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2014/11/02

『近代アイヌ教育制度史研究』

 この研究がなされたのは、著者、小川正人が、「シャモ(和人)としての自分の歴史認識を鍛えたいと考えたことによっている」。「和人」ではなく「シャモ」という用語を用いるのは、贖罪意識からではなく、歴史的な用語として借用したいからだと断っている。

 アイヌ学校の設置は樺太アイヌの強制移住地・対雁(ついしかり)の教育所を皮切りに進行する。この過程はアイヌの土地や生業を奪うことを意味し、「文字」や「教育」の必要を痛感させることへ追い込み始めることを意味した。

 メモ。アイヌと琉球とを並べてみるとき、いつも感じるのは、強制移住や移民の流入の違いだ。もっとも土地を奪うことは、後になって米軍によって行なわれた。

 1890年に「近代アイヌ教育制度」が成立。アイヌ児童への日本語や日本国歌の秩序意識の注入が特徴。シャモ(和人)に比して「簡易」で「卑近」なものに押しとどめ、「別学」という原則をとった。別学では、「土人学級」などの蔑称とアイヌ学校を「見物」とする状況が生まれた。こうした体験によって、「自分たちが「劣った」存在として扱われていると感じさせられた」。

 アイヌ出身の「熱心」な教員が出てくる。為政者にとっては、コタン掌握の役割として期待していたことでもあった。アイヌ児童の就学率、出席率は急速に上昇する。

そこには、自らの文化を「滅びゆく」ものと感じざるを得ないほどの、伝統文化の伝承を「断念」するという痛切な意識があった。

 「近代アイヌ教育制度」は廃止される。先行した「アイヌ」という言葉をタブーとする表面的な「差別禁止」は、「共学」下の学校に実質的には持ち込まれることになった。

 アイヌ語と伝統文化の伝承を「断念」し「帝国臣民」たらんとした多くのアイヌの行動は、いかに政索動向と接近しているようであっても、それがシャモに伍そうとする民族意識に由来している以上、個々の程度や性格の違いこそあれ、根底の部分にシャモとの乖離を胚胎している。他方、日本社会は、ついにアイヌを対等に遇し、あるいはアイヌからの問いかけに対等に応えることはなかった。このズレは、アイヌがシャモに伍そうとすればするほどに、越えがたい壁として際立つ。

 メモ。「和夷同祖論」もあったのを知った。「日琉同祖」、「日鮮同祖」の同期。

 1875年、樺太アイヌは北海道へ強制移住。「保護」という名目だが、児童の通う対雁(ついしかり)教育所、学校を維持したのは、「他ならぬ樺太アイヌによる醵金や漁場労働の収益金である」。樺太アイヌが子供を学校に通わせようとする姿勢は、相当に積極的な面があった。

 それは近代日本社会に強制的に編入されたなかでの、余儀のない「選択」であり、だからこそ切実だった。

 樺太アイヌの対雁強制移住や教育政策の諸問題は、「保護」や「指導方針」の「不徹底」などではなく、「方針」がない弥縫の繰り返しによる。日露戦争後に樺太アイヌのほとんどが帰郷したのは、この経緯に対する強い指弾でもある。(「対雁(ついしかり)学校の歴史」、「教育学研究」80巻、2013年)。

 メモ。大和に対すれば、その圏外にある異族がアイヌと琉球。しかし近代日本に対すると、琉球は圏内と圏外の二重性を帯びたが、アイヌは依然として圏外として扱われた。その差異が、教育でどう現われたか、を見ることができる。

『近代アイヌ教育制度史研究』(小川正人、1997年)


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