖なる食事」では、霊魂が身体を抜け出して動きまわるのとは異なり、霊魂は身体に留まり、それは食人する近親者のなかに移行することが思考されているが、前者が「骨の霊魂」の思考であるのに対して、後者は「肉の霊魂」に対する思考だ。

 この「肉の霊魂」の思考を追うと、人間として再生する思考を生んでいる。再生までの最短期間についての報告としてエルツは挙げている。

まず、アルンダ族では、骨がまったく粉々になってしまうまでは、再化身は行われない。またナンジ族では、雨が骨を洗って、綺麗になったときに、再化身が実現する。むろんこうした表象は、きわめて特殊でまた一貫性にもとぼしいので、あまり重視してはならない。それにしても骨の状態と魂の状態とのあいだには、ある関連性があるように考えられる。すなわち魂は、いまのからだがまったくなくなって、はじめて人間界に復帰できるということである(p.107)。

 エルツとしてはダヤク族の資料を主に考察しているので、「きわめて特殊でまた一貫性にもとぼしいので、あまり重視してはならない」と例外的なみなしをしているが、エルツ以上に資料を持っているはずのぼくたちには、これは例外ではなく、「肉の霊魂」を重視した場合の典型的な思考法を見ているものだ。

 「肉の霊魂」が重視されるところでは、骨はどう扱われるか。棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』では、埋葬文化の頭蓋保存との比較で、樹上葬、台上葬における全骨保存とされていた。しかし、全骨保存はことの半面を示すに過ぎないのかもしれない。

 ワラムンガ族では、儀礼の中心になるのは、腕の骨のひとつである橈骨(とうこつ)だ。橈骨はていねいに包んでおかれているが、トーテムの儀礼のなかで、「先祖が土からでて、最後に姿を隠すまで、そのおもなしぐさが再現され、繰り返される」。最後のしぐさが終わると、橈骨を儀式の場所まで持ってきて、突然、引き裂かれる。ひとりの男が、それを斧で粉々に砕いてしまう。

男は、その破片を、かれの掘っておいた小さな穴に入れる。穴の近くには、絵がかかれていて、蛇がその子孫の魂を残して、地中に入ろうとするところを象徴している。それから穴は、石の蓋で閉じられる。この儀礼は《喪が終わって、死者はトーテムと一緒になった》ことを示している(p.104)。

 これは、『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』(棚瀬襄爾)では、「砕骨式」と書かれている。マラ族では、死者の食人を行う。骨3、4ヶ月して骨がきれいになると、骨の包みを解いて、地上に落とし、骨を全部バラバラにして頭蓋を砕いて、膊骨の外は埋葬する。この後、母は骨を2、3年保存する。最終儀礼で、骨をトーテム模様をつけた丸太の棺に入れ、山腹の岩穴に隠すか、百合の生える流れの岸の木の枝に置く。

 ワラムンガ族では橈骨は砕かれ、マラ族では、埋葬思考では重視される頭蓋が砕かれる。全骨保存といっても、マラ族では膊骨以外は保存されるというよりは埋葬される。ここでは全骨保存というよりは、骨は小さくさることが目指されているように見える。橈骨や膊骨は、埋葬思考における頭蓋を意味していない。むしろ、トーテムと同一化するための媒介だ。ここでは骨は最後の身体として、それが土に帰る状態になったところで、トーテム化することが思考されているのではないだろうか。すると台上葬に見られる全骨保存は、埋葬思考の頭蓋保存に影響を受けた砕骨の反転形ではないかと思える。

 「肉の霊魂」の思考が強いところでは、食人などによる肉への関心が強く見られ、骨はバラバラにされ、象徴的な個所が砕かされることによって、トーテム化することが考えられている。そして時に、肉は人間として再生する。「骨の霊魂」の思考が強いところでは、骨、とくに頭蓋に対する関心が強く、肉は朽ちるのを待たれる過程の存在にすぎない。

 ここで頭蓋とは高神の根拠となったものであり、「骨の霊魂」の思考が強いところで、再来する肉は来訪神化したのではないだろうか。また、「肉の霊魂」と「骨の霊魂」は、棚瀬襄爾の使っている用語でいえば、「生命霊」と「遊離霊」に対応させることができる。(cf.「「肉の霊」と「骨の霊」」

『右手の優越―宗教的両極性の研究』

『パロール・ドネ』

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